の続きです
## 十
考えないようにすればするほど、残った。
週末の藍の疲れた顔。
蒼の頬の赤み。
藍の電話の声。
それぞれに説明がつかないわけではなかった。
でも説明がつくことと、
頭から離れることは別の話だった。
月曜の昼過ぎ、圭人は家を出た。
気晴らしというより、
部屋にいることに耐えられなくなったに近かった。
ジャケットを羽織って、財布だけ持って、鍵をかけた。
表に出た瞬間、視線を感じた。
道の向かい側に中年の男が立っていた。
五十代くらい、グレーのジャンパーを着て、
特に用事があるふうでもなく立っていた。
圭人が顔を向けると、
男はそのまま視線を動かさなかった。
じろじろと、というほど露骨ではないが、
明らかに見ていた。
誰かと間違えているんだろう、と圭人は思った。
知らない顔だった。
この辺に住んでいる人間でもなさそうだった。
気にしても仕方がないので、
圭人はそのまま歩き出した。
駅の方向に向かって、大通りを歩いた。
空は薄く曇っていて、風が少しあった。
歩くには悪くない天気だった。
駅前の大型スーパーに入ったのは、
特に目的があったわけではなかった。
書店が入っているのを思い出して、
本でも見ようと思った。
それだけだった。
書店のコーナーに入り、文庫の棚を端から流し見た。
背表紙を読んでいくだけで、
少し気持ちが整う感覚があった。
本屋にいるとき、圭人はいつも少し落ち着いた。
視界の端に、人影が入った。
最初は気にしなかった。
スーパーの書店だから人は多い。
でも何かが引っかかって、目が動いた。
蒼だった。
一瞬、見間違いかと思った。
今は平日の昼間で、学校がある時間だ。
制服を着ていなかった。
私服だった。
どこかで着替えたのか、最初から着替えて出たのか。
そして、隣に男がいた。
四十代から五十代の間くらいの、
サラリーマン風の男だった。
スラックスにジャケット、髪はきちんと整えてあって、
体型も崩れていない。
小綺麗な印象だった。
中小企業の経営者か、それなりの役職の会社員か、
そういう雰囲気があった。
蒼とその男は、手を繋いでいた。
圭人は棚の背表紙に視線を戻した。
藍の旦那か、と最初に思った。
だがすぐに違和感があった。
藍と蒼が話していた旦那の印象と、
目の前の男は合わなかった。
DVをする男というのは類型があるわけではないが、
それにしても、あの男には粗暴さの欠片も見えなかった。
物腰が柔らかく、蒼に何か話しかけながら歩いていた。
まあ、人は見かけによらない。
圭人は本の背表紙を読み続けた。
家族の問題だ。
自分が口を挟む話ではない。
蒼が嫌がっている様子はなかった。
むしろ、楽しそうに見えた。
それならなおさら、自分には関係ない。
数冊を手に取り、裏表紙のあらすじを読んだ。
三冊を選んで、レジに向かった。
その直前に、目が合った。
蒼と、視線が合った。
一秒にも満たない時間だった。
蒼の目が、圭人を認識した。
それははっきりわかった。
圭人は視線を外してレジに向かった。
スルーしてくれ、と思った。
頼むから。
---
会計を済ませて、
袋を持ってスーパーの出入り口に向かった。
自動ドアが開いた先に、蒼がいた。
壁に背中を預けて、腕を組んで、圭人を待っていた。
男の姿はなかった。
どこかに行ったのか、
それとも最初から一人で出てきたのか。
目が合った。
蒼がこちらに歩いてきた。
怒っていた。
表情に出ていた。
怒りというより、
困惑と怒りが混ざったような顔だった。
「今、学校終わったのか」
圭人は笑顔で言った。
顔が引きつっていることは自分でわかった。
蒼は圭人の顔を一瞥して、表情を変えなかった。
「少し話したいんだけど」
観念した。
---
ファミレスは昼時を過ぎても混んでいた。
学生のグループ、子供連れの主婦、
サボっているふうの会社員。
話し声と食器の音が重なって、適度にうるさかった。
案内されたのは奥のボックスシートだった。
四方を仕切られていて、
隣のテーブルの声は届かなかった。
圭人は紅茶を頼んだ。
蒼はコーラと山盛りのポテトを頼んだ。
長くなる、と判断したのだろう。
圭人も同じことを思っていた。
飲み物が来た。
蒼はコーラを一口飲んで、圭人を見た。
「付けてきたの?」
「違う」と圭人は言った。
「散歩の途中に本屋に寄っただけだ。
見かけたのは偶然だよ」
蒼はしばらく圭人の顔を見ていた。
「……あのおじさんが
どうしても大型スーパーに用事があるって、
行きたくなかったのに連れて行かれたんだよね。
やっぱり見られちゃったし」
少しふてくされた声だった。
怒りの矛先が圭人ではなく、別の場所に向いていた。
圭人は紅茶のカップを持ったまま、
蒼の言葉を頭の中で整理した。
あのおじさんが連れて行きたがった。
蒼は嫌だった。
それでも行った。
ということは、あの男は藍の旦那ではない。
「パパ活、ってやつか」
言葉が口をついて出た。
できれば言いたくなかった言葉だった。
でも他に言い方が見つからなかった。
蒼は表情を変えなかった。
「そう。
お母さんは知らないけど、結構前からやってる」
悪びれていなかった。
開き直りとも違った。
ただ、事実を述べるような言い方だった。
圭人は黙ってポテトを一本取った。
蒼の父親の言葉が頭に戻ってきた。
水商売か風俗で生きていけ、と言った男。
自分の娘にそう言った男の元で育てば、
こうなることもある。
論理としては繋がる。
繋がるが、
それで納得できるかどうかは別の話だった。
だが、他人の家族の話だ。
圭人には、とやかく言う立場がない。
藍がこれを知ったらどう思うか、
という考えが頭をよぎった。
それもすぐに消した。
藍の感情も、圭人がどうにかする話ではなかった。
「お母さんに言う?」
蒼が言った。
半分は諦めた声だった。
もう半分に何が入っているのか、
圭人には読み取れなかった。
「言わないよ」と圭人は答えた。
「家族の問題だし、俺は家族じゃないしな」
蒼の顔が、動いた。
怒りでも驚きでもなかった。
もっと小さい変化だった。
何かが、すっと引いたような顔だった。
「そうだね」
声が、絞り出すようだった。
圭人はその声を聞いて、
紅茶のカップをソーサーに戻した。
言ってしまった、と思った。
正確なことを言った。
本当のことを言った。
でも、正確で本当のことが、
正しいこととは限らない。
蒼の「そうだね」の中に入っていたものが
何だったのか、圭人にはわかった気がした。
家族じゃない、と言われることを、
この子はもう何度も経験してきたのかもしれない。
圭人はしばらく黙っていた。
ファミレスの喧騒が、
ボックスシートの外から聞こえていた。
山盛りのポテトが、
テーブルの真ん中で湯気を立てていた。