初恋の人や元カノが
ある日 突然 子供と一緒にやって来る
そんな物語ってよくありますよね
自分もそういうお話を作ってみました
# 忘れられない人
## 一
小学校三年生の春、
保田圭人は自分が恋をしているということを
初めて理解した。
理解した、というより、
理解せざるを得なくなった、
というほうが正確かもしれない。
朝、隣の家の門から彼女が出てきて、
ランドセルを背負って振り返り、
「圭人、早く」と言ったとき、
胸の奥でなにかが締まった。
物理的に、肋骨のあたりがきつくなるような感覚だった。
走って追いつき、横に並んでも、
その感覚はしばらく消えなかった。
なんだろう、これは、と思った。
風邪とは違う。腹が痛いのとも違う。
でも確かになにかがある。
三村藍(みむら・あい)。
同い年で、同じクラスで、家が隣で、
物心ついたときからずっとそこにいた。
圭人にとって彼女は空気や水に近い存在だった。
いて当たり前で、いないと息ができない。
ただ当時の圭人にはその感覚を
言語化する能力がなかったから、
それが恋愛感情だと気づいたのは、
別の男の子が彼女に話しかけているのを
見て初めて感じたあの嫌な感じ
——胃の下のほうが冷たくなるような、
落ち着かないような、
それでいてなにかに怒っているような感覚
——によってだった。
嫉妬だ、と圭人は後になって知った。
彼女はとにかく頭が良かった。
テストはいつもクラスで上位で、
でもそれをひけらかすことが一切なかった。
誰かが答えを間違えても笑わなかった。
逆に休み時間にこっそり教えに行くような子だった。
運動もそこそこ得意で、
足が特別速いわけではなかったが
体育の授業では常にきびきびと動いた。
背は圭人より少し低かったが姿勢が良く、
遠くからでもすぐ見つけられた。
圭人は彼女の隣が好きだった。
給食のとき、掃除のとき、登下校のとき、
隣にいると世界が少し明るく見えた。
それは比喩ではなく、本当に色が違って見えた。
空の青が濃くなるような気がした。
告白というものを圭人が初めて試みたのは
小学六年生の秋だった。
放課後、校庭の隅の鉄棒のそばで、
「好きだ」と言った。
言葉はごく短く、
うまく文章にすることもできなかった。
藍は少し驚いた顔をした後、困ったように笑った。
「圭人は弟みたいだから」
弟。
その言葉が圭人の中で長いこと響いた。
同い年なのに、弟。意味がわからなかった。
でも彼女の顔が真剣で、
嘘をついている様子がまったくなかったから、
腹を立てる気にもなれなかった。
なんで弟なんだ、とは思った。
ただ、好きなことに変わりはなかった。
二回目は中学二年生の夏だった。
そのころ圭人は少し背が伸びて、
彼女より頭半分高くなっていた。
部活のバスケで日に焼けていた。
自分なりに少し自信があった。
川沿いの土手を二人で歩いて帰る途中、また言った。
今度は少し長く、練習もした。
「俺はずっとお前のことが好きだ。付き合ってほしい」
藍はしばらく黙って歩いていた。
夕暮れ時で、川面がオレンジ色に光っていた。
「ごめん」
やはり短い言葉だった。
「圭人のことは本当に大事に思ってる。
でも、そういうふうには、やっぱり思えないんだよね。
なんでかわかんないけど、
圭人といると安心しすぎちゃうっていうか」
安心しすぎる。
それは欠点なのか、と思った。
でも怒れなかった。
彼女が困っているのが伝わって、
むしろ申し訳なくなった。
圭人はそういう男だった。
三回目は高校三年生の春、
進路が決まり始めたころだった。
藍は東京の大学を受験すると言っていた。
文学部で、小説が書きたいのだと、
照れながら話していた。
圭人は地元の大学に進む予定だった。
桜が散りかけたある日の放課後、
昇降口の前で圭人は最後の力を絞り出した。
三回目だからうまく言えるかと思ったが、
むしろ逆だった。
声が震えた。
「東京に行く前に言っておきたい。
俺はずっとお前が好きだった。
これからも多分そうだと思う。
だから、もう一度だけ、考えてくれないか」
藍は圭人の顔をまっすぐ見た。
今までで一番真剣な目だった。
「ありがとう」と彼女は言った。
「ちゃんと答えるね。
ごめん、やっぱり無理だ。
圭人のことを傷つけたくないから正直に言う。
好きだけど、好きじゃない。
友達とか、家族みたいな好きで、
それ以上になる気がしない。
ごめんね、本当に」
それが答えだった。
卒業式の日、
藍は白いセーターを着てきた。
学校の外で友人たちと写真を撮り、
笑い、泣いていた。
圭人は少し離れた場所から彼女の後ろ姿を眺めた。
春の光の中で、彼女の黒い髪が風に揺れていた。
幸せになってくれ、と圭人は思った。
声には出さなかった。
誰かに聞かせる言葉でもなかった。
ただ胸の中でそれだけを繰り返した。
幸せになってくれ。
俺はお前を好きだったけど、
それはお前には関係ない話だから、
お前はただ幸せになってくれ。
彼女の後ろ姿が人混みに消えていった。
---
## 二
あれから二十二年が経った。
保田圭人は四十歳になっていた。
彼の一日はだいたいこんなふうに始まる。
午前九時ごろ目が覚める。
起きることに急ぐ理由がないから、
しばらく天井を眺める。
昭和五十年代に建てられた一軒家の天井は
木目があって、よく見ると顔のような模様がある。
圭人はその顔に十年以上前から名前をつけていない。
つける必要がなかった。
台所でコーヒーを淹れる。
インスタントではなく、ちゃんとドリップする。
それだけは手を抜かない。
外は静かで、車の音が遠くに聞こえる程度だ。
その家は圭人が高校を卒業した後も両親が住み続け、
十年前に父が、その翌年に母が
相次いで他界したことで圭人が相続した。
圭人はすでに地元に戻っていたから、
引き継ぐことに躊躇はなかった。
建て替えも引っ越しも考えなかった。
両親が使っていた家具のほとんどをそのまま残した。
動かす理由が思いつかなかった。
外観は古い。
白かったモルタルの壁は年月で薄く汚れ、
玄関前の植木は圭人が剪定に不熱心なため
少しだぼついている。
近所の人から見れば、
そこに住んでいる男の生活は
よくわからないはずだった。
四十歳、独身、無職に見える。
昼間から家にいる。
仕事らしい仕事に出かけることもなく、
スーツを着ることもなく、
それでいて家が差し押さえられるわけでも
夜逃げするわけでもない。
宅配業者が週に何度も訪ねてくる。
本だったり、食材だったり、家電の部品だったり。
インターフォンのカメラで確認して、すぐ出る。
居留守を使ったことがない。
それだけは近所でも知られていた。
食事は半分が自炊、半分が出前だった。
自炊といっても手の込んだものは作らない。
炒め物、煮物、時々パスタ。
出前は中華か蕎麦が多かった。
食にこだわりはなかったが、不摂生でもなかった。
体型は大学時代とほぼ変わらず、
くたびれてはいるが不健康には見えなかった。
経済的な実態を知る人間は、
圭人の周囲にほぼいなかった。
大学に入学した年の秋、
暇つぶしのつもりで始めた株取引が、
本人も説明しきれない理由で当たり続けた。
最初は十万円だった元手が、三年で二千万を超えた。
そこで怖くなって一度やめたが、
しばらくして再開すると再び伸びた。
圭人は経済学を専攻していたわけでも、
金融の知識が特別豊富だったわけでもない。
ただ、数字を読む感覚と、
退くべきときに退く判断が、なぜか噛み合っていた。
三十歳の秋、
資産が五億を超えた時点で、
圭人はきっぱりと手を引いた。
もうやらない、と決めた。
根拠はなかったが、もうここまででいい、
という感覚があった。
それ以上増やすことに意味を見出せなかった。
増やしてどうする、という問いに対する答えが、
自分の中に存在しなかった。
それからは運用を最小限にして、
あとはただ暮らしていた。
贅沢はしなかった。
する気がなかった。
旅行に行くでも、高い車に乗るでも、
広い家に引っ越すでもなく、
両親の残した昭和の一軒家で、
古い家具に囲まれて、静かに暮らし続けた。
本は大量に買ったが、
それ以外の出費は驚くほど少なかった。
なぜそんな生き方をしているのか、と問われたら、
圭人はうまく答えられなかっただろう。
ただ、どこかで、まだ動く気になれないでいる、
という感覚が根底にあった。
それが三村藍と関係しているかどうか、
圭人自身も確信を持って言えなかった。
二十代の前半、
女性から告白されたことが何度かあった。
そのたびに、断った。
断る瞬間に決まって彼女の顔が浮かんだ。
比較しているつもりはなかった。
でも浮かんだ。
卒業式の日の彼女の後ろ姿が、
脳裏のどこかに焼きついていて、消えなかった。
拗らせすぎだ、とは自分でもわかっていた。
二十代の後半には、そういう自覚ははっきりあった。
よくある話だ。
初恋を引きずって生きている男。
そう言ってしまえば簡単だった。
でもどうしようもなかった。
彼女への気持ちが消えないというより、
他の誰かへの気持ちが湧いてこなかった。
積極的に藍を想い続けているわけでもない。
ただ、感情の向かう先が、ずっとそこしかなかった。
四十歳になったとき、
圭人はふと、
このまま一生こうして終わるのかもしれないと思った。
怖くはなかった。
ただ、少し静かな気持ちがした。
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## 三
その日の昼、圭人は台所で焼きそばを作っていた。
冷蔵庫に残っていたキャベツともやしと豚肉を炒め、
麺を投入してソースを絡める。
特別うまいわけではないが、手軽で腹に溜まる。
一人分の昼食としては十分だった。
インターフォンではなく、呼び鈴が鳴った。
古い家には呼び鈴がある。
インターフォンを後から設置したが、
外の柱には昔のままのベル式が残っていた。
宅配業者はインターフォンを使うから、
ベルが鳴ることは滅多になかった。
圭人はコンロの火を止め、
フライ返しを置いて、廊下を歩いた。
玄関を開けた。
そこに二人の女が立っていた。
一人は四十前後の女性で、
紺色の薄手のジャケットを着ていた。
小さめのボストンバッグと、
布製のトートバッグを持っていた。
顔は——。
圭人は一瞬、時間が止まった感覚を覚えた。
顔は、変わっていた。
二十二年分、確かに変わっていた。
目の端に小さな皺が生まれ、頬の線が少し変わり、
笑うと口元に深みが出るようになっていた。
でも、わかった。
一秒もかからず、わかった。
「圭人、久しぶり」
彼女は言った。
声も変わっていた。
でも、やはりわかった。
三村藍だった。
隣には女の子が立っていた。
高校生くらいの、制服姿ではないが
年齢はそれくらいに見える女の子。
顎のラインと、少し伏し目がちな目が、
高校時代の藍によく似ていた。
娘だ、と圭人は直感した。
「まだ実家にいたんだね。もういないかと思ってたよ」
藍は言って、笑った。
笑顔の中に、何かがあった。
疲れ、と言えばいいか。
眉の間のわずかな緊張と、
口角の上がり方がどこか力を使っているような。
二十二年前の彼女が持っていた、
あの屈託のない明るさとは、少し違った。
圭人は返事をしようとして、
自分の声が出るかどうか一瞬わからなかった。
「久しぶりだね。高校卒業して以来かな。
実家に帰って来たの?」
声は出た。
自分でも驚くほど平坦に出た。
ただ、言い終えた後に言葉が
宙に浮いているような奇妙な感覚があった。
動揺は、確かにあった。
心臓のあたりが、うるさかった。
藍は圭人の問いに、すぐには答えなかった。
少し俯いて、数秒があった。
「——少し、上がらせてもらって、話してもいいかな」
声は静かだった。
消えそうなほどではなかったが、力がなかった。
---
リビングは、圭人が思っていたより見られる状態だった。
自室は本が積み上がっていたが、
リビングはそうでもなかった。
母が使っていた古い木のテーブルと、布張りのソファ。
棚に文庫本が何冊か。
テレビはあるが小型で、存在感がなかった。
飾り気はなかったが、散らかってはいなかった。
圭人は二人を座らせて、冷蔵庫から麦茶を出した。
コップに注いでテーブルに置き、
向かいに腰を下ろした。
自室じゃなくてよかった、と思った。
その思考が少し可笑しくて、
自分でも気づかないくらい微かに表情が緩んだ。
藍は麦茶のコップを両手で持って、少し下を向いていた。
娘はテーブルの端で膝に手を置いて大人しくしていた。
「実は——」
藍は切り出した。
声のトーンが変わった。
話す前に一度息を整えるような、間があった。
「夫のDVで、家を出て来たんだけど」
圭人は黙って聞いた。
「うち、両親が数年前に亡くなって。
実家には妹が住んでるんだけど、
結婚するとき両親にも妹にも反対されて、
それでも結婚したくて、
家族と縁を切る形で結婚したから。
妹にはよく思われていなくて」
彼女は一度止まった。
言葉を選んでいるのか、
感情を整えているのか、
判断がつかなかった。
隣の娘はじっとしていた。
「今更、
DVで家出したから置いてほしいって、言い辛くて。
許してもらえるとも思えなくて」
泣きそうだった。
でも泣かなかった。
娘の手前だろう、と圭人は思った。
圭人は話を聞きながら、少し考えた。
よくあるパターンだ、という言葉が最初に頭を過ぎった。
それは冷たい言葉ではなく、ただの観察だった。
若い女性に好かれる男というのは、
どこか共通した特徴がある。
外見が派手、話が面白い、どこか危うい雰囲気がある。
チョイ悪、という言葉がある。
若いうちはそれが魅力に見える。
でも多くの場合、その種の男は将来を真剣に考えない。
努力を嫌う。
その場の快楽に正直すぎる。
そしてある日、女の方が現実の重さに気づく。
子供ができている。
借金がある。
暴力がある。
逃げようとすると追ってくる。
友人も家族も離れている。
よくある話だ。
本当によくある話だ。
でも——。
まさか藍が、と圭人は思った。
頭が良くて、真っ直ぐで、
弱い人に優しくて、曲がったことが嫌いで。
そういう人間が、なぜ。
しかし、考えてみれば、それが人間だ。
どれだけ賢くても、どれだけ優しくても、
恋愛のときだけ別の回路が動く。
二十二年の間に彼女の周りで何があったか、
圭人には何もわからない。
何かが彼女の判断を変えた。
それはその男の問題かもしれないし、
そのときの藍の問題かもしれないし、
家族との摩擦が影響したかもしれない。
どれかひとつが原因だったとも思えなかった。
人の人生は、そんなに単純じゃない。
圭人は今まで二十二年、
彼女を心のどこかで「完璧な人」として保存してきたと、
その瞬間に気づいた。
三回断られた彼女。
幸せになってくれと見送った彼女。
その像は、時間の中で動かなかった。
更新されることがなかった。
だが目の前にいるのは、
四十歳近くの、疲れた女性だった。
「これからどうするんだ?ひとまずホテルとか?」
圭人は聞いた。
藍は顔を上げずに、しばらく黙っていた。
やがて、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。
「——ここに、泊めてもらえないかな」
圭人は少し止まった。
「持てるだけのものは持ってきたんだけど。
お金は、ほとんどなくて。余裕が、ない」
彼女の声が、わずかに震えていた。
圭人は部屋の中を一度見回した。
古いリビング。
一人分の暮らし。
誰かを迎えたことが、ほとんどなかった空間。
多分、友人のところにはもう行った。
知人にも頼った。
誰かのところに当たって、もうここしかなかった。
そういうことだろう。
つまり自分は、彼女にとって、
最後に残った選択肢だった。
それが少し、痛かった。
でも——いや、違う。
どうでもいい。
順番はどうでもいい。
「部屋、空いてるから」と圭人は言った。
なるべく普通に聞こえるように。
「しばらく泊まっていいよ」
藍の顔が、かすかに変わった。
目に水気が出た気がしたが、彼女はこらえた。
「ありがとう。本当に助かる」
圭人は頷いて、麦茶を一口飲んだ。
突然、二人分の人間がこの家に加わる。
家族でもない。
赤の他人、と言えば言えるし、幼馴染と言えば言える。
どちらが正確かわからなかった。
これからどうなるんだろう、と思った。
答えは持っていなかった。
台所では、焼きそばがまだフライパンの上にあった。