第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

第三百十八弾「忘れられない人 その6」

第三百十九弾「忘れられない人 その7」

第三百二十弾「忘れられない人 その8」

第三百二十一弾「忘れられない人 その9」

の続きです

 

今回を含めてあと4回で終わります

 

 

## 十八

 蒼を引き離した後も、圭人の手が震えていた。

 部屋を出て廊下を歩きながら、
震えを止めようとしたが止まらなかった。
自室に入って鍵をかけた。
鍵をかける習慣がなかったのに、
今日は手が勝手に動いた。

 ベッドに倒れ込んで、布団を頭から被った。

 暗闇の中で、圭人は自分の呼吸を聞いていた。

 乱れていた。

 冷静を装った。
装えたかどうかはわからない。
蒼の前では何とか声を出したが、
内側では全く別のことが起きていた。

 蒼は高校生だ。
藍の娘だ。
手を出していい理由がどこにもない。

 それはわかっていた。
完全にわかっていた。

 でも、わかっていることと、感じていることは、
別の場所にある。

 圭人の頭の中で、二つの声が交互に鳴っていた。

 一方は言った。
あれは藍に似ている。
顎のライン、首の傾け方、ふとした仕草。
二十二年間、手に入らなかったものの残像が、
目の前にいる。
しかも向こうから近づいてきた。
かつての圭人が何度挑んでも越えられなかった壁を、
今なら越えられるかもしれない。

 もう一方は言った。
馬鹿なことを考えるな。蒼は藍ではない。
似ているのは外見の一部だけだ。
そもそも、藍への気持ちのリベンジを
別の人間で果たすという発想自体が、蒼に対する侮辱だ。

あの子を藍の代替として見ている時点で、圭人は最低だ。

 最低だ、と思った。

 思いながら、欲望は消えなかった。

 消えないことが、また自己嫌悪を呼んだ。
自己嫌悪が、また混乱を呼んだ。

 布団の中で、圭人はしばらく動かなかった。

 欲望を持つことと、欲望に従うことは違う。

 どこかで読んだ言葉が頭に浮かんだ。
感情は選べないが、行動は選べる。

 圭人は深呼吸した。一度、二度。

 少しずつ、呼吸が整った。

 震えが止まった。

 行動は選べる。
それだけを、今は持っていればいい。

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## 十九

 蒼は自室に戻って、ベッドに座った。

 スマートフォンを手に取って、
しばらく画面を見ていた。

 永井へのメッセージを打った。

 *何か家族にバレたっぽいから、
今の関係は終わりにしようと思う。*

 送信した。

 家族、という言葉を使ったのは、正確ではなかった。
圭人は家族ではない。
でも他に適当な言葉が思いつかなかった。

 しばらくして返信が来た。

 *少し考え直してくれないかな。今度会って話そう。*

 蒼は画面を見た。

 永井には妻がいる。
子供がいる。
それを蒼は知っていた。
バレれば大変なことになる。
それもわかっている。
それでも会って話したいと言う。

 なぜだろう、と蒼は思った。

 答えはわかっていた。
永井にとって、蒼との関係は失いたくないものだった。
でもそれは、蒼という人間を失いたくないのではなく、
蒼との関係が与えてくれる何かを失いたくないのだった。

 その違いを、蒼は言葉にできなかったが、
感覚として知っていた。

 父親もそうだった。

 蒼に対して怒鳴るとき、父親は蒼を見ていなかった
。自分の感情を向ける場所として蒼を使っていた。
それだけだった。

 永井も似ていた。

 蒼はスマートフォンを置いて、天井を見た。

 圭人の顔が浮かんだ。

 さっきの部屋で、蒼が抱きついたとき、圭人は固まった。

顔が赤くなった。
でも、手を出さなかった。
「離れろ」と言った。
静かな声だった。
怒鳴らなかった。

 父親なら怒鳴っていた。
あるいは、怒鳴らずに別のことをした。

 永井なら、喜んだ。

 圭人は、そのどちらでもなかった。

 この人は違う、と蒼は思った。
どう違うのかを説明する言葉を、蒼は持っていなかった。

ただ、違うということだけが、はっきりしていた。

 父性、という言葉を蒼は知らなかった。
求めているものに名前をつける知識が、
まだなかった。

 ただ、この人の近くにいたい、
という気持ちだけがあった。
それが何なのか、蒼にはわからなかった。
わからないまま、圭人の顔を思い浮かべると、
胸の奥が少し温かくなった。

 *おじさんなら、
私が成人するまでは手を出さないだろうな。*

 そう思った。

 根拠はなかった。
でも確信があった。

 *それでも、おじさんと一緒がいい。*

 蒼はスマートフォンを手に取って、
永井への返信を打った。

 *ごめん、やっぱり終わりにする。*

 送信した。

 既読がついた。
返信は来なかった。

 蒼はスマートフォンを枕の下に押し込んで、
布団を引き寄せた。

 圭人の部屋は、廊下を挟んだ向こうにある。

 静かだった。

 その静けさが、なぜか安心だった。