の続きです
今回を含めてあと4回で終わります
## 十八
蒼を引き離した後も、圭人の手が震えていた。
部屋を出て廊下を歩きながら、
震えを止めようとしたが止まらなかった。
自室に入って鍵をかけた。
鍵をかける習慣がなかったのに、
今日は手が勝手に動いた。
ベッドに倒れ込んで、布団を頭から被った。
暗闇の中で、圭人は自分の呼吸を聞いていた。
乱れていた。
冷静を装った。
装えたかどうかはわからない。
蒼の前では何とか声を出したが、
内側では全く別のことが起きていた。
蒼は高校生だ。
藍の娘だ。
手を出していい理由がどこにもない。
それはわかっていた。
完全にわかっていた。
でも、わかっていることと、感じていることは、
別の場所にある。
圭人の頭の中で、二つの声が交互に鳴っていた。
一方は言った。
あれは藍に似ている。
顎のライン、首の傾け方、ふとした仕草。
二十二年間、手に入らなかったものの残像が、
目の前にいる。
しかも向こうから近づいてきた。
かつての圭人が何度挑んでも越えられなかった壁を、
今なら越えられるかもしれない。
もう一方は言った。
馬鹿なことを考えるな。蒼は藍ではない。
似ているのは外見の一部だけだ。
そもそも、藍への気持ちのリベンジを
別の人間で果たすという発想自体が、蒼に対する侮辱だ。
あの子を藍の代替として見ている時点で、圭人は最低だ。
最低だ、と思った。
思いながら、欲望は消えなかった。
消えないことが、また自己嫌悪を呼んだ。
自己嫌悪が、また混乱を呼んだ。
布団の中で、圭人はしばらく動かなかった。
欲望を持つことと、欲望に従うことは違う。
どこかで読んだ言葉が頭に浮かんだ。
感情は選べないが、行動は選べる。
圭人は深呼吸した。一度、二度。
少しずつ、呼吸が整った。
震えが止まった。
行動は選べる。
それだけを、今は持っていればいい。
---
## 十九
蒼は自室に戻って、ベッドに座った。
スマートフォンを手に取って、
しばらく画面を見ていた。
永井へのメッセージを打った。
*何か家族にバレたっぽいから、
今の関係は終わりにしようと思う。*
送信した。
家族、という言葉を使ったのは、正確ではなかった。
圭人は家族ではない。
でも他に適当な言葉が思いつかなかった。
しばらくして返信が来た。
*少し考え直してくれないかな。今度会って話そう。*
蒼は画面を見た。
永井には妻がいる。
子供がいる。
それを蒼は知っていた。
バレれば大変なことになる。
それもわかっている。
それでも会って話したいと言う。
なぜだろう、と蒼は思った。
答えはわかっていた。
永井にとって、蒼との関係は失いたくないものだった。
でもそれは、蒼という人間を失いたくないのではなく、
蒼との関係が与えてくれる何かを失いたくないのだった。
その違いを、蒼は言葉にできなかったが、
感覚として知っていた。
父親もそうだった。
蒼に対して怒鳴るとき、父親は蒼を見ていなかった
。自分の感情を向ける場所として蒼を使っていた。
それだけだった。
永井も似ていた。
蒼はスマートフォンを置いて、天井を見た。
圭人の顔が浮かんだ。
さっきの部屋で、蒼が抱きついたとき、圭人は固まった。
顔が赤くなった。
でも、手を出さなかった。
「離れろ」と言った。
静かな声だった。
怒鳴らなかった。
父親なら怒鳴っていた。
あるいは、怒鳴らずに別のことをした。
永井なら、喜んだ。
圭人は、そのどちらでもなかった。
この人は違う、と蒼は思った。
どう違うのかを説明する言葉を、蒼は持っていなかった。
ただ、違うということだけが、はっきりしていた。
父性、という言葉を蒼は知らなかった。
求めているものに名前をつける知識が、
まだなかった。
ただ、この人の近くにいたい、
という気持ちだけがあった。
それが何なのか、蒼にはわからなかった。
わからないまま、圭人の顔を思い浮かべると、
胸の奥が少し温かくなった。
*おじさんなら、
私が成人するまでは手を出さないだろうな。*
そう思った。
根拠はなかった。
でも確信があった。
*それでも、おじさんと一緒がいい。*
蒼はスマートフォンを手に取って、
永井への返信を打った。
*ごめん、やっぱり終わりにする。*
送信した。
既読がついた。
返信は来なかった。
蒼はスマートフォンを枕の下に押し込んで、
布団を引き寄せた。
圭人の部屋は、廊下を挟んだ向こうにある。
静かだった。
その静けさが、なぜか安心だった。