第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

の続きです

 

今回 作中に出てくる桐島咲さんのお話は

第二百四十八弾「忘れていく」 にあります

 

 

## 十一

 その日の昼過ぎ、藍は街の中にいた。

 圭人が家を出た時間から、それほど間を置かずに出た。
エコバッグは持っていなかった。
買い物には行かなかった。

 待ち合わせ場所は駅から少し離れた
ホテルのラウンジだった。
観光客も使う場所で、
地元の人間と鉢合わせする確率が低かった。
藍はそういう場所を選ぶことに、もう慣れていた。

 男はすでに来ていた。

 窓際の席に座って、コーヒーを飲んでいた。
五十代の入り口くらいで、髪に白いものが混じっていた。

体型は崩れておらず、

スーツの着こなしに慣れた雰囲気があった。
中小企業の経営者か、それなりの地位の人間か。
実際のところ、
藍はこの男の仕事の詳細をあまり知らなかった。
聞いても、詳しくは教えてくれなかった。

 藍が席に着くと、男は顔を上げた。

 微笑んだ。それは本物の笑顔に見えた。

「来てくれた」

「来るって言ったじゃない」

 藍も笑った。
その笑顔の中に、何がどれだけ混じっているか、
藍自身にも整理がついていなかった。

 飲み物が来て、二人はしばらく他愛のない話をした。
男は気を遣う人間だった。
藍の体調を気にして、最近眠れているかと聞いた。
圭人のことは聞かなかった——しばらくは。

「妻と離婚していれば、君を家に呼べたのに」

 話が落ち着いたころ、男は言った。
窓の外を見ながら、独り言のような口調だった。

 藍は顔を伏せた。

 この言葉は何度か聞いた。
そのたびに、藍の中で何かが揺れた。
揺れるが、揺れた先にどこかがあるわけでもなかった。

「今はそうじゃないのだから、仕方ないじゃない」

 藍は静かに言った。
責めてもいない、諦めてもいない、
ただ事実を置くような言い方だった。

 男は藍を見た。

「あの男とは、何でもないんだよな」

 声に、かすかな緊張があった。
心配、というより、確認だった。

「彼はただの幼馴染よ」

 藍は微笑んだ。

 嘘ではなかった。
少なくとも、藍の認識の中では。圭人は幼馴染だった。
三回告白されて、三回断った。
弟みたいだと思っていた。
今も、その感覚は変わっていない——と、
藍は自分に言い聞かせていた。

 男は藍の答えを聞いて、少し息を吐いた。

 それから手を伸ばして、藍の肩を引き寄せた。
ラウンジの席で人目があったが、
男はあまり気にしない人間だった。

 藍は抵抗しなかった。

 男の腕の中で、藍は窓の外を見た。

 空は薄く曇っていた。

 圭人の顔が、一瞬だけ頭をよぎった。
あの、ぎこちなくドアを開けた顔。
麦茶を出すときの、少し落ち着かない目。
藍はその顔を頭の端に追いやって、
男の肩に視線を戻した。

 ただの幼馴染だ、と藍はもう一度思った。

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## 十二

 ファミレスを出ると、空が少し暗くなっていた。

 圭人と蒼は並んで歩いた。
並んで、というより、自然にそうなった。
蒼が隣に来たから、圭人は特に何も言わなかった。

 しばらく無言だった。

 商店街を抜けて、住宅街に入ったあたりで、
圭人は口を開いた。

「気をつけた方がいいぞ」

 蒼は前を向いたまま「何が」と返した。

「大人には悪い奴も多い。下手すると海外に売られるぞ」

 蒼は一瞬止まって、それから笑った。
声に出さない、鼻から息を抜くような笑いだった。

「ないない。そんなこと」

 圭人は蒼の横顔を見た。

 笑っていた。
本気で、ありえない話として聞いていた。

 そうだろうな、と圭人は思った。

 大学の後輩の顔が頭に浮かんだ。
名前は桐島咲といった。
真面目で、少し抜けているが憎めない男だった。
一年生の秋ごろから様子が変わり始めた。
約束を忘れる、昨日話したことを覚えていない、
そういうことが増えた。
最初はただのうっかりだと思っていた。

 だが違った。

 徐々に記憶が失われていく病気だった。
珍しい疾患で、若い人間にも発症することがあると
後で聞いた。
症状が進んで、桐島は大学を休学した。
その後、正確な経緯は圭人も知らない。
街をふらついているところを見つけた人間がいて、
その人間が反社と繋がっていて、
桐島は気づかないまま連れて行かれた。

 海外だった。

 しばらくして救出されて帰国したと聞いた。
実家に戻ったとも聞いた。
その後のことは知らない。

 桐島の話を、圭人は数人にしたことがある。
全員、最初は信じなかった。
信じないというより、自分には関係ないと思った。
そういう反応だった。

 人は、自分が持っていない情報を
体感として受け取ることができない。
頭では理解できても、腹には落ちない。
それは仕方のないことかもしれなかった。
情報と経験は別物だ。

 蒼には、その実感がない。

 パパ活の相手が紳士的に見えて、
今まで何も起きていないから、大丈夫だと思っている。
でも、大丈夫だった時間の長さは、
これからも大丈夫だという保証にならない。

 圭人にはそれが言えなかった。

 言えたとしても、届かないだろう。
圭人と蒼の間には、
まだそれが届くだけの信頼の厚みがなかった。
正しいことを言っても、
信頼がなければ言葉は壁で跳ね返る。

 結局、人は自分の得た情報が全てだと思う側に流れる。
自分が得ていない情報を信じさせることは、
関係のない他人には難しい。

 圭人はそれ以上何も言わなかった。

 蒼も何も言わなかった。

 二人は住宅街を歩き続けた。

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 角を曲がったところで、男とすれ違った。

 五十代くらいで、グレーのジャンパー。

 圭人は一瞬で思い出した。
今日の朝、
家を出たときに向かいで立っていた男だった。

 男は歩いてきて、圭人と蒼の横を通り過ぎた。
通り過ぎながら、視線が動いた。
圭人を見て、蒼を見た。
立ち止まりはしなかった。
そのまま歩いていった。

 圭人は前を向いたまま、数歩歩いてから言った。

「今すれ違った男、知ってるか」

 蒼が振り返った。

 男もこちらを向いていた。

 距離が三十メートルほどあった。
それでも視線がはっきりわかった。

「気持ち悪い。あんな人は知らない」

 蒼は前を向き直した。
声に、ためらいがなかった。
本当に知らないのだろう、と圭人は感じた。

「朝、家を出たときにもいた。同じ男だ」

 圭人は静かに言った。

「だから、
もしかしたら藍か君のストーカーかと思って」

 蒼は少し考える顔をした。

「私は見たことない。……お母さんかなあ」

 自信なさそうな言い方だったが、
自分には心当たりがないという確認でもあった。

 圭人は黙って前を向いた。

 藍のストーカー。

 あるいは、旦那が送り込んだ人間。
DV加害者が別居した相手の居場所を
確認しようとすることは、珍しくない話だった。

 どちらにしても、圭人には全容がわからなかった。

 ただ、朝と昼に二度、同じ男を見た事実はある。

 家に帰ったら藍に話すべきか、と圭人は考えた。

 話せば藍の事情に踏み込むことになる。
それは圭人が自分に課した一線の、すぐそこにあった。

 でも、黙っていて何かが起きた後では遅い。

 圭人は歩きながら、
どこまで言うかを静かに整理し始めた。

 隣で蒼は黙って歩いていた。

 その横顔は、さっきより少し硬かった。