の続きです
## 十六
藍はスマートフォンの画面を見ながら、
自室のドアを静かに閉めた。
田所へのメッセージを送ったのは
夕食の後片付けが終わってからだった。
蒼はもう自室に上がっていて、圭人も部屋にいた。
家の中は静かだった。
既読がついて、すぐに返信が来た。
*その男は君たちを守るために僕が雇った護衛だよ。*
藍は画面を見つめた。
数秒、意味を理解しようとした。
護衛。
自分たちを守るために。
田所が雇った。
驚きが先に来て、
それから何か温かいものが胸の奥から上がってきた。
藍はその感覚に、少し目を閉じた。
この人は、と藍は思った。
自分が知らないところで、
こういうことをしてくれる人だった。
田所と初めて会ったのは去年の秋だった。
でも田所という人間を理解するには、
もう少し前から話を始めなければならなかった。
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二十代の前半、藍は走り続けていた。
東京の大学に進んで、
文学部で小説を書きたいと思っていた。
でも現実はそうならなかった。
授業より、アルバイトより、
男との時間の方に引っ張られた。
地元を出た解放感と、東京という街の速度の中で、
藍は自分の軸を少しずつ失っていった。
旦那になる男と出会ったのは二十三歳のときだった。
明るくて、話が面白くて、
一緒にいると退屈しなかった。
藍の周囲の男とは違う空気を持っていた。
引っ張られた。深く考えなかった。
妊娠がわかったのは付き合って半年後だった。
産む、と藍は決めた。
男も逃げなかった。
それだけで、当時の藍には十分だった。
両親が反対した。
妹も反対した。
相手の男を一度も会わせていなかったから、
反対するのは当然だった。
でも藍には聞こえなかった。
自分の選択が正しいと信じていた。
縁を切ってでも、と言ったのは藍の方だった。
蒼が生まれて、子育てが始まった。
恋愛する時間がなかった。
夫婦として向き合う時間もなかった。
気づいたときには、
二人の間に会話がなくなっていた。
ストレスは蒼に向かいそうになった。
向かいそうになるたびに、藍は自分を止めた。
止めることで溜まったものが、
今度は別の場所に向かった。
夫に怒鳴った。些細なことで泣いた。
感情の振れ幅が大きくなっていった。
夫は藍を持て余し始めた。
不倫を知ったのは
蒼が小学校に上がったころだった。
スマートフォンに残っていたメッセージを、偶然見た。
偶然、というより、疑っていたから確認した。
何の為にこの人生を選んだのだろう、と藍は思った。
両親を捨てて、妹を捨てて、地元の全てを捨てて、
選んだ先がこれだった。
蒼を連れて消えてしまいたい、
という考えが頭をよぎったのはその頃だった。
消えてしまいたい。
蒼と一緒に、どこか誰も知らない場所に。
その考えが何を意味するのか、藍は直視しなかった。
直視できなかった。
ただ、毎日その考えが頭の端にあった。
どうにか、踏み留まった。
蒼がいたから、というより、
蒼に申し訳なかったから、という方が正確だった。
自分の感情で
蒼の人生を終わらせることはできなかった。
一人で家を出ることも考えた。
蒼を置いて、自分だけ消えることを。
でもそれも、できなかった。
結局、藍はどこにも行けなかった。
行けないまま、日々が続いた。
妄想が増えていった。
現実と別の場所に意識が逃げることが多くなった。
夫はそれに対処できなくなり、
愛人の家に泊まることが増えた。
帰ってこない夜が、週に何度もあった。
蒼は、夫にも藍にも、平等に接していた。
藍はそれを、蒼が父親に懐いていて
自分には懐いていないと感じていた。
でもそれは藍の認知の歪みだった。
蒼はただ、両方の親をなくしたくなかっただけだった。
その子供なりの必死さを、藍は見ることができなかった。
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アルコールに手を出したのは、ある日の夜だった。
蒼が寝た後、台所に残っていたビールを飲んだ。
久しぶりのアルコールが、
頭の奥にあった重たいものを少しだけ溶かした。
それから毎日飲んだ。
量が増えていった。
ある日の昼過ぎ、買い物の途中で意識を失った。
路上だった。
気づいたときには知らない天井があった。
病院だった。
田所が救急車を呼んでくれた。
仕事の外回りの途中だった、と後で聞いた。
夫と蒼が来た。
夫は事情を聞いて、一言だけ言った。
「アル中が治るまで入院しろ」
それだけだった。
入院した。
夫は一度も来なかった。
蒼はたまに来た。
来るたびに、何か話しかけてくれた。
でも藍には、蒼が何を言いたいのか
うまく受け取れなかった。
自分の状態が、
人の言葉を真っ直ぐ受け取れなくしていた。
田所は頻繁に来た。
花を持ってきた。
本を持ってきた。
ただ隣に座って話を聞いてくれた。
何も求めなかった。
責めなかった。
藍の話を、最後まで聞いた。
病院の窓から外を見ながら、
田所と話している時間だけが、
藍には呼吸できる時間だった。
惹かれていった。
それが正しいかどうか、考える余裕は藍にはなかった。
ただ、この人が来ると息ができる、
という感覚だけがあった。
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退院の日、病院の玄関に来たのは田所だけだった。
夫は来なかった。
蒼も来なかった。
田所の車に乗った。
どこに行くかは聞かなかった。
どこでもよかった。
ホテルだった。
翌日、家に帰った。
蒼の部屋のドアが閉まっていた。
ノックして、返事がなかった。
開けると、蒼が床に座っていた。
泣いていた。
「どうしたの」
聞くと、蒼は顔を上げて、それから俯いた。
話してくれるまで、時間がかかった。
話の内容を聞いた瞬間、
藍の頭の中で何かが切り替わった。
夫が、蒼に、手を出した。
思考が止まった。
止まって、また動き出したとき、
藍はもう動いていた。
家中の現金をかき集めた。
通帳を取った。
蒼の学校の書類を取った。
着替えを詰めた。
蒼の手を引いて、家を出た。
行く場所は決まっていなかった。
田所に頼ることも考えた。
でも田所には家族がいる。
そこに転がり込むことはできなかった。
友人に連絡した。断られた。
別の友人に連絡した。
事情を話すと、しばらく考えて、
やっぱり難しいと言われた。
歩きながら、
スマートフォンの連絡先を上から見ていった。
圭人の名前があった。
高校を卒業してから一度も連絡を取っていなかった。
二十二年分の空白がある。
でも実家にいるかもしれない、と思った。
いなければ、そのときに考えればいい。
電車に乗った。
圭人の家の呼び鈴を押したのは、
その日の昼過ぎだった。
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藍はスマートフォンを持ったまま、
部屋の暗闇の中に座っていた。
田所の「護衛」という言葉が、まだ頭の中にあった。
この人は私を守ろうとしてくれている、と藍は思った。
その思いに縋りながら、
藍は画面に感謝の言葉を打ち込んだ。
*流石、私を救ってくれた人ね。*
送信した。
部屋の外は静かだった。
圭人の部屋の気配が、廊下の向こうにあった。