の続きです
## 十三
玄関のドアを開けると、藍がリビングにいた。
エプロンをつけていた。
夕食の準備を始めていたのかもしれない。
圭人と蒼が並んで入ってきたのを見て、
少し目を丸くした。
「どうしたの、二人で」
「散歩に出たら駅前で偶然会ったから」
圭人は靴を脱ぎながら言った。
それだけ言って、廊下を歩いて自室に向かった。
余計なことを言わなかった。
言いたいことはあったが、今は整理が必要だった。
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リビングに藍と蒼が残った。
蒼は冷蔵庫からお茶を取り出しながら、
何気ない口調で言った。
「ねえ、お母さん」
「なに」
「この頃、中年の男の人が家の近くを
うろついてるのを、圭人さんが見かけたみたいで」
藍の手が、一瞬だけ止まった。
包丁を持っていた。
にんじんを切りかけていた。
その手が、ほんの一拍、静止した。
蒼はそれを見ていなかった。
お茶のパックをコップに入れながら続けた。
「さっきもいたんだって。
私も一緒にいたから見たんだけど、知らない人だった。
お母さん、ストーカーとかされてない?」
藍は包丁を動かし始めた。
心当たりはあった。
すぐに顔に浮かんだ。
今日の昼、ラウンジで会った男ではない。
別の顔だった。
グレーのジャンパー。
五十代くらい。
彼が動いた、と藍は思った。
夫が誰かを使って居場所を確認しようとしている。
そういうことをする人間だった。
口で怒鳴るより、
じわじわと追い詰める方を好む男だった。
だが、それを蒼には言えなかった。
言えば蒼が怖がる。
圭人に伝わる。
圭人に余計な心配をかける。
そして、今日の昼のことが
——自分がどこにいたかが
——芋づる式に出てくるかもしれない。
藍は表情を動かさなかった。
「そんな人、知らないけど」
声は穏やかに出た。自分でも驚くほど自然だった。
「怖いわねえ。気をつけないとね」
蒼は「だよね」と言って、お茶を飲んだ。
それ以上追ってこなかった。
藍は後で彼に連絡しよう、と思った。
夫が動いているなら、先に知らせておく必要があった。
にんじんを切り続けながら、
藍は自分の手元だけを見ていた。
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## 十四
翌日の昼過ぎ、
某会社のオフィスフロアは落ち着いた空気の中にあった。
主任と呼ばれる男——田所といった——は、
書類の束を手に課長のデスクに向かった。
四十代の後半で、生真面目そうな顔つきをしていた。
スーツはいつも同じグレーで、
ネクタイの柄だけが変わった。
仕事は丁寧で、上からの評価は悪くなかった。
課長のデスクに書類を置いた。
「課長、昨日の資料のまとめです」
課長——永井といった——は受け取って、
ぱらぱらとめくった。
五十代の入り口で、髪に白いものが混じっていた。
体型は崩れておらず、物腰が柔らかかった。
書類から顔を上げて言った。
「全く問題ないな。
これからもよろしく頼むよ、主任」
「ありがとうございます」
田所は頷いた。
踵を返しかけたとき、永井が思い出したように言った。
「そういえば、主任のお子さんは中学生だったっけ」
「はい。課長のお子さんと同い年です。
うちは女の子ですけど」
「女の子か。いいなあ」
永井は少し表情を緩めた。
「うちは男だけど、口もきいてくれないし。
たまに話があると来たと思ったら金の無心ばかりだよ」
田所は愛想笑いを返した。
「娘は妻とばかり一緒にいて、私はいつも除け者ですよ。
今度の週末も二人で出かけるみたいですが、
どこに行くかも知りません」
苦笑いだった。
本音の部分もあったが、
どこまでが本音かは田所自身にも判然としなかった。
「お互い、家族には恵まれなかったのかもなあ」
永井は笑った。
自嘲とも冗談ともつかない笑いだった。
田所も笑った。
二人は笑いながら、
それぞれの午後に戻っていった。
永井が今日の昼に会っていた女性のことを、
田所は知らなかった。
田所が昨日の夕方に高校生の女の子と
大型スーパーを歩いていたことを、
永井は知らなかった。
知らないまま、二人の午後は続いた。
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## 十五
圭人は自室の椅子に座っていた。
本は開いていなかった。
窓の外が少し暗くなってきていた。
夕方に差し掛かる時間だった。
階下からかすかに音がする。
藍が夕食の準備をしているのだろう。
考えていた。
考えないようにしよう、と思えば思うほど、考えた。
人間というのはそういうふうに
できているのかもしれない。
意識して排除しようとすれば、
排除しようとしていること自体が
意識を向け続けることになる。
それに、と圭人は思った。
暇だった。
四十歳で、仕事がなく、毎日家にいて、
外出も少なく、人と話す機会もほとんどなかった。
そういう生活を何年も続けていた。
精神的に歪んでいても、誰も気づかなかっただろうし、
自分でも気づきにくかった。
藍と蒼が来てから、
初めて他人の気配が家の中に入ってきた。
それが圭人の普段使っていなかった部分を
動かし始めていた。
考えまいとしていたことを、
圭人は正面から考え始めた。
DVで家を出た、と藍は言った。
でも、痣がなかった。
それだけでは何も言えない。
DVは身体的なものだけではないし、
見えない場所にあることもある。
それはわかっていた。
でも他にも、引っかかることがあった。
旦那がDVをする人間なら、
別居した妻の居場所を探そうとするはずだ。
そういう男は追いかける。
だとすれば藍は怯えているはずで、
外出するときにもっと警戒するはずだった。
でも藍は普通に一人で買い物に出た。
それに、幼馴染とはいえ、
二十年以上会っていない男の家に来るというのは、
相当追い詰められていなければできないことだ。
他に頼れる人間が本当に誰もいなかった、
ということか。
本当にそうなのか。
圭人の頭の中で、
ぼんやりとした輪郭が浮かびかけていた。
藍にも、誰か男がいるのかもしれない。
根拠はなかった。
ただ、電話の声が頭に残っていた。
あの、力の抜けた、警戒のない声。
それは恋人か、
それに近い誰かに向ける声の出し方だった。
だとすれば、なぜここに来た。
その男を頼ればいい。
でも頼れない事情があった。
既婚者か、あるいは別の理由か。
そして、ここに来ることで、
その男には言えない何かを確保しようとしている。
全部が推測だった。
確認する方法も、確認する権利も、圭人にはなかった。
でも、もしこれが当たっているなら。
圭人は窓の外を見た。
空が暗くなっていた。
俺はいいように利用されているだけか、
という考えが、頭の底から浮いてきた。
追い払おうとしたが、今日は粘った。
利用されている。
その言葉を転がしてみた。
おかしな話だ、と圭人は思った。
利用されることを承知で受け入れたのは自分だ。
見返りを求めない、と自分で決めた。
それなのに「利用されている」と感じるのは、
どこかで見返りを期待していた証拠だ。
結局、全部が自分の欲望の話だった。
善意だと思っていた部分も、
見栄だと認めた部分も、
その底にあるのは、
二十二年間ずっと同じものだった。
圭人は椅子の背もたれに体重を預けた。
自分は何をやっていて、何がしたいんだろう。
答えは出なかった。
ただ、薄暗くなった部屋の中で、
その問いだけが残った。
階下から、夕食の匂いが上がってきた。
味噌の匂いだった。