伊藤史子(いとうふみこ)です。
自分史。これまでの記事はこちらです。
【子供時代~大学編】
【SE(システムエンジニア)時代編】
⑫もう限界・・・。楽しかったけどきつかったSE人生にピリオド
【出産・子育て・アトピーとの闘い編】
⑬妊娠〜阪神大震災~出産。いのち。そして生かしてもらっているということ
⑭2人の子供を持つが…壮絶なアトピーとの闘い。でもそれは嵐の前だった
地獄のようなアトピー治療の始まり。
娘3歳11か月。息子1歳なったばかり。
娘が幼稚園に入りました。
幼稚園はアレルギーに理解のあるところで、ものすごくよくしてくれました。
除去食、砂場では手袋着用。
先生方はとてもやさしく、娘も楽しく幼稚園に通っていました。
その頃アトピー治療で通てたのは食事療法のキツイ病院。
もう食べるものもないくらい?と思うほど。
でも全部を除去することもできない。
食べるものがなくなる。
また、私のアトピーもひどくなりつつあったころで、体もものすごくしんどく、自分のことだけでも精いっぱいのころ。
そして、子育ても一番しんどい時期でした。
それでもいいと言われたことはすべてやってきた、という感じがあります。
除去食と、かなりゆるいステロイドをぬっていたのですが、全くよくなる気配がない。
それどころか、どんどん赤見は増す・・・
今ならこの状況が理解できます。
アレルギーってこんなものではない。
でも、当時はこれだけやっているのになぜ?という気持ち・・・
自分も責めてました。
心も折れかけていたんです。
実はそのころから我が家にはパソコンがあり、自由に検索したり使ったりできてたんです。
見るに見かねた旦那がインターネットでいろいろと探しまくる。
そして、見つけた漢方の病院。
通える範囲にあるとわかったのです。
そこのホームページは手記がたくさんあり、かなり覚悟を持っていかないといけないとわかったのです。
でも、自分はまだそこまでひどい状況とはなんとなく思ってなかったんです(楽観的?!)
それでも行くまでに数ヶ月の決心が必要でした。
娘が年中の秋、運動会が終わったある日、意を決して行ったところ…
漢方の治療を行うことに。
でも・・・
娘と私の、地獄のような日の始まりだったのです。
藁にもすがる思いでよくなると思ってた私は甘かったのです。
この地獄だった日々の話は次回に書きますが、治療開始から約1年半後の、娘が年長の2月には東京に2人で泊りがけで行ってるので、そのころには完治とは言わないまでもかなりよくってたんだな、と今も話しています。
当時の私には、治らない、という選択はなかったんです。
つづく!
今回、病院の名前はこちらでは公表はいたしません。
また、質問等をいただきましてもお答えはできません。
ご了承くださいませ。
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