和田家文書の中から、面白いと思ったものを紹介しています。

今日は「伊達政宗」についての記述を見つけたのでご紹介します。





天正15年(1587年)、世は戦国時代。
玉賜・信夫・伊達三郡に君臨する伊達政宗は非常に優れた武将です。家臣の信任に厚く、当時の鎌倉御家人や地元豪族に立ち向かい奥州を制覇しました。優れた家臣団の高い交渉能力によるもので、彼らををまとめ上げたのは政宗でした。

秀吉の惣無事令により私戦を禁じられたのが天正15年(1587年)。そして政宗が会津の芦名義弘を討ち取ったのは天正17年(1589年)でした。
秀吉は惣無事令に反した政宗を討取り、奥州日本までも平定しようと考えていました。


その後、政宗は小田原攻めに参加しなかった事を咎められ、白い死装束で秀吉との対面に向かいました。


昭和62年 大河ドラマ「独眼竜政宗」より

※画像お借りしました。


「小田原攻めに出陣しようとした前夜、実の母に毒殺を計られ、母の溺愛する弟小次郎を自らの手で殺しました。狂気の如く悲しむ母は蟄居(ちっきょ、家の断絶と謹慎)させました。そんな事があり参陣できず申し訳ない」

とのべると、秀吉はその度量とわざわざ詫びに来たことに免じ、会津・岩瀬・安積の領地を没収するのみとして、政宗の本領は守られたのでした。



小田原攻めの後、奥州仕置、刀狩などによって太閤検地が行われました。年貢の不平が陸羽の一揆となり、南部では九戸政実の乱、和賀稗貫の一揆、仙北の一揆、葛西大崎一揆、南山一揆と拡大しました。
これは政宗の扇動したものだとして、秀吉は上洛を命じました。上洛を命じる書状が届いたのは天正19年(1591年)1月19日。晦日(末日)に米澤を出発し、2月4日には京にはいりました。
この時の政宗の行列は300騎、先頭には金箔の貼られた磔(はりつけ)柱。これらは人々の注目を浴びました。そして政宗は2度目の死装束で秀吉に対面しました。

秀吉は、蒲生氏にあてた一揆を扇動したとされる書状に政宗の鶴鴒(セキレイ)の華押(本人であるサイン)があることが動かぬ証拠だ、と詰め寄りました。
すると政宗は「これは偽物だ」と笑って「私は華押の鳥の目に針穴を開けている。しかし、これには針穴がない」と言いました。それで過去の書状を確認すると全てに針穴が開いていました。これにより政宗は咎められませんでした。

政宗の花押

※画像お借りしました。


天正19年(1591年)の秀吉の朝鮮出兵の命令によって文禄元年(1592年)に3000の兵を出兵させましたが、ついに勝利できず朝鮮を引き揚げたということです。
こうして秀吉の清国討伐は果たされず、世の流れは東国政権が濃厚となっていくのでした。

文政5年8月2日  竹島常郷

(和田家文書コレクション 丑寅風土記 第全六ノ六より)



この段の現代語訳は自信がありません💦だいぶ端折りましたし、訳も違うかもしれません。間違えていたらごめんなさい🙇‍♀️

政宗公は派手な演出がお得意ですね✨
政宗公の死装束エピソードはドラマなどで見て知っていましたが、遠い津軽に残された文書にもでてくるとは思いませんでした。

米澤から京まで5日で到着していますね。詳しい地点が分からないので、仮に米澤を山形県米沢市として京都御所までをGoogleマップで見てみると、徒歩だと「637km、6日1時間」とのこと。
まさかぶっ通しで歩いたのではないですよね❓ご飯を食べたり休んだりしないといけないから、その分を差し引くとかなり急いで歩いた(走った⁉️)のでしょうね。‥すごい驚き

政宗公の花押は何種類かあるようです。この画像のものにも針穴があいているのでしょうか。しかし、どこが目に当たるのか分かりませんね。

次回も伊達政宗公について続きます。



おまけウインク

trialTripper2さんのYouTubeチャンネルから
NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」OPオーケストラMIX




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