和田家文書の中から、面白いと思ったものを紹介しています。

「伊達政宗」について前回のつづきです。





伊達政宗が秋田実季(さねすえ)に対面を果たしたのは慶長2年(1597年)5月22日のこと。


秀吉に2度目の朝鮮出兵を命じられた政宗は、前回の敗因は海兵の弱さにあったと考えました。

そこで秋田実季(さねすえ)に「山靼船・韓船・唐船より早く走るという安東船の設計図が欲しい」と再三の書状を出しましたが「無い」と断られていました。さらに支倉常長(はせくらつねなが)を派遣しましたが果たされず、この年、秋田氏に請い願うこと三度。ついに実季自ら江刺村(現:岩手県奥州市)に出向き、政宗との対面が果たされたのでした。


この時、秋田では地元豪族の反乱に警戒していましたが、実季はその最中を抜け出して会いにきたのでした。


江刺村は古田重直が代官として治める伊達領ですが、古い時代には宇曽利(現:むつ市)の阿倍富忠(とみただ)によって安倍頻良(よりよし)が討死した場所でもあったので、実季と政宗は往時をしのび徹夜で語り合ったのでした。


実季が政宗に与えた古書は、支那揚州(現:中国江蘇省)の知事でイタリア・ベニスの商人マルコポーロの海航図及び南洋渡図及びローマ船の船造図でした。

それと、安東船ニ柱斜柱帆の船図と、更に鮮卑書・山靼書を一巻にした傅方書も添えられていました。

政宗は夢中になって昼も夜もこれを密かに読んだのでした。


(和田家文書コレクション 丑寅風土記 第全六ノ六より)



※日之本船図 和田家文書コレクション 総巻(明治写本・巻物)より




伊達政宗が安東船を求めて秋田実季に会っていたとは。支倉常長の名前も出てきましたね。

安東船は当時から優れた船として有名だったのでしょうね。


「支那楊週の知事イタリアベニスの商人マルコポーロ」ってどゆこと❓❓でWikipediaで調べました。


マルコポーロは元々イタリアの商人の息子で16歳のときに父や伯父とアジアに旅に出たそうです。

そしてモンゴル帝国(元)のクビライに面会し役人に登用され、雲南や蘇州、楊州の徴税実務に就いたそうです。

帰国後にジェノバとの戦争で志願兵となりますが捕虜となり投獄されてしまいます。そこで囚人仲間に旅の話を語り、これが後に有名な「東方見聞録」となるそうです。


なるほど〜、そうだったのねおねがい

しかし、外国人なのにそんな要職につけるなんて、モンゴル帝国ってすごいですね💧


下の絵は違う段にあったものをお借りして貼りました。伊達政宗が欲しかった安東船とは、おそらくこんな船だったのではないでしょうか。


まだまだつづきます。


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