令和6年(2024年)6月19日㈬


「令和6年6月下旬の旅」1日目は若桜鉄道若桜線に乗り隼に来ました。


隼での滞在時間は75分、次に乗車する

5355D   隼1129発 若桜行き

が隼に到着。

*この記事の続きです。




使用するきっぷは若桜鉄道の1日フリー乗車券


*1日フリー乗車券

利用可能日 通年

利用開始1日のみ有効

利用区間 若桜鉄道線内(郡家〜若桜)1日何度でも乗車可能

販売価格   760円

販売箇所 若狭駅、若狭鉄道列車乗務員(JR線内での発売はなし)、因幡船岡駅、郡家駅観光協会ぷらっとぴあやす

利用の際は駅係員又は乗務員により乗車日の鬼才が必要。乗車日の記載が無いものは無効。





車両はWT3000形WT3001「八頭」


*若桜鉄道WT3500形

1987年(昭和62年)に若桜鉄道WT2500形として 4両が製造された。2002年(平成14年)から2003年(平成15年)にかけて3両がエンジン交換などの改造によりWT3000形に改番された。(改造されなかった1両は廃車。
2017年(平成29年)度末から、水戸岡鋭治氏デザインによる昭和をイメージした内外装に変更された[。 WT3001、WT3003、WT3004にそれぞれ「八頭」「昭和」「若桜」の愛称がつけられている。


空いてました。

当ブログでは4年ぶり4回目となる若桜鉄道乗車

*2020年10月の旅、若狭鉄道に乗車




*2013年1月の旅、若桜鉄道に乗車



*2010年10月の旅 若桜鉄道に乗車


しかし過去記事を読み返すと10年以上、意味もなく各地をウロウロしていますな。


八東(1138発)

かつての若桜線は 全線1閉塞であったが、2020年3月14日のダイヤ改正で八東に列車交換設備が設置設置された。
八東では上り1338Dと交換

あちらの車両はWT3000形WT3004 「若桜」

先ほど、鳥取〜(郡家)〜隼にて乗車した車両
八東駅構内には貨車と排雪モーターカーが展示。
下車したかッたが行程の都合上、断念しました。
八東で下車するのは次に若桜鉄道に乗る機会に……

*八東に2011年(平成23年)より宇都宮貨物ターミナル駅から移転したワフ35000形有蓋緩急車(ワフ35597)が展示。
 2022年(令和4年)3月には、2020年3月に閉園した加悦SL広場から富士重工業製TMC100BS形排雪モーターカーが移転された。
終点の若桜1152着

4年ぶりに訪れた若桜、駅を出て

*2020年10月に訪れた若桜
駅前にある若桜町観光案内所へ



若桜町バスターミナル内にある若桜町観光案内所には

続日本100名城スタンプ 若桜鬼ヶ城

が設置、押しました。

若桜町観光案内所にて販売されている御城印も購入

続日本100名城スタンプを押して御城印も購入したので若桜鬼ヶ城跡を見に行きます。






このような表示が、山頂まで車で約10分、あるいて行くのはキツそう


若桜鬼ヶ城の麓に位地する八幡広場





八幡広場に残る若桜小学校の碑

かつてこの地にあった若桜町立若桜小学校は2012年(平成24年)に閉校、小中一貫校に移行し、若桜中学校校舎へ統合され若桜町立若桜学園が開校。

 2013年(平成25年) - 校舎が解体される。なお、体育館はそのまま残され、現在は若桜町立第2町民体育館として使用されている。 
八幡広場の目立たぬ位置に、若桜鬼ヶ城登山口がありました。

「登場口」ではなく「登山口」!

若桜鬼ヶ城

鳥取県八頭郡若桜町若桜にあった城。城跡は国の史跡に指定されている。
因幡三名城(この他に鳥取城、鹿野城)のひとつに数えられる名城である。 播磨・但馬両国に通じる街道を扼する標高452メートル(比高252メートル)の鶴尾山山頂部から尾根部分に曲輪群を設けている。主に木下・山崎氏時代の主要部と国人・矢部氏時代の古城部に分けられ、中世城郭と石垣で作られた近世城郭の両方の遺構が残っている。また、主要部の石垣には元和3年(1617年)の破城の形跡が見られ各所で崩れた石垣が確認される。 鳥取県教育委員会が平成10年(1998年)から15年(2003年)にかけて実施した県内の城館分布調査で全国的にも類を見ない遺構が発見され、国の史跡級の城跡であることが確認された。国の史跡への指定は土地の権利などの問題で以前から難航していたが、平成20年(2008年)3月28日に実現した。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(168番)に選定された。

正治2年(1200年)頃、三河国より入封した矢部暉種によって築城された。鎌倉から室町時代、戦国時代末期まで矢部氏の居城となるが、天正3年(1575年)6月に山中幸盛の謀略によって城主の矢部某が捕らえられて尼子再興軍の手に落ちる。同年、吉川元春の攻撃を受けると山中幸盛らは抗戦するが、翌年城を捨てて撤退した。 羽柴秀吉率いる織田軍が因幡国に侵入するとその拠点となり、天正9年(1581年)の鳥取城攻めの後、2万石を領して木下重堅が入城した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで木下重堅は西軍に属して改易となり、山崎家盛が3万石で入封して居城となった。 家盛の子、山崎家治は元和3年(1617年)に備中国成羽3万石に移封され、因幡一国は池田氏の所領となり、元和3年(1617年)の一国一城令によって廃城となった。 


こんな狭い道です。

この先は断念、ヘタレです。怖気づいて引き返しました。



若桜神社へ向かいます。


若桜神社の近くにある龍徳寺

曹洞宗の寺院で、戦国時代末期から江戸時代初期に若桜鬼ケ城城主として若桜宿を治めた山崎家盛と一族の菩提寺である。



山門の両脇にはこのような



本堂

若桜神社へ



若桜神社
 
平安時代初期、若桜鬼ヶ城初代城主矢部氏による創建とされる。当初は松神大明神と呼ばれていた。 郡中の大社として若桜鬼ヶ城歴代城主をはじめ武内宿禰や名和長年(元弘3年/正慶2年(1333年)後醍醐天皇の京都遷幸に際して鉾を奉納)、因幡国守護の山名氏らが参拝し鉾や鏡などを奉納するなど、尊崇を集めた。 若桜鬼ヶ城廃城後も、領主である鳥取藩藩主の池田氏より庇護を受けた。 境内は広くヒノキやモミの原生林によって鎮守の森が形成されており、「若桜神社社叢」として鳥取県の天然記念物の指定を受けている。
石段を登ります。



途中で引き返しました。ヘタレです。

再び若桜駅へ向かいます。


蔵通り
蔵通り 

古建築の白壁土蔵が連なる通りである。江戸時代より土蔵が多く存在する通りであったが、明治時代の大火の後は、この通りは土蔵以外の建物を禁じられたため、土蔵が連続する通りになった。







再び若桜駅へ