第66回角川短歌賞応募作50首詠 「新・建礼門院右京大夫集「白波の花」」【第5章】 | わたる風よりにほふマルボロ

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2020年5月提出

第66回角川短歌賞応募作50首詠

「新・建礼門院右京大夫集「白波の花」」

梶間和歌

 

 

全50首は【第1章】

語釈は【第2章】【第3章】

この連作に関するコラムの

これまでのところは

【第4章】をご覧ください。

 

 

 

変化といえば、

掲載スタイルだけでなく

この話題もありますね。

 

 

第1章にも書いたとおり、

建礼門院右京大夫

成り代わり連作は

いったんこれが最後になるか

と見ております。

 

 

 

梶間和歌や梶間和歌ブログの

長年の読者さんはご承知でしょうが、

 

最近有難いことに

読者さんも増えているので

簡単に振り返っておきます。

 

 

いわゆる「源平合戦」、

いまは「治承・寿永の乱」とか

呼ばれますが、その内乱で

建礼門院右京大夫という女性は

恋人、平資盛を亡くしました。

 

 

その建礼門院右京大夫を

作中主体として、私はこれまで

いくつもいくつも

連作を編んできました。

 

すべてではありませんが、

いままとまっているものはこのくらい。

 

 

 

 

 

 

 

これらを

2020年時点の私の目で編み直し、

新たに叙景歌なども詠み足して

歌集に入れた章が、こちら。

 

 

 

ご存じかもしれませんが、

 

現在の短歌新人賞のほとんどに

設けられているルールとして

 

応募作には、ウェブ上なども含め

どこにも発表していない歌を使う

というものがあります。

 

 

私の歌集は

2020年5月締切の角川短歌賞の

結果が出るより先、

2020年5月6日に上梓する

予定でした(実際そうしました)

 

 

この両方に同一の歌を使用すると、

角川のほうのルールに抵触します。

 

 

なので、「白波の花」使用歌は

歌集に入れておりません。

 

今回「白波の花」50首を

ご紹介しましたが、

 

長年の読者さんにとっても

歌集読者さんにとっても

初めての歌ばかりであったはずです。

 

 

 

そういう事情があり、

2019年下旬から

2020年上旬にかけて、同時期に

2つの、同一主題の連作を

整えることになりました。

 

 

まあまあ大変でした。笑笑

 

 

同じ時期に同一主題を、というのは

これが初めて

ではありませんでしたけれど、

 

いずれにしても

頻繁にやるものではありませんね。

 

 

私もなかなか多作であるほうですが、

多作であることと連作をまとめることは

別の営み。

 

頭から煙を噴いていました。

 

まずオススメしません。

 

 

 

こうして振り返ると300首前後、

発表しなかった捨て歌も含めると

それ以上でしょう、

 

それなりの数の歌を

建礼門院右京大夫に成り代わって

詠み、その一定数を

連作にまとめてきました。

 

 

それを

だいぶやりきった感があります。

 

 

昨年5月末締め切りの

この50首に取り組みながら、

その時点で

 

「たぶん、これが最後になるな」

 

という感覚を持っていました。

 

 

 

誤解があるかもしれませんが、私は

建礼門院右京大夫の和歌が

決して好きではありません。

 

 

それは、当然ですね。

私の最も愛する和歌は

 

贈答、挨拶の和歌や

自分の感情を整理するための和歌

ではなく

 

芸術としての和歌

 

ですから。

 

 

過去にこのあたりの記事にも

書いたとおりです。

 

 

 

恋人を亡くした哀しみを

綿々と綴った彼女の歌を

芸術作品として見ることは、

できません。

 

 

歌自体が芸術的観点から

水準が高いと言えないし、

 

だからといって

出来はともかく、姿勢としては

 芸術として詠まれたものである」

と読むべきでもない。

 


彼女自身が

家集の最初の歌の詞書で

家の集などいひて、うたよむ人こそかきとどむることなれ、これは、ゆめゆめさにはあらず

ただ、あはれにもかなしくもなにとすれどもわすれがたくおぼゆることどもの、あるをりをりふと心におぼえしを、おもひいでらるるままに、我がめひとつにみんとてかきおくなり

と断っています。

 

 

同時代(=新古今時代)

多くの歌人と異なり、

芸術としての和歌をまとめた

つもりはない、

 

ただ忘れがたい思い出の

思い出されるままに

私のためだけに綴ったのだ、

 

という姿勢の表明です。

 

 

『新勅撰集』撰集時に

撰者である定家に

この家集を渡していますので、

 

「我がめひとつにみんとて

 かきお」いただけだ、

この言葉にポーズはいっさいない、

 

と言えるかというと、

そうも言い切れません。

 

言い切れませんが、

 

とはいえ

家集のつくりや歌から考えて

ある程度信用してよい

断り文句、姿勢表明でしょう。

 

 

 

彼女の歌は、芸術作品として

生み出されたものではない。

 

 

その前提を尊重する以上、

それらの歌は

 

純粋な哀傷歌として読んだり、

その歌の詞書を参照して

「こういう場面の贈答の歌なのか」

と読んだりすべきものでしょう。

 

(なかには題詠もあります。

 それらは、

 芸術として詠まれた歌として読んだうえで

 良し悪しを評価するとよいかと思います。

 ただ、ここでは脇に置きます)

 

 

ですので、

そこにまとめられた歌に対して

芸術としての和歌を愛する私が

私の価値観でものを言うのも、

余計なお世話です。

 

彼女には初めから

そのような気がなかったのだから。

 

詠歌の前提、目的が、

私のそれや私の愛するそれと

あまりにも異なります。

 

そこは、私なりに

重々理解しているつもりです。

 

 

 

いっぽうで、私は、

 

 

……またアメブロさんに

「長すぎ」

と怒られました。

 

続きはまた明日。

 

 

 

この記事の

【第1章】

【第2章】

【第3章】

【第4章】

【第5章】

【第6章】

【第7章】

【第8章】

 

 

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それぞれの及ばぬ高き姿を

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