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オンライン講座「歌塾」
note企画
2021年2月分掲載
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2020年5月提出
第66回角川短歌賞応募作50首詠
「新・建礼門院右京大夫集「白波の花」」
梶間和歌
全50首は【第1章】、
この連作に関するコラムの
これまでのところは
ご覧ください。
和歌とは別に小説を
仕事として、成り代わりで
書いていたころ、
出産とか誕生とか死とか
そういうものを、ひとつの体で
擬似的に、定期的に経験するような
大変さが、常にありました。
1記事書き上げるたびに
たましいは
このうえなく浄化されるけれど、
肉体と精神がぐったりする。
(余談ですが、
私が出産を望まない理由のひとつには
こういう背景があるのかもしれません。
その疑似体験でさえこれほど大変なのに、
本当に出産をするなんて、
とても考えられない。考えたくない)
なんだかんだ2,3年やりましたが、
依頼、発注ベースであるため
成り代わる対象をこちらで
選ぶことのできないあの形式で、
他人を憑依させながら物語を書く
あの仕事が、長く続けられただろう、
とは思いません。いま振り返って。
いまは、和歌において
完全に私の意志ひとつで
誰に成り代わるか、
誰を選ぶにしても
大変であることに違いはない
その営みを、
あえて、誰でやるか、
を選ぶことができます。
その自由な裁量を以て
「建礼門院右京大夫は、
もう、このあたりかな」
と判断しました。
人と比べるものでもありませんが、
仮にこういう事をしている人が
ほかにいたとして、
その誰よりも私は
建礼門院右京大夫の成り代わりを
やったと思います。
し、たとえ私以上に
建礼門院右京大夫の成り代わりを
した人がいたとしても、
私のなかでは、昨年5月で
ひとつの区切りが訪れた
気がしました。
その感覚がすべてです。
そうね、
比較の結果ではありませんね。
いちおう触れておくと、
これを長年続けてきた理由として
もうひとつ、
私の世界認識の特徴もあったか
と思います。
平安末期、鎌倉初期の動乱を
生きた人々の
「この世はかりそめのものだ」
という実感は、
ものごころついたころから
「この世に間違って生まれてきた」
「でも、生きなければいけない」
と感じながら生きてきた私にとり、
かなり親和性の高いものでした。
私自身のその感覚を歌の形にする
と考えた時
自分の体験をそのまま使う
なんて事をしたら
絶対にオナニーになる、
そんなみっともない事は
まず避けたかった。
では
ほかの何かに仮託してやるとして、
そのころの私には
建礼門院右京大夫の体が
一番使いやすかったのです。
これも、
当初から自覚して選んだのではなく
気づけば選んでいた道を
ふと振り返り
「なぜそうしたのだろう」
とあとから考えた時、
言語化するならば
そんなふうだったのだろう、
といまのところは結論づけている、
ということですが。
言葉は、いつだって
後追いで、不完全で、もどかしい。
そんな不自由さに日々絶望しながら
それでも言葉を使って生きています。
それも、
三十一文字の定型詩という
窮屈極まりない形を選んで。
世のはかなさを痛感することへの
親和性といえば、
恋人に2度も死に別れ
世のはかなさを思い知りながらも、
その後も恋愛、
それも具体的な交渉を伴う恋愛を
続けてきた、和泉式部。
私もなかなかの恋愛体質ですし、
彼女にも親和性が強いですが、
なぜでしょうね。
和泉式部ではほんの数回しか
続けられなかったのに
(とはいえ100首近くは詠みましたが)、
資盛の死後
(なかったと証明はできないが、
少なくとも記録としては)
いっさいの恋愛や結婚の伝わらない
建礼門院右京大夫
の成り代わりでは
300前後の歌が生まれました。
いまの私には
まだ言語化できていない
何かしらの理由が
あったのでしょうね。
和泉式部ではなく
建礼門院右京大夫だった理由が。
恋愛への姿勢の違いなのか、
生きた時代の違いなのか。
それこそ余談ですが、最近
2017年のこんな投稿を発見して
なるほどと思いました。
(和歌投稿と本名での投稿を
分ける前のものです。
アカウントが紛らわしくて恐縮です)
……ふう。
今日の記事で終わらなかった……。
明日で完結させます。
続きはまた明日。
この記事の
いつも応援ありがとうございます。
それぞれの及ばぬ高き姿を
それぞれ追ってゆきましょうね!
引き続き、応援
よろしくお願いいたします。
それでは、またね。