龍のひげのブログ -7ページ目

トラブルは人生において不可避である。

もう世の中に対して、何も言いたくはないんだけれど、歳を取って、何か言う元気がなくなってきたということなのかも知れないが、トランプ大統領を見ていると元気だなと、あの活力は一体、どこから湧いてくるのであろうかと自分と見比べ、見習おうとは思わないが、まあ何て言うのか、どんな人間でも、偉人であろうが凡人であっても、生きている限り殺される(物理的にも精神的にも)リスクは、絶えず存在するのであって、そのリスクを回避することばかりを考えて生き長らえていても、人生そのものが楽しくはないし、生きる活力も枯渇せざるを得ないということは言えるのではなかろうか。余計な心配かも知れないが、トランプ大統領はこれからの任期の4年間、殺されずに生き続けることは出来るのであろうか。

ということで、よその国の大統領の身の心配をするよりも、今、この国の出来事に関連して何か言うのであれば、生きている限り、誰のどのような人生であっても何がしかの「トラブル」は付きものだと思う。まったくトラブルのない人生を送っているという人がいるのであれば、私の目の前に連れてきて欲しいと思う。そのような奇跡の人間を死ぬまでに是非、一度見たいものだと思う。そもそも人間はこの世に生きていること自体がトラブルであり、何らかのその人間の人生に相応しいトラブルが宿命づけられていると考えることもできる。イエス・キリストのような偉大な人間であっても宗教的なトラブルの末にローマ帝国への反逆罪として殺されたのである。トラブルのない人生など存在しない。ドナルド・トランプ大統領の人生もトラブルに塗れている。トラブルイコール悪ではない。トラブルをどう評価するかは別の問題である。別に擁護するわけでも、心配するものでもないが、今、世間を大きく騒がせている中居君が過去に引き起こしたトラブルがどの程度のものであったのか全く見えてこない。中居くんのマンションに女子アナが一人でのこのことやって来たのであれば、そういう行為を気持ちの上で了解済みであると中居君が思ったとしても、ある程度は仕方のないことである。そこにフジテレビの会社幹部の関与があったのかどうかということも、業務命令として行ってこいといわれたのであれば組織的に行われている性接待と見做すことは出来るのであろうが、そういう風に会社としての関与を明白に証拠づける言質をフジテレビのような大手のマスコミ企業の幹部が言明する訳がない。そこは曖昧に、あくまでも女子アナが自分の意思で中居君のマンションに行って、自分の意思で行為をしたという筋書きにしようとするであろうからグレーゾーンの領域である。要するにそのプロデューサーなのか何か知らないが、幹部社員と女子アナの阿吽の呼吸による意思疎通が取れていなかったことが、問題というか原因であったのではないかとも考えられる。或いは良い悪いはともかくも、女子アナが潔癖で世間知らずであったことも一因であったと言えるのではないか。もちろん暗黙であっても、そのような性接待の慣習が業界なりフジテレビに存在していること自体が、社会的に大きな問題であることは当然であるが、それを言うのであれば、女子アナが仕事上で付き合いのあるタレントやスポーツ選手と食事会やパーティー、合コンなどで接触することを一切、会社として禁止すればよいではないか。そのようにしても我々一般の視聴者は何も困らないし、誰も文句は言わないであろう。クレームがあるとすれば、当の女子アナからであろう。はっきりと言うが、女子アナなどという存在は差別する気も、侮辱する気もないが、ニュース原稿を間違いなくしっかりと読んで、時事問題や政治に関することをわかりやすく解説して社会に貢献したいなどという殊勝な心掛けでアナウンサーという職業を選んだ人間など一人としていないのではないか。一般の大企業と比べても高額の給料をもらって、TV番組に出演して有名になり、タレントのようにちやほやとされ、仕事や食事会などで有名人と知り合う機会が多いことが職業として女子アナを志す動機やモチベーションの全てであると言っても、決して言い過ぎではないような気がする。何もそれが悪いとか間違っているなどと言うつもりはないが、要するに言いたいことは、その環境を活かすのも、性接待の餌食になるのも子供ではないのだから自分次第ではないのかということだ。それから今回のことは刑事事件になっていないのだから、女子アナはあくまでも被害者ではなくて当事者である。トラブルの性質上、プライバシーを必要以上に晒されたくない気持ちは理解できるが、これだけ問題が大きくなりフジテレビの存亡に関わるような事態になっているのであるから、辞職しているとしても自らの口で、事の経緯や当日の状況を説明する責任はあるように思われる。高みの見物とまでは言わないが、沈黙を貫いたところで、推測の情報が独り歩きするだけで、誰にとっても何のプラスにはならないと言えよう。

中居君が芸能界を引退するのは、中居君の勝手であるが、トラブルが大きくなり過ぎて、自分の手に負えなくなったから責任を取って辞めるというのは、トラブルの有無やその影響力の大きさを善悪の基準として考えがちな日本の悪い風潮であると思われる。重要なのはトラブルの中身なのではなかろうか。中身が分からずして、トラブルの外形的な責任だけを取ったところでそこには何の進歩も改善もないではないか。もちろん覚せい剤をやっていて、乳首を食いちぎったというのであれば、何の説明も出来なくても当然であり、また引退したからといって済まされる話しでもないが、仮にそうであれば、別の意味で何でそれが刑事事件になっていないのかが問題である。よくはわからないが恐らくはそうではないのであろうから、中居君は自分の口で弁明なり、説明をすべきである。それは言い訳や責任転嫁ではなくて、自分が遭遇したトラブルを今後、同じようなことが繰り返されないようにするための材料として社会に提供する勇気ある行為として称賛されるべきものではなかろうか。何も言わないで黙っているのは、卑怯である。

ともかくも本当のことを言えば、中居君のことやフジテレビの行く末などどうでもよいのである。安倍元総理を銃撃、殺害したとされている山上徹也の裁判はどうなったんだよ。事件の日からもう2年半も経過しているというのに、いつまで公判前整理手続きをやっているのか。日本のほとんどの大衆は、このような歴史に残る大事件の第一審すらまだ行われていないことに、中居君の問題に関心が奪われて、問題視していないという以上に、完全に事件が風化してしまっていて、気付いてすらいないのではないか。そしてそれが中居君の問題の目的ではないのか。大体において安倍総理銃撃後の2年半の間に芸能界の大物のダウンタウンの松本と中居君の二人が同じような問題で世間の注目をバトンタッチのように集め続けるというのは不自然だとは思わないですか、ということだ。さらに言えばジャニーズの性加害のスキャンダルも同様である。共通して言えることは今に始まったことではないのに、何で今、問題となるのかということである。久しぶりにブログの記事を書いて、それがこんな内容であれば警察がまた政治に命じられて私の元に遊びにくるかも知れないが、それならそれで仕方のないことである。別に悪いことをしている訳ではないのだから。アメリカのトランプ大統領が生き続けるのであれば、当面は私も死なないであろう。楽しくない人生であっても、腐り切った世の中であっても、生き続けることには何らかの意味はあるのだと思う。

(吉川 玲)

神の不在について

神は存在しない。

神という概念が存在する。

それでは、この私とは何なのか。

私は、概念ではない。

私は思い、考え、憤り、悲しむゆえに

生きている主体である。

概念は思考の客体であって、主体とはなり得ない。

神は祈られ、思考される客体であって、主体ではない。

ということは論理的に考えれば、

人間は己の主体性の内部に

神の概念を作り上げ、それを抱え込み

精神的に消化することによって

神という概念の客体に主体性を付与して生きているのであるといえる。

つまり人間が存在しなければ

神は存在しないのである。

動物は神に祈らず、思考しないゆえに

動物界に神は不要で、不在である。

人間と動物の決定的な違いは

神を思うか、思わざるかであるといえよう。

逆説的にいえば、神は不在であっても

人は神を思い、神を作り、神の主体性を信じるがゆえに

人間的であり得るのであるといえる。

或いは人間の神性とは、

不在の神を思い、追究し続けることによって

己の内部に目覚める何かなのではないであろうか。

概念としての神の客体性と自己の主体性が

人間の内側で融合し、

区別の境界が消滅し

超自然的に、神秘的に己を罰したり、裁くものが

何もないということが深く了解できた時に

人間は自由になり、進化するのであろう。

神を思い続けることは、実は神の不在への理解に至る道である。

この点において、世界中の宗教は間違っているのである。

宗教もまた政治と同様に

人間を奴隷化する一つのシステムなのである。

(吉川 玲)

幻滅

高市早苗には幻滅させられたわ。なんやねん、あの女は。だから女というものは、などと言うと女性蔑視になるから言いたくはないが、しかし私が思うに、選挙というものは格闘技と似ているところがあるような気がする。私は格闘技を見るのが好きである。最近は女性の格闘技の試合も目にすることが多いが、正直に言って個人的には女性の殴り合いは見たくない。この前のライジンの試合で、女性のベアナックル(素手)の試合をやっていたが、悪趣味だとしか思えない。ドーピング疑惑やその背後に見え隠れする反社の問題もあって、もうライジンは金を払ってまで視聴しようという気にはなれない。そんなことはどうでもいいのだが、自民党総裁選の話しであった。選挙が格闘技と似ていると思う理由は、最後の最後まで気を緩めてしまっては勝てないであろうということだ。投開票の様子をネットの中継で見ていたが、決選投票の前の演説で、最初に出てきた石破茂の顔付きや話しぶりには、気迫が感じられた。演説終了後の拍手も盛大で鳴り止まないものであった。ところがその後に登場した1回目投票で1位の高市早苗は、緊張感のない柔和な表情で出てきて、何を言うのかと思ったら、女性議員初としてこの決選投票の舞台に立てているのは光栄であるとか、岸田総理やその他の自民党議員各位に対しての感謝の言葉を述べ始めたのである。知らんがな。どうでもええやないか、そんなことは。感謝の言葉というものは、試合が終わって勝利が確定してから、勝利者インタビューで述べるものである。決選投票の前の5分間の演説は、格闘技で言えば、最終ラウンドに相当するもので、絶対に油断したり、気を緩めてはいけないものである。その最終ラウンドの時間に、それまでの戦い(獲得票数)でいかに優位であったとしても、既に勝利を手に入れているかのような緩んだパフォーマンスで、闘争心や気迫がなくなってしまっているのであれば、勝てる訳がないではないか。それも本人は気分が良かったからなのか何か知らないが、5分の規定時間をオーバーして注意されている有様であった。終了後の拍手もちらほらという程度のもので、私はその様子を見ていて、いやな予感がすると同時に、この女、アホやなと思ったのであった。それで案の定、石破に大逆転されて負けてしまった。今更、言っても後の祭りで仕方ないことではあるが、高市が最終ラウンドの5分間の演説で、最後の瞬間まで気を抜かずに気迫を見せた戦いを見せていれば、高市が勝って、女性初の日本の総理大臣になっていたはずである。男がどうとか、女がどうだとか言う気はないし、男が女よりも優れているとも、女が政治に向いていないなどとも全く私は思っていないが、それでも今回の自民党総裁選、決選投票の前の5分間の演説だけを切り取って見るならば、石破の男性ホルモンに高市の女性ホルモンが敗北したように私には見えたのであった。それで私は石破を信用していないし、緊縮財政の石破ショックで益々日本の景気が冷え込むであろうから大いに落胆したのである。それで冒頭に書いたように、なんやねん、この女は、ということになるのである。しかしよく考えれば、確かに石破ショックは困るのであるが、あの程度の状況で浮かれてハッピー、サンクスフルな女性ホルモンを発散させるような総理大臣が、国際的な外交交渉の場で、中国や北朝鮮のような国相手に対等に渡り合えるとは、到底、思えないのである。要するに、結局は総理大臣の器ではなかったということだ。進次郎よりも何千倍も賢いのであろうが、それでも総理大臣の器でないのであれば、この国は何やねんということなのである。同じ穴の狢とでも言うのか自民党と言う穴の中で同じように腐ってしまっているのであるから、もう比較しようがないのである。無茶苦茶なのだ。最早、何を言っても栓のないことではあるが、今回、私が最も言いたい肝は、この世の中は謀(はかりごと)によって動いているのであるが、全てが全て謀によるものではなくて、気迫とか執念のようなエモーショナルな要因によって決定されているところも相当程度にあるということなのだ。ある意味で感情というものは論理よりも強い武器なのだが、今回の高市はその感情と論理の使い分けが間違っているから敗北したのだということである。さらに言えば、菅氏と麻生氏のキングメーカーの争いとか、票の割り振りなどの情報に惑わされるべきではない。そういう要因も確かにあるのであろうが、そういう話しは結局、何が言いたいのかと言えば、日本の政治は良くも悪くも自主独立国家として自己完結していて、民主主義がきちんとというかそれなりに機能しているのですよと、つまりはアメリカによる直接支配というものを日本の国民に見えないようにさせるための物語なのである。

(吉川 玲)