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道徳に結びつく情報

前回の続きであるが、“生き方に関わる情報”とは“道徳に結びつく情報”と言い換えることも出来る。道徳という言葉に対して人々は、一般にどのようなイメージを持たれるのであろうか。

私は、若い世代の方々のほうが中高年世代よりも道徳に関して敏感だと思うのである。これをナショナリズムや世の中の右傾化と同一視する向きもあるだろうが、そうではないと思う。たとえば最近の日本における象徴的な出来事で言えば、ボクシング世界戦の判定に対してTV局に千件にも及ぶ抗議が寄せられる。曲りなりにも日本人選手が勝利しているにも関わらずである。私はボクシング好きで昔から世界戦のTV中継はよく見ていたのだが、以前の判定はもっとひどかった。しかし放映しているTV局に今のように猛抗議がなされるようなことはとても考えられなかった。

TVタレントや女子アナウンサーの不倫に対してもバッシングが凄い。番組のレギュラーから外せという投書や電話が殺到する。なぜなら顔も見たくないからだという。こういうことも一昔前には考えられないことだった。日本人はそういうことにはもっと寛容だったはずなのである。

なら近年のこのような傾向をどのように考えるべきなのか。日本人は、特に若者世代は道徳的に潔癖になったのか。私はそうではないと思う。

欺瞞的に統制された情報や道徳が結局は自分たちの為になるものでないことを見抜いている人々が、自分たちの手に道徳を取り戻そうとしているのである。

若者の方が身体性が発達しているのでイデオロギーに汚染されていない分だけ本能的に自分たちの将来を損なう嘘を見破る能力が優れているのだと思う。もちろん不倫や疑惑の判定が諸悪の根源だということではない。自分たち(社会)にとってプラスになる“道徳感覚”を希求しようとするうねりのようなものが大きなエネルギーで蠢き始めているのだと思う。そのエネルギーが時を得ていびつな形で噴出しているように私には見える。

一方で政治と金にまつわる不正や役所の裏金工作、食品の産地偽装や賞味期限改ざんの問題などが新聞紙上やTVで連日のように報じられている。

それならこれも道徳の問題なのか。不倫や疑惑の判定と同類なのか。確かに同様に道徳の問題だとも言える。しかし不倫や疑惑の判定に対する糾弾と同類であっても同質ではない。政治家や官僚の不正、食品の偽装や残業代のピンはねなどはもちろん社会的に大きな問題であることは確かなのだが、その構造は“権力対市民”、“資本家対労働者”という伝統的かつ垂直的な2項対立の図式であって市民自らが水平的かつ自主的に世の中を変革していこうとする胎動を見えにくくさせてしまう。悪く言えば覆い隠し、隠蔽してしまうとも言える。

我々は、我々の将来のためにも権威的なものが絶えず押し付けてくる対立の構図を尊重しつつ時に破壊し、自らが真に社会に役立つような“対立のテーマ”を見つけ出して顕在化させてゆかなければならないのである。それが既存の権威たちの既得権益に反することがあったとしても我々市民に一体何の関係があるというのだ。

それらがメディアの構造改革が必要だと私が強く思うところの理由なのである。我々日本人はもっと豊かにもなれるし、幸福にもなれるはずである。そして国際的に真に信用され、尊敬される国民に生まれ変われるはずであると私は信じる。

映画『ぐるりのこと』を見て

橋口亮輔監督の『ぐるりのこと』という映画を観た。もう上映は終わっていると思うが感想を述べたい。

夫婦の物語である。初めての子供を身ごもり幸福を感じていた妻、翔子は不幸にもその子供を亡くしてしまったことをきっかけに少しずつ精神のバランスを崩し始めうつ病になってしまう。夫カナオはそのような妻を受け止めて辛抱強く支える。そのような夫婦の10年間に及ぶ日常風景をカメラは現実に日本に起こった事件を織り交ぜながら映し出してゆく。

夫カナオを演じたリリー・フランキーがなかなか良かった。肩の力が抜けていて自然体でありながら“誠実さ”が光っていた。現代社会における、あるべき夫像の一つの典型のようにも感じられた。カナオは外面的にはへらへら、ふにゃふにゃしているが芯はとても強く、そしてなによりも優しいのである。

邦画にもこのごろ上質のものが多くなってきたように思う。

映画を離れて、映画の内容に即しながら日本を語ることにしよう。年間3万人以上の自殺者は人口比当たりで見ても先進国中でもかなり高いようである。なら、うつについてはどうであろうか。データがないのではっきりしたことは言えないが日本はうつに関しても世界中で最も“うつ比率”が高いのではないかと私は想像する。橋口亮輔監督自身もうつに陥って死ぬことばかり考えていた時期があったようである。心ある人も、無き人も日本はいたるところで誰もが皆心を病んでいる。一体どうしてなのだろうか。

素人の私がこのような重いテーマについて軽々しく断定するのは憚られるが、それでも書くことにする。

私には“情報”というものの要因が大きいようにどうしても感じられてしまう。日本という国は情報において開かれているようでありながら、その実閉ざされているというちょっとわかりにくいところがある。全ての人が自由に思想、信条を表現し得るということは憲法にも保障されている通り大原則ではあるのだが、現実には大勢に背いたことは言いにくい雰囲気がまとわりつく。真実や真理にあまりにこだわっていると一歩間違えれば変人にされてしまう。

一口に“情報”といっても2種類に分けることができる。第一は即物的な情報だ。ガソリンの値段が1リッターいくらというような情報である。即物的な情報が我々を病ませることはない。

第二は生き方に関わる情報である。他者とどのように関わり、どのように自らの権利を主張していくかということの情報である。これは個々人が自分で判断、決定しているようでありながらその原型はメディアや行政によって統制されている部分が大きい。

今日、精神的に病んでいる日本人の比率が高いことの原因は、この第二の生き方に関わる情報が全体的に立ち行かなくなってきていることの表れのように思える。なら、なぜ立ち行かなくなっているのかというとはっきり言ってその原型が時代遅れだからだ。冷戦下の戦争か平和かというような2項対立の影を我々は日常生活の中でも根深く引きずっている。教育も男女問題も家庭問題も出産、子育ても皆、“戦争と平和”という対立概念の分枝であり変形に過ぎないのである。

もちろん平和は何よりも大切であり尊いものである。それは認める。しかし我々の日常生活が、日本人の精神性がいつまでもそのような構造に支配されている限り袋小路に追い詰められたようになって全体的に病んでゆくのだと思われる。

これはとてもわかりにくい構造問題である。

しかし司法改革も始まったことなのだから、メディアの構造改革も真剣に検討すべき時期にきているように思われる。

いや日本の現状を考えれば寧ろ遅すぎるのだ。

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