龍のひげのブログ -540ページ目

国策捜査と国策

最近、久しぶりにホリエモン(元ライブドア社長、堀江貴文氏)がTVに登場している姿を見た。毎日放送の『久米宏のテレビってヤツは!?』という番組である。その中でホリエモンの発言で印象に残ったというか、少し感心したところがあったのでそれについて書くことにする。

ライブドア事件の摘発にあたった特捜検事の一人が、

“額に汗して働く人間が報われるような社会でないといけない。株価の操作で簡単に大金を稼ぐような人間を放置してはいけない。”

というような意味合いのことを言ったとされている。政治評論家の福岡政行氏がそのような検察内部の思惑を理由にホリエモンに対して

「ライブドア事件とは、国策捜査だと思いますか。」

と聞いたのである。その質問に対してホリエモンは

「国策捜査だと言うよりも、検察の人たちの彼らなりの正義感の表れだと思います。」と答えたのである。

何気なく聞き過ごしてしまいそうなやり取りではあるが、そこには非常な重要な認識が含まれていた。ホリエモンは当事者だから当然だとも言えるのだが、きちんと全体像が見えているのである。私はそれがわかって少し感心したのである。

“国策捜査”という言葉は、元外交官の佐藤優氏が鈴木宗男氏に連座して逮捕された獄中で書いた著書によって今の日本を表すキーワードになった。佐藤優氏は自分が国策捜査で逮捕されたのだと考えながらも、国家にとって国策捜査は必要なのだと権力を擁護する奇特なナショナリストである。私は佐藤優氏の著書(『国家の罠』新潮社、『獄中記』岩波書店)を読んで、正直なところ国策捜査という言葉に少し違和感を感じた。但し佐藤優氏の場合、北方領土問題やロシアとの外交関係のあり方、外務省内部での権力闘争などが絡んだ複雑な状況において、背任・偽計業務妨害というよくわからない微罪で逮捕された挙句512日間も拘留されたのであるから本人が国策捜査だと主張するのはきわめて尤もなことである。しかし私が思うに、その国策捜査の性質が問題である。

佐藤優氏は私が読んだ著書でははっきりと述べていなかったが、どうも背後にアメリカの圧力があったように感じられた。日露平和条約締結、北方領土返還に向けた佐藤優氏や鈴木宗男氏の手法が、日米関係にとってあまり好ましいものではなかったのである。日本の本質的な国益を重視、追求し過ぎたために全体的な調和や枠組みから逸脱してしまったがゆえに潰されてしまったのだ。

ならば一体、“国策”とは何ぞやということになる。

と言うよりも“国策”なるものをどのように考えるか、そしてそれを政治家や行政機関、国民が共通認識することが“本当の国策”の大前提ではないのか。

ところが日本の場合はそれらが権力内部の密室で密かに決められていて、大衆に対してはメディアの誘導ばかりが行われているのが実態である。日本だけでなく、どの国家においても権力とメディア、大衆の三者関係はそのようなものであると言えるのかも知れない。

しかし密室で諮られる“国策”が、大局的に将来を俯瞰して高度に国家的な判断や道徳観に基づいて決定されるのであればまだしも許せるのである。ところが日本の場合はどうにも、そうとは思えないのである。

要するに場当たり的だということだ。

特捜検察が“額に汗して働く人間が報われるような社会でないといけない。”

と言って権力が動き、ホリエモンがそれは“国策捜査ではなく、検察の人々なりの正義感の表れに過ぎない”と考えるのはそういうことである。

もちろんM&Aで株価を吊り上げて時価総額を膨張させてゆくようなホリエモンのビジネス戦略が肯定されるべきではないと私は思う。権力がメスを入れなくとも、いずれは経済そのものの自浄作用によってライブドアの拡大戦略は破綻していたであろう。リーマンブラザーズの例を上げるまでもなく、拡大の自転車操業に転ずれば破滅へのカウントダウンは既に始まっている。

しかしそれは基本的には経済の問題である。検察という組織が場当たり的に奇妙な道徳観を発揚させて“国策捜査”に見えるような動きをするのは、日本という国家が経済や労働観、国民の生き方を含めて総合的な“国策”が欠如しているからではないのか。結局、自民党は戦後の長期間にわたって一体何をしてきてんねん、ということにならざるを得ない。まったく見通しがない暗闇で右往左往しながらその時々で、スケープゴートを作っているだけではないのか。

私は言葉にこだわるが、“国策”というと一般的に戦時中の“富国強兵”のように悪いイメージの印象があるのかも知れないが、本来国家にとって国策経済にしろ国策捜査にせよ“国策”はあって当たり前のはずである。地方への権限委譲と小さな政府もまた国策である。

私の考えでは、日本の国策がはっきりと定まらないでいつまでも揺らぎ続ける根本的な理由は、政治家の国富に対する意識が新しい時代に対応出来ていないからだと思われる。冷戦下における二項対立の社会構造と富をいかに配分するかという社会政策が結びついたところの意識からいまだ脱却できていないのである。日本は資源もなければ食料自給率も低い国なのだから、富の配分から富の創造へと発想や考え方を変えていかなければならないはずである。

富の配分と富の創造では根本的に意識が違ってくる。“富の創造”を土台にした教育や、経済、家庭であらねばならない。そして弱者切捨てにならないように福祉への富の配分が両輪のように並立しなければならないはずだ。

日本は自民党政権があまりに長すぎたために保守的な富の配分意識が強すぎて、社会改革というと増税やコスト低減、あるいは一時的なばら撒きのような安直な方法しか出てこないのではないのか。将来的な見通しを立てて、日本が今後一体何で食べていくのかという最低限の方針がなければ滅亡の日を待つばかりのように感じられる。

話しが少しそれたが、日本のあるべき国策については話しが長くなるので別の機会に論じたい。要するに国策捜査については、全体的な国益に基づいた総合的な国策の一環であるべきであって、検察だけが独立した善悪の意識で権力を行使していても世の中全体は良くはならないのではないかと、ナショナリストである私は思うのである。

元特捜検事、弁護士の田中森一氏のベストセラー『反転 闇世界の守護神と呼ばれて』(幻冬舎)は大変、面白かった。機会があれば、その本についても詳しく感想を述べたい。

夜の幸福

夜の街をただ一人で歩いていると

ほんのり幸せな気分になるのはどうしてだろうか

夜の世界は思考に包まれながら

信号や車のライト、飲食店の看板灯、

イルミネーションの青色ダイオードなどが

まるで私が私であるかのように

優しく静かに明滅している

夜は全ての存在が幸福に立ち返る時間である

私だけではなく

街路樹のプラタナスや家々の窓辺に飾られた観葉植物たち、

玄関前に置かれた大きな狸の石像までもが

自明の幸福を思い出すようにじっと佇んでいる

夜こそ全ての存在が神へと至る

生命を与えられた人形のように喜びで体を震わせて

闇夜に咲く月下美人の匂い立つ甘さで

存在が内奥の神秘を顕わに告白する

街並みには人々の暮らしが息づいている

無数の窓々からは家族の希望や喜びが白く、黄色く漏れ出している

人も物も生きている

私は生にうごめく夜の街を歩く

無上の幸福を感じながら、いつまでもどこまでも歩き続ける

歩く私は詩人であり哲学者でもある

神とともに歩む私は誰よりも幸福だ

明日の朝、私は新しく生まれ変わるであろう

その時に私は自分が幸福であることを忘れているかも知れない

そしてまた太陽の光が私の不幸を照らすのだ

太陽が悪いとは言わない

私は幸福でありつつ、決して不幸から逃れることは出来ない

夜と朝が繰り返す限り

生きるとはつまりそういうことだ

原JAPANは勝てるだろうか

原辰徳はいくつになっても若大将である。巨人・原監督がWBC代表監督に決定した。まあ何と言うか、無理やり押し付けられたようで気の毒な気がしないでもない。

今回のWBC監督選任騒動の一幕は、先の北京オリンピックで韓国の驚異的な強さを見せ付けられた日本プロ野球界の御長老方がびびってしまって、皆が揃って監督就任から逃げていたのだから情けない。完全に泣きが入っていた星野仙一氏は仕方ないにしても、長年たくさんの日本のプロ野球ファンに応援してもらって活躍し多額の金を稼いできたような名のある人物たちが、日本プロ野球界存亡の危機に際し、相手が強いからと敵前逃亡しているようでは戦う前から既に負けている。

混迷の挙句、現役のイチローまで候補に挙げていたのだから呆れるばかりである。日本プロ野球は腰抜けばかりか。四面楚歌、背水の陣で戦うのが男じゃないのか。誰も成り手がいないのであれば、それなら俺がやるという者が一人ぐらいてもよさそうなものである。日本の男が本気で世界と戦う気概がないのであれば、男女共同参画の精神に則ってサッチーにでもお願いすればよかったのである。よほど勝てそうである。

原監督で勝てるだろうか。原監督がイチローや松坂などのスター選手を短期間で一つのチームにまとめ上げ、総合的な戦闘能力を最大限に引き出すのはなかなか難しいのではないであろうか。私の予測では、第一ラウンド通過の可能性は60%、第2ラウンド通過の可能性は40%である。よって70%以上の確立で準決勝には進めない、要するにメダルは取れないということである。しかし2割から3割の確立でなんとか準決勝にまで進めれば、それまでの勢いで前大会同様、世界一になる可能性が高いような気がする。原のように元々物事を考えないタイプの勝負師は悩んだり迷ってしまうと脆いが、一旦勢いがついて勝利の流れに乗ってしまうと神風のように手がつけられなくなる。また、原という男には持って生まれた類まれな強運があるように見受けられる。次回のWBCは原の“采配”ではなく、原の持っている“強運”が世界の大舞台でどこまで通用するのかということが一つの見所で楽しみだ。

しかし言ってしまえば所詮は野球である。当然勝った方がいいに決まっているが、勝つことを義務付けられた戦いというものはどこかつまらない。私は個人的には、スリリングな真剣勝負が見れれば負けても満足である。負ければ、すなわち相手の方が強かったのだから“参りました”と男らしく言うべきだ。

短期決戦だから力が出し切れなかったとか言うような言い訳は聞きたくない。またメディアやファンも勝てなかった監督に対して戦犯のように執拗にバッシングするのはどうかしていると思う。オリンピックのメダル数やワールドカップの成績に異常にこだわることは、国のあり方としてあまり上等とは言えないのではないだろうか。

スポーツの国際試合の結果よりも、失業率や景気回復、自殺者の増加、子供たちの安全にこそ国民の社会的関心はもっと集中せられるべきである。スポーツへの熱狂は、深刻な社会不安を覆い隠す麻薬でもある。

日本の行く末やいかに。