映画『ぐるりのこと』を見て
橋口亮輔監督の『ぐるりのこと』という映画を観た。もう上映は終わっていると思うが感想を述べたい。
夫婦の物語である。初めての子供を身ごもり幸福を感じていた妻、翔子は不幸にもその子供を亡くしてしまったことをきっかけに少しずつ精神のバランスを崩し始めうつ病になってしまう。夫カナオはそのような妻を受け止めて辛抱強く支える。そのような夫婦の10年間に及ぶ日常風景をカメラは現実に日本に起こった事件を織り交ぜながら映し出してゆく。
夫カナオを演じたリリー・フランキーがなかなか良かった。肩の力が抜けていて自然体でありながら“誠実さ”が光っていた。現代社会における、あるべき夫像の一つの典型のようにも感じられた。カナオは外面的にはへらへら、ふにゃふにゃしているが芯はとても強く、そしてなによりも優しいのである。
邦画にもこのごろ上質のものが多くなってきたように思う。
映画を離れて、映画の内容に即しながら日本を語ることにしよう。年間3万人以上の自殺者は人口比当たりで見ても先進国中でもかなり高いようである。なら、うつについてはどうであろうか。データがないのではっきりしたことは言えないが日本はうつに関しても世界中で最も“うつ比率”が高いのではないかと私は想像する。橋口亮輔監督自身もうつに陥って死ぬことばかり考えていた時期があったようである。心ある人も、無き人も日本はいたるところで誰もが皆心を病んでいる。一体どうしてなのだろうか。
素人の私がこのような重いテーマについて軽々しく断定するのは憚られるが、それでも書くことにする。
私には“情報”というものの要因が大きいようにどうしても感じられてしまう。日本という国は情報において開かれているようでありながら、その実閉ざされているというちょっとわかりにくいところがある。全ての人が自由に思想、信条を表現し得るということは憲法にも保障されている通り大原則ではあるのだが、現実には大勢に背いたことは言いにくい雰囲気がまとわりつく。真実や真理にあまりにこだわっていると一歩間違えれば変人にされてしまう。
一口に“情報”といっても2種類に分けることができる。第一は即物的な情報だ。ガソリンの値段が1リッターいくらというような情報である。即物的な情報が我々を病ませることはない。
第二は生き方に関わる情報である。他者とどのように関わり、どのように自らの権利を主張していくかということの情報である。これは個々人が自分で判断、決定しているようでありながらその原型はメディアや行政によって統制されている部分が大きい。
今日、精神的に病んでいる日本人の比率が高いことの原因は、この第二の生き方に関わる情報が全体的に立ち行かなくなってきていることの表れのように思える。なら、なぜ立ち行かなくなっているのかというとはっきり言ってその原型が時代遅れだからだ。冷戦下の戦争か平和かというような2項対立の影を我々は日常生活の中でも根深く引きずっている。教育も男女問題も家庭問題も出産、子育ても皆、“戦争と平和”という対立概念の分枝であり変形に過ぎないのである。
もちろん平和は何よりも大切であり尊いものである。それは認める。しかし我々の日常生活が、日本人の精神性がいつまでもそのような構造に支配されている限り袋小路に追い詰められたようになって全体的に病んでゆくのだと思われる。
これはとてもわかりにくい構造問題である。
しかし司法改革も始まったことなのだから、メディアの構造改革も真剣に検討すべき時期にきているように思われる。
いや日本の現状を考えれば寧ろ遅すぎるのだ。