映画『闇の子供たち』
最近見た映画で最も心を痛め、考えさせられた映画は阪本順治監督作品の『闇の子供たち』である。
タイを舞台にした幼児売春、人身売買の話しである。山岳地帯の貧しい親たちは自分の子供を売春宿に売り渡すことによってしか生きてゆくことができない。そして8歳や9歳の子供たちが観光と買春を兼ねてやってきた欧米人や日本人の相手をさせられることになる。男が小さな女の子を買うだけではない。大人の女たちが小さな男の子のペニスにホルモン剤を注射して風船のように膨張させて弄ぶ。ホルモン剤を打たれすぎて死んでしまう子供と事件の発覚を恐れ子供の死体をカードで買う欧米人女性がいる。夫婦で子供を買いにくるケースもある。目の前で子供たちにセックスをさせ、その光景を見て興奮した夫婦が子供を性の奴隷のように自らの快楽のために奉仕させる。エイズにかかった子供は、文字通りゴミくず同然にゴミ袋に入れられて捨てられる。
まさに書いているだけで怖気をふるうような内容である。臓器移植手術では、売られた子供が脳死ではなく生きたままの状態で心臓を摘出される。映画と梁石日(ヤン・ソギル)の原作では、日本人夫婦が闇ルートで4千万円用意して10歳の我が子に手術を受けさせようとしている。日本新聞社、バンコク支局の記者、南部浩行は臓器ブローカーに接近して取材を重ね悲惨な真実を報道しようとする。現地バンコクのNGO団体、社会福祉センターの日本人女性、音羽恵子は職員たちと一緒になってその手術を阻止しようと闘う。しかし二人の前にはマフィアの暴力が立ち塞がる。
私が映画を見た日には、たまたま阪本順治監督が舞台挨拶に来ていた。上映終了後、阪本監督は当初映画化するにあたって、原作に書かれた内容がどこまでが真実でどこからがフィクションなのか気になっていろいろな文献や資料を調べたところ、小説の中の描写が緻密な取材に基づいた真実であることがわかってかなりショックを受けたと話されていた。
当日、劇場で販売されていた梁石日の原作小説を買って読んでみた。そこに描かれていた世界はあまりにもグロテスクであり、内容が内容だけに映画による映像表現がかなり抑制されていたものであることがよくわかった。それで私もまた阪本監督と同じように思ったのである。本当なのだろうか、と。ある程度の事実には基づいているのであろうが、かなり誇張されているような気がしないでもなかったのである。特に生きた子供が臓器提供のドナーにされて殺されるという部分についてである。映画パンフレットの中で、ある大学病院の移植部医師が、「他のこどもを殺してまで移植を受けたいと思う日本人の親はいない。~略~そこまで日本人の心はすさんでいない。」と書かれていたが、まったくその通りだと思った。いや、そう信じたかった。
しかしその後、少し古いものではあるが1992年に発刊されたサンデー毎日記者によるルポルタージュ『幼児売買』(広野伊佐美著、毎日新聞社)をアマゾンで購入し読んでみてちょっと参ってしまった。“日本人にはいない”と言い切る自信がなくなった。この手の本ばかり読んでいるとうつ病になってしまいそうである。我々の知らない闇の世界は、確かにどうしようもなく存在するのである。
思うに資本主義というシステムは、その国や地域にある程度の富や経済力が蓄積されるまでは人権やモラルという概念は発動し得ないのである。絶対的な貧困の前では幼児の臓器や生命までもが商品として売買されてしまう現実がある。我々の常識では到底考えられないことである。しかしその常識とは単に資本主義本来の残忍さがすっぽり包み込まれて見えなくなってしまうまでに何重にも肉付け塗布されて発達してきた経済力という名の道徳に過ぎないのではないか。法律もまた無力である。多数の親や子供たちが自らの生命すら維持できないような環境では権力の処罰に効力などあるわけがない。役人や軍、官僚などが闇の勢力と一体になって需要と供給のもとに行われる取引が全てとなる。
また資本主義の成長、発達は先に豊かになった側の者が見たくない光景や不快な事実を隠す壁を作ってしまうという本質があるように思える。途上国がAPECのような国際会議を開催するときにスラム地域が見えないように塀や大きな看板を作って隠すようなものである。そのような物質的な壁だけでなく富める者と貧しいものの間に意識の壁もできて隔絶されてしまうと、見えないものはそもそも存在しないように錯覚してしまう。今日のグローバル社会において富める者が見たくない光景や現実は国境を越えて、貧しい国の貧しい地域にどんどんと押しやられてしまう。そしてますます見えなくなって、そのような問題があることすら忘れ去られてしまう。
どうすればいいのかは判らないが、先に豊かになった者はやはりきちんと見なければならない責任があると思う。そして先進国は地球規模の環境問題も踏まえた上で、新しい資本主義のあり方を考えてゆかなければならない時期にあるのであろう。日本という国は経済援助の金はばら撒いてきたのかも知れないが、本質的には何も見ていない。『闇の子供たち』は豊かでありながら“見ない者”の前にある壁をいきなり取り払ってしまうような作品であった。
映画『イースタン・プロミス』
最近見た映画で、最も素晴らしかったのはデヴィッド・クローネンバーグ監督作品の『イースタン・プロミス』だ。
ロシアンマフィアの世界を描いた映画である。一口で感想を言うと身体が震えてくるような恐ろしさがあった。映画の内容がではない。“才能”が恐いのである。世界的な本物の才能は見るものを震え上がらせるような力を持っている。
その昔デヴィッド・リンチ監督の『ツイン・ピークス、ローラ・パーマー最期の七日間』を劇場で見た時に、ラストで主人公を演じたカイル・マクラクランが赤いカーテンの部屋で確かふわりと浮かび上がる場面があったかと思うが、私はその悪魔的な映像に心底驚愕してしまってこんな恐ろしいものが一般公開されてもよいものかと憤慨と畏敬が交じり合ったような奇妙な感情を味わった。『イースタン・プロミス』にもどこかそれに近いものがあった。
ナオミ・ワッツが美しかった。本当に綺麗だった。何て言うか悪に照り映える美しさだ。しかし何よりもマフィアを演じた主人公ヴィゴ・モーテンセンの演技だ。これぞ才能である。見るものを震え上がらせる力だ。
『イースタン・プロミス』は、“悪”を描いた映画である。悪とは暴力ではない。
悪とは観念であり、暴力はアクションに過ぎない。この映画が恐ろしいのは、クローネンバーグ監督やナオミ・ワッツ、ヴィゴ・モーテンセンなどが悪とは何かをよくわかっているからではないかと私は思った。東欧世界には人身売買のような絶対的な悪が存在する。
日本には悪を描ける映画監督はいない。また悪を演じ切れる俳優も一人もいない。日本人は悪とはイコール暴力のことだと勘違いしているからではないだろうか。観念としての悪を誰も知らないのである。
それは取りも直さず、日本社会が平和であることの証明である。しかし必ずしも良いことだとも言い切れない。悪の無いところには、“善”もまた存在しないからである。
要するにナオミ・ワッツのような“美”が精神にも肉体にも宿らないということだ。
悪も無ければ善も無く浮島のごとく流れゆくは日本という国家なりけり。
低俗なTV番組は必要か
私の息子も、もうすぐ8歳になる。ゲームばかりしていて困る。そのゲームソフトを買い与え続けているのは他ならぬ私なのだが。
大阪の街中に住んでいる親は誰もが感じているであろうが、子供の遊び場所がない。時間を潰すには何か習い事をさせるか、家でゲームをさせているほかないのだ。私は子供と別居しているが、休日にはどこかへ遊びに連れてゆく。
と言っても、どこかのスーパー銭湯とかスパワールド(プールと温泉が一緒になっている施設)ぐらいしかない。最近は映画もよく見に行くようになったが、子供向きの映画を見ていると寝てしまうことが多い。『名探偵コナン』を見ていた時には大きな鼾をかいて寝てしまって息子に起こされた。息子はその隣に座っていた高校生に起こすように言われたようで私が目を覚ますと男子高校生は笑って私の方を見ていた。この前の日曜日には『カンフー・パンダ』を見たが、あれは良かった。最後まで眠りに落ちずに楽しむことが出来た。大人も子供も一緒に楽しませる娯楽には何か特別な力がある。本当の文化とはきっとそういうものなのだろう。
さて、息子は家でもTVをよく見ているようであるが低俗な番組が多くてうんざりさせられることが多い。先日も一緒に見ていると、タレントが互いに殴ったり、びんたを張ったり、蹴ったりしていてとても嫌な気分になった。それも信じられないことに男のタレントと女のTVアナがそんなパフォーマンスをして笑いをとっているのである。オリンピックにチャンネルを変えようとしたが、子供はそういう低俗なものが大好きなのである。息子はケラケラ笑いながら見ていて結局チャンネルを変えさせてくれなかった。
子供たちが真似をするじゃないか。男の子や女の子たちが学校でふざけて真似をすることを考えないのだろうか。それに意外と大人たちにも悪影響を及ぼしているかも知れない。子供に「死ね」などと暴言を吐くような学校の先生は、このような番組に感化されている部分があるんじゃないかと思いながら眺めていると居た堪れなくなって私は別の部屋にオリンピックを見に上がった。
あのようなくだらない番組に多額の広告費を出し続ける企業もどうかしていると思う。以前に石原都知事が、日本には大人の鑑賞に堪えるようなTV番組がないと嘆いていたがまったくその通りだと思う。
ゴールデン・タイムか何か知らないが、くだらない低俗な番組を垂れ流すぐらいなら一日のTV放映時間枠を削減した方がよいのではないかとも思う。コンビニの終日営業よりよほど問題があるのではないかと私は思うのだが。
一時間の放映で一体何十億の金が動いているのか知らないが所詮、日経平均株価は上がりそうな気配はないし、どうせ経済成長無き社会なら、やかましいだけの下品な番組などなくて静かな団欒の時間が地球環境のためにも日本のためにもなると思うのだがいかがなものか。低俗なTV番組は必要なのか。