言葉と身体
日本の道徳規範というものを考えるときに、裁判官や警察、学校の教師などがストーカーや痴漢、盗撮などの破廉恥罪で日々相次いで逮捕されているような今日的な状況は一体どのように社会分析されるべきなのか。
言うまでもなく本来、裁判官、警察、教師などは正義や道徳の要であり国民の模範足るべき存在である。この国のそれら管理者的な位置付けにある人々の堕落ぶりがあまりにも目立っているのはどうしてか。
私はそこに社会支配の本音と建前、見掛けと実質の不一致を見てしまう。日本的といえばそれまでかも知れないが、それらの乖離が一定の社会的な許容限度を超えたときに縦割り的な権力の末端現場で働いている人々の精神が知らず知らずの内に蝕まれ真っ先に崩壊してゆくのではないだろうか。
このような不一致の問題を“言葉と身体”をテーマにして自分なりに考えてみたい。
やくざの親分を仮に想定してみる。仁侠映画ではないが舎弟たちが親分の“言葉”に命を捨てようと腹をくくるのは、親分の言っていることが論理的に正しいからではない。また含蓄のある内容に心を打たれるからでもないであろう。そうではなくて、たとえ親分の言葉が反社会的であっても人格の中心から発せられた強い言葉であるから魅力が生ずるのだと思う。言葉と身体が一致しているから説得力があるとも言える。言葉とは単に記号が浮遊したものではなく、身体性が内在されているのである。身体には魂や霊魂が宿っているから、言葉には霊が宿るとも言えるが言葉と霊の間には身体が媒介している。よって言葉とはどこまでも生者のものである。死者には思いはあるかも知れないが言葉はない。
言葉について極端な例で説明するとファシズムだとかヒットラーとかを持ち出されて政治的に批判されそうでげんなりした気分になりそうであるが、そういうことではない。私は単に“言葉”の階層性や構造を分解することで、言葉が社会に与える影響というものを考えているだけである。
それで今日の日本の裁判官や教師などの“権威的な言葉”はあまりに記号化され過ぎていて身体性が希薄になっているのではないかと私は勝手に想像し危惧する。わかりやすくいうと世の中全体が本質を見ようとしない右へならえ式の誘導や欺瞞ばかりになっているということである。裁判官の書く判決文にしろ、校長先生の訓示にしろ表面的な道徳感覚をなぞったり一定のパターンを踏襲しているだけで人格の中心に触れていない遊離した言葉が多いのではないのか。
社会統制における記号的な言葉は、複雑雑多な紛争や権利関係を分類したり系統的かつ効率的に処理してゆくために必要不可欠な手段である。しかし身体性や生活の匂いがしない記号が一人歩きして人間の精神を支配してゆくことはとても危険なことでもある。また時代とともに社会意識が変化していかなければならない時に、ある言葉の性質が特定の記号として強固に固定化され柔軟性を失ってしまうと社会矛盾や軋轢が見えなくなってしまって結局のところ社会全体の生産性や活力が低下するだけなのである。それが今の日本の実相であると私は思う。要はバランス次第だとも言えるのであろうが、そのバランスを見極めるにはかなり高度な知性と感性が要求されるのかも知れない。しかし、そのような視点で社会の行く末を本気で心配している人間自体が日本に如何ほど存在するのであろうか。目の前にある利権だけ見るなと言いたい。
次回は政治家の言葉というものについて具体的に考察してみたい。
映画『闇の子供たち』
最近見た映画で最も心を痛め、考えさせられた映画は阪本順治監督作品の『闇の子供たち』である。
タイを舞台にした幼児売春、人身売買の話しである。山岳地帯の貧しい親たちは自分の子供を売春宿に売り渡すことによってしか生きてゆくことができない。そして8歳や9歳の子供たちが観光と買春を兼ねてやってきた欧米人や日本人の相手をさせられることになる。男が小さな女の子を買うだけではない。大人の女たちが小さな男の子のペニスにホルモン剤を注射して風船のように膨張させて弄ぶ。ホルモン剤を打たれすぎて死んでしまう子供と事件の発覚を恐れ子供の死体をカードで買う欧米人女性がいる。夫婦で子供を買いにくるケースもある。目の前で子供たちにセックスをさせ、その光景を見て興奮した夫婦が子供を性の奴隷のように自らの快楽のために奉仕させる。エイズにかかった子供は、文字通りゴミくず同然にゴミ袋に入れられて捨てられる。
まさに書いているだけで怖気をふるうような内容である。臓器移植手術では、売られた子供が脳死ではなく生きたままの状態で心臓を摘出される。映画と梁石日(ヤン・ソギル)の原作では、日本人夫婦が闇ルートで4千万円用意して10歳の我が子に手術を受けさせようとしている。日本新聞社、バンコク支局の記者、南部浩行は臓器ブローカーに接近して取材を重ね悲惨な真実を報道しようとする。現地バンコクのNGO団体、社会福祉センターの日本人女性、音羽恵子は職員たちと一緒になってその手術を阻止しようと闘う。しかし二人の前にはマフィアの暴力が立ち塞がる。
私が映画を見た日には、たまたま阪本順治監督が舞台挨拶に来ていた。上映終了後、阪本監督は当初映画化するにあたって、原作に書かれた内容がどこまでが真実でどこからがフィクションなのか気になっていろいろな文献や資料を調べたところ、小説の中の描写が緻密な取材に基づいた真実であることがわかってかなりショックを受けたと話されていた。
当日、劇場で販売されていた梁石日の原作小説を買って読んでみた。そこに描かれていた世界はあまりにもグロテスクであり、内容が内容だけに映画による映像表現がかなり抑制されていたものであることがよくわかった。それで私もまた阪本監督と同じように思ったのである。本当なのだろうか、と。ある程度の事実には基づいているのであろうが、かなり誇張されているような気がしないでもなかったのである。特に生きた子供が臓器提供のドナーにされて殺されるという部分についてである。映画パンフレットの中で、ある大学病院の移植部医師が、「他のこどもを殺してまで移植を受けたいと思う日本人の親はいない。~略~そこまで日本人の心はすさんでいない。」と書かれていたが、まったくその通りだと思った。いや、そう信じたかった。
しかしその後、少し古いものではあるが1992年に発刊されたサンデー毎日記者によるルポルタージュ『幼児売買』(広野伊佐美著、毎日新聞社)をアマゾンで購入し読んでみてちょっと参ってしまった。“日本人にはいない”と言い切る自信がなくなった。この手の本ばかり読んでいるとうつ病になってしまいそうである。我々の知らない闇の世界は、確かにどうしようもなく存在するのである。
思うに資本主義というシステムは、その国や地域にある程度の富や経済力が蓄積されるまでは人権やモラルという概念は発動し得ないのである。絶対的な貧困の前では幼児の臓器や生命までもが商品として売買されてしまう現実がある。我々の常識では到底考えられないことである。しかしその常識とは単に資本主義本来の残忍さがすっぽり包み込まれて見えなくなってしまうまでに何重にも肉付け塗布されて発達してきた経済力という名の道徳に過ぎないのではないか。法律もまた無力である。多数の親や子供たちが自らの生命すら維持できないような環境では権力の処罰に効力などあるわけがない。役人や軍、官僚などが闇の勢力と一体になって需要と供給のもとに行われる取引が全てとなる。
また資本主義の成長、発達は先に豊かになった側の者が見たくない光景や不快な事実を隠す壁を作ってしまうという本質があるように思える。途上国がAPECのような国際会議を開催するときにスラム地域が見えないように塀や大きな看板を作って隠すようなものである。そのような物質的な壁だけでなく富める者と貧しいものの間に意識の壁もできて隔絶されてしまうと、見えないものはそもそも存在しないように錯覚してしまう。今日のグローバル社会において富める者が見たくない光景や現実は国境を越えて、貧しい国の貧しい地域にどんどんと押しやられてしまう。そしてますます見えなくなって、そのような問題があることすら忘れ去られてしまう。
どうすればいいのかは判らないが、先に豊かになった者はやはりきちんと見なければならない責任があると思う。そして先進国は地球規模の環境問題も踏まえた上で、新しい資本主義のあり方を考えてゆかなければならない時期にあるのであろう。日本という国は経済援助の金はばら撒いてきたのかも知れないが、本質的には何も見ていない。『闇の子供たち』は豊かでありながら“見ない者”の前にある壁をいきなり取り払ってしまうような作品であった。
映画『イースタン・プロミス』
最近見た映画で、最も素晴らしかったのはデヴィッド・クローネンバーグ監督作品の『イースタン・プロミス』だ。
ロシアンマフィアの世界を描いた映画である。一口で感想を言うと身体が震えてくるような恐ろしさがあった。映画の内容がではない。“才能”が恐いのである。世界的な本物の才能は見るものを震え上がらせるような力を持っている。
その昔デヴィッド・リンチ監督の『ツイン・ピークス、ローラ・パーマー最期の七日間』を劇場で見た時に、ラストで主人公を演じたカイル・マクラクランが赤いカーテンの部屋で確かふわりと浮かび上がる場面があったかと思うが、私はその悪魔的な映像に心底驚愕してしまってこんな恐ろしいものが一般公開されてもよいものかと憤慨と畏敬が交じり合ったような奇妙な感情を味わった。『イースタン・プロミス』にもどこかそれに近いものがあった。
ナオミ・ワッツが美しかった。本当に綺麗だった。何て言うか悪に照り映える美しさだ。しかし何よりもマフィアを演じた主人公ヴィゴ・モーテンセンの演技だ。これぞ才能である。見るものを震え上がらせる力だ。
『イースタン・プロミス』は、“悪”を描いた映画である。悪とは暴力ではない。
悪とは観念であり、暴力はアクションに過ぎない。この映画が恐ろしいのは、クローネンバーグ監督やナオミ・ワッツ、ヴィゴ・モーテンセンなどが悪とは何かをよくわかっているからではないかと私は思った。東欧世界には人身売買のような絶対的な悪が存在する。
日本には悪を描ける映画監督はいない。また悪を演じ切れる俳優も一人もいない。日本人は悪とはイコール暴力のことだと勘違いしているからではないだろうか。観念としての悪を誰も知らないのである。
それは取りも直さず、日本社会が平和であることの証明である。しかし必ずしも良いことだとも言い切れない。悪の無いところには、“善”もまた存在しないからである。
要するにナオミ・ワッツのような“美”が精神にも肉体にも宿らないということだ。
悪も無ければ善も無く浮島のごとく流れゆくは日本という国家なりけり。