龍のひげのブログ -538ページ目

権力と洗脳

これは3年ほど前のことなのだが、当時のライブドアのブログでアクセス数NO1を誇っていたものにDV冤罪の体験談を書いていたものがあった。

その作者は心から妻を愛していたが可哀想に浮気をされていただけではなく、こともあろうに妻に事実無根の嘘でDV夫に仕立てられてしまった。生まれてきたばかりの赤ちゃんも実際には誰の子供かわからない。作者は身の潔白を晴らすために、妻の嘘を簡単に信じてDV認定し、自らを犯罪者扱いする役所や警察を相手に心身ともにぼろぼろになるまで闘うという内容であった。

男性読者以上に、女性読者からの同情や悪妻の卑劣さに対する激しい怒りを買ってちょっとした反響を呼び起こし書籍化もされたようだった。

当時私もまた妻と苛烈な紛争の別居状態であり、法廷においても争っていた。よって私自身にとっても決して他人事ではなかったのである。DV法とやらが妻や妻の弁護士にどのように悪用されるかわからないという不安がつきまとった。また純粋に法律や制度のあり方としても一方の親告だけで相手を加害者として認定してしまうことの危険性や社会的な混乱に私は大いに憂慮したのである。

それである日のことである。私は区役所の福祉課に趣き担当者の話しを直接に聞いてみることにした。もちろんブログの話しまではしなかったが、自分と妻の間におけるこれまでの紛争の経緯やその時点での状況を包み隠さず、全てを正直に話した。その上で妻側がどのようにDV法を悪用してくるか心配なので、一般論としてで構わないから行政においてどのようなケースでどのように対応するか具体的に教えて欲しいと言ったのである。

対応してくれた福祉課の担当者は、とても親切でいかにも人の良さそうな男性だった。私の話しを聞いて、私の立場の危うさをよく理解し心中より心配してくれたようだった。それでその担当者は、「私にはDVについての詳しいところまではよくわからないので、DVの責任者を呼んできます。その人に説明してもらいましょう。」と言って一旦奥に引っ込み、しばらくすると一人の男性を伴って戻ってきた。

私はその男性の姿を見るなり、ぎょっとした。雰囲気がまるで周りの役人たちと違うのである。具体的に言えば目つきがおかしい。その人の目は外部に向かって開かれ、放たれてゆく光がまるで感じられなかった。内面の精神的なぬかるみに沈み込んでゆくような光のない目をしていた。どう見ても“洗脳”の身近で生きてきた人間の目付きとしか思えなかった。もちろん“私の印象”であるから他の人にどう見えるかは知らない。

それで最初に応対してくれた親切な担当者に案内されて3人で役所内の相談室へと場所を移動した。30分弱ほどの時間だったと思うが、DV責任者とやらはその間一度も私と目を合わそうとしなかった。時たま下や有らぬ方を向いてぼそぼそと独り言を言うようにしゃべる程度であった。そもそもテーブルを挟んで私の正面に座っていたにもかかわらず、身体の向きが私から30度ほどずれたままなのである。私ではわからないからと言ってわざわざ連れてきてくれた最初の担当者が気を使っていろいろと喋っているような有様だった。

私には正直なところ、DV法のいい加減さよりもそのような目付きをした人間が役所内に責任者として居座っていることに少なからぬショックを覚えた。国家の体制内部に“洗脳”が濃厚に組み込まれている事実を目の当たりにしたように思えたからである。“背後”には一体、どういう企みがあるのだろうかと不安になった。

その人の身体全体から(我々は、この法律のおかげで国から多額の予算をもらって食べているんだ。余計なことに首を突っ込むな。危険だよ。おまえのように大衆の枠組みから外れた意識や考えを持っている人間は邪魔なんだよ。)と言っている声無き声が沈黙の中に聞こえていた。

もちろん私の創作であるから実際にその人がそのように思ったかどうかはわからない。でも、それほど的が外れているとも思えない。私は決して頭は良くないが、直感や洞察力は優れているのである。

それで私は“洗脳”というものについて深く考え込んでしまうのである。前回書いたオウムは宗教団体でありながら人殺しの集団であった。道場に行ってみるとそこには実際に“ぎょっと”するような雰囲気が漂っていた。しかし出迎えてくれた信者はどこにでもいるような、いかにも普通の誠実そうな人間でとても洗脳されているようには見えなかった。

それとは反対に役所へ法律の一般的な運用のされ方について聞きに行くと、日常的な生活空間の中に“ぎょっと”するような気配の人物がぬうっとが現れる。もちろん権力側の人間なので殺人とは無縁であるが、マスコミや大衆、政治が一体になった影で強力に冤罪が発生する構造を推し進めているように思える。何かしら表向きの建前とは別の目的を持っているように見えてしまう。

我々はこの“ぎょっと”するものといかに付き合っていくべきなのだろうか。

思考なき人々と同様に単に見ないで生きてゆけば、私は幸せになれるのだろうか。日本という国家にとってはどちらがいいのだろうか。

見るべきか、見ないべきか。それが問題である。

“洗脳”についての所感

もう10年以上昔のことになるのかと思うと懐かしさすら感じるのであるが、私は1996年にオウム真理教の道場に話しを聞きに行った事がある。

その前年の強制捜査で教祖、麻原彰晃以下幹部たちが一斉に逮捕されオウム教団の凶悪な犯罪が世の中につまびらかに暴かれた。その後1年以上経っているにも関わらずオウムから離れることが出来ず“修行”に勤しんでいる信者は一体何を考えているのか。ある日、当時私が住んでいたアパートの郵便受けに投函されたオウム真理教のビラを見た私は、直接信者の話しを聞きたいと思うと知的好奇心も加わって居ても立ってもおれないような気持ちに苛まれた。それで、ついに電話連絡をした上で大阪にあったある道場に話しを聞きにいったのである。

オウムの道場に一歩、足を踏み入れた時に受けた強烈な印象は今も忘れられない。何もないのである。中央に祭壇が設えてあって大きな仏画が掛けられていただけである。信者たちが何人か部屋のなかにいたが、何ていうかその空間は真っ白なエネルギーに満たされていて異次元世界に彷徨い込んだような感覚に私は一瞬怯えた。修辞的な表現になるかも知れないが、その空間を満たしているエネルギーというものは、何かが“剥き出し”になっていて凶暴性があるようにすら感じられた。気の弱い人間なら、即逃げ出すのではないかと思えるような雰囲気だった。

しかし、私を出迎えてくれた男性信者はその異様な空間の雰囲気とは対照的にどこにでもいるような、ごく普通の印象で私が見た限り奇異なところはまったく感じられなかった。年齢はよく覚えていないが20代後半か30歳ぐらいであったかと思う。信者は、オウムに入信したきっかけを一生懸命に話してくれた。私が記憶している部分は、その信者はある日ある夢を見て、その夢の中にオレンジ色の僧衣を着た確かチベット僧が出てくるのであるが、そのオレンジ色の僧衣を着た僧が信者の前世なのだろうか、とにかく信者はその夢から目覚めた時に涙が止まらなかったのだという。その夢の体験がオウム入信にどう結びついていたのかも今となってはよく思い出せないがとにかくそのような話しであった。

私は正直なところ、その信者の話しの内容や思考回路に短絡的な部分も感じたのであるが、信仰とは総じてそのようなものかも知れないと思い黙って聞いていた。信者は私に対して、入信を勧めるようなそぶりはまったく見せなかった。私は話しを聞きながら、この信者は本当に“洗脳されている”と言えるのだろうかと首を傾げたくなるような思いにとらわれた。洗脳されているようにはとても見えなかったのである。あるいは洗脳されていたのかも知れないが、私が見た限りでは、たとえ短絡的な部分はあるにせよ己が信じる道を静かに歩んでいる青年としか感じられなかった。当時盛んに放映されていたTVでの信者のイメージとあまりにも異なっていたのである。

麻原教祖や幹部たちの一連の犯罪に対してどのように思うのか、私が聞きたいのはその部分についてであったのだが道場で信者の話しを聞いている内に聞けなくなった。いや聞きたいという気持ちが不思議となくなってしまったのである。

この人は自分の道を歩んでいる、その歩みを誰にも妨害することは出来ないのではないかと思うと、この人はこれでいいのだという気になってしまったのである。私とオウムとの接触はその時限りのことである。

“洗脳”とは一体どのような状態を指していう言葉なのだろうか。

私はその日、自分もまたその信者と同様に暗くて寂しい森の奥深くに一人で分け入っているような感慨を覚えた。

冤罪が発生する社会構造

“冤罪”が発生する社会的背景というものについて考えてみたい。富山県強姦事件で誤認逮捕された男性はアリバイがあるにもかかわらず、被害女性2名が面通しの結果「この人だと思う」あるいは「この人だ」と証言したために犯人にされてしまったのである。

この手の事件で被害者の記憶に基づく証言が重要視されるのは当然だが、加害者を特定するような決定的な証拠がおざなりにされたり、容疑者のアリバイを無視して無理やり自白を強要するということは捜査の怠慢と言うよりも本質的には捜査能力の低下に原因があるといえるのではないだろうか。

その背景は痴漢やDVなどの犯罪とは言えないような軽微な事件で、女性の言い分のみが無条件に認められ男性の主張は無視しても構わないというような暗黙の了解が社会構造に強力にコード化されてしまっているところに原因があると思われる。

痴漢などの迷惑行為を女性の言い分のみに基づいて、“犯罪”として強権的に取り締まっていると、強姦などの本当の犯罪に際しても痴漢やDVなどと同じような取調べになるのは当然とも言えるのである。

なぜなら冤罪の構造も権力内部で引き継がれ一体化されてしまうからである。そして社会秩序を維持するための肝心の“捜査能力”が劣化してゆくのである。

このような社会構造に私は権威あるメディアも加担していて大いに責任があると考える。たとえばDV法に関しても、法律の大原則であるはずの公平性の視点が明らかに欠如している悪法であると一部で抗議集会などが開かれていたがメディアは一切、報じようとしない。

そのような動きが燎原の火のように拡がることを何よりも恐れているからである。権威あるメディアが社会正義を担保していると考えるのは明らかに間違っている。見せ掛けの正義と民主主義をこねくり回しながら、権威や収益システムを死守しようとしているだけではないのか。

私が既存メディアの解体、再編が必要だと考えるのはこのような理由によってである。つまらない法律ばかりたくさん作って世の中を滅茶苦茶にするのであれば、メディア資本を解体する法律を作るべきだと私は思う。