権力と洗脳 | 龍のひげのブログ

権力と洗脳

これは3年ほど前のことなのだが、当時のライブドアのブログでアクセス数NO1を誇っていたものにDV冤罪の体験談を書いていたものがあった。

その作者は心から妻を愛していたが可哀想に浮気をされていただけではなく、こともあろうに妻に事実無根の嘘でDV夫に仕立てられてしまった。生まれてきたばかりの赤ちゃんも実際には誰の子供かわからない。作者は身の潔白を晴らすために、妻の嘘を簡単に信じてDV認定し、自らを犯罪者扱いする役所や警察を相手に心身ともにぼろぼろになるまで闘うという内容であった。

男性読者以上に、女性読者からの同情や悪妻の卑劣さに対する激しい怒りを買ってちょっとした反響を呼び起こし書籍化もされたようだった。

当時私もまた妻と苛烈な紛争の別居状態であり、法廷においても争っていた。よって私自身にとっても決して他人事ではなかったのである。DV法とやらが妻や妻の弁護士にどのように悪用されるかわからないという不安がつきまとった。また純粋に法律や制度のあり方としても一方の親告だけで相手を加害者として認定してしまうことの危険性や社会的な混乱に私は大いに憂慮したのである。

それである日のことである。私は区役所の福祉課に趣き担当者の話しを直接に聞いてみることにした。もちろんブログの話しまではしなかったが、自分と妻の間におけるこれまでの紛争の経緯やその時点での状況を包み隠さず、全てを正直に話した。その上で妻側がどのようにDV法を悪用してくるか心配なので、一般論としてで構わないから行政においてどのようなケースでどのように対応するか具体的に教えて欲しいと言ったのである。

対応してくれた福祉課の担当者は、とても親切でいかにも人の良さそうな男性だった。私の話しを聞いて、私の立場の危うさをよく理解し心中より心配してくれたようだった。それでその担当者は、「私にはDVについての詳しいところまではよくわからないので、DVの責任者を呼んできます。その人に説明してもらいましょう。」と言って一旦奥に引っ込み、しばらくすると一人の男性を伴って戻ってきた。

私はその男性の姿を見るなり、ぎょっとした。雰囲気がまるで周りの役人たちと違うのである。具体的に言えば目つきがおかしい。その人の目は外部に向かって開かれ、放たれてゆく光がまるで感じられなかった。内面の精神的なぬかるみに沈み込んでゆくような光のない目をしていた。どう見ても“洗脳”の身近で生きてきた人間の目付きとしか思えなかった。もちろん“私の印象”であるから他の人にどう見えるかは知らない。

それで最初に応対してくれた親切な担当者に案内されて3人で役所内の相談室へと場所を移動した。30分弱ほどの時間だったと思うが、DV責任者とやらはその間一度も私と目を合わそうとしなかった。時たま下や有らぬ方を向いてぼそぼそと独り言を言うようにしゃべる程度であった。そもそもテーブルを挟んで私の正面に座っていたにもかかわらず、身体の向きが私から30度ほどずれたままなのである。私ではわからないからと言ってわざわざ連れてきてくれた最初の担当者が気を使っていろいろと喋っているような有様だった。

私には正直なところ、DV法のいい加減さよりもそのような目付きをした人間が役所内に責任者として居座っていることに少なからぬショックを覚えた。国家の体制内部に“洗脳”が濃厚に組み込まれている事実を目の当たりにしたように思えたからである。“背後”には一体、どういう企みがあるのだろうかと不安になった。

その人の身体全体から(我々は、この法律のおかげで国から多額の予算をもらって食べているんだ。余計なことに首を突っ込むな。危険だよ。おまえのように大衆の枠組みから外れた意識や考えを持っている人間は邪魔なんだよ。)と言っている声無き声が沈黙の中に聞こえていた。

もちろん私の創作であるから実際にその人がそのように思ったかどうかはわからない。でも、それほど的が外れているとも思えない。私は決して頭は良くないが、直感や洞察力は優れているのである。

それで私は“洗脳”というものについて深く考え込んでしまうのである。前回書いたオウムは宗教団体でありながら人殺しの集団であった。道場に行ってみるとそこには実際に“ぎょっと”するような雰囲気が漂っていた。しかし出迎えてくれた信者はどこにでもいるような、いかにも普通の誠実そうな人間でとても洗脳されているようには見えなかった。

それとは反対に役所へ法律の一般的な運用のされ方について聞きに行くと、日常的な生活空間の中に“ぎょっと”するような気配の人物がぬうっとが現れる。もちろん権力側の人間なので殺人とは無縁であるが、マスコミや大衆、政治が一体になった影で強力に冤罪が発生する構造を推し進めているように思える。何かしら表向きの建前とは別の目的を持っているように見えてしまう。

我々はこの“ぎょっと”するものといかに付き合っていくべきなのだろうか。

思考なき人々と同様に単に見ないで生きてゆけば、私は幸せになれるのだろうか。日本という国家にとってはどちらがいいのだろうか。

見るべきか、見ないべきか。それが問題である。