note移転のお知らせ
今後の発信拠点(移転)に関する大切なお知らせ
いつも当ブログをお読みいただき、誠にありがとうございます。大阪在住の吉川 玲(ヨシカワ アキラ)です。これまで長年にわたり、月に数回程度ではありますが、このブログを通じて自らの考えや社会への批評を投稿し続けてまいりました。真剣に読んでくださっていた読者の皆様には、心より感謝申し上げます。この度、これからの時代の子供たちのために、日本の社会を少しでも良い方向に改めていきたいという考えのもと、より質の高い言論空間を確保し、皆様と真摯に向き合うために、発信拠点を「note(ノート)」へと完全に移転することにいたしました。既にnoteには、自己紹介、挨拶文に続けて5月26日記事の「沈黙の知性」と5月31日の「劣化し続ける左翼の知性」を転載してあります。
■ 1本目:自己紹介とご挨拶
■ 2本目:沈黙の知性
■ 3本目:劣化し続ける左翼の知性
これからは、ロボットや不透明なシステムに邪魔されない、人間同士の純粋な言論の場で、皆様と深く繋がっていきたいと考えております。最新の記事や今後の更新は、すべて以下のリンク(note)からご覧いただけます。ぜひ、ページを保存(ブックマーク)していただき、引き続きお付き合いいただければ幸いです。
▼「note」はこちらからご覧いただけます
https://note.com/gentle_plover77
(吉川 玲)
左翼の思考回路と精神構造
ということで、それでは朝日新聞他、日本の左派陣営の人々にお聞きしたい。といってももちろん答えが返ってくることなど期待していないが、各自の胸の内でよく考えて欲しいと願う。というよりも、先ずこの質問内容に対して誠実に向き合うことができるのであろうかと疑問に思う。一旦、向き合ってもすぐに防御反応が作動して、思考に緊急ブレーキが掛かることがあるのではないかと想像される。しかしもしそうであれば、あなた方は今後、日本全体に影響力を行使し得る立場の一員として、大所高所の観点から社会全体に警鐘を打ったり、訓戒を垂れる資格はないと言いたい。
仮にあなたに高校生の姪(兄か弟の子供)がいるとして、今回の巨人阿部元監督のケースと同じようなことが発生して、姪から相談を受けたとする。姉妹で喧嘩をしていたら父親に叱られて投げられた。怪我はしていないけれど、暴力は許せないので、児童相談所か警察に通報しようかどうか迷っている。あなたの兄弟である姪の父親は、普段は真面目、子煩悩で、日常的に暴力に訴えるようなタイプではない。またアルコール依存症でも酒乱でもない。姪が通報すれば少なからず逮捕される可能性があることが予想されるとする。逮捕されれば、間違いなく父親は職を失い、家計は困窮する。姪は大学受験に向けて予備校にも通い、勉強に一生懸命、努力していたが、父親が職を失えば大学の進学を諦めなければならなくなる。またそのような事態になれば経済的な問題だけでなく、一生、親子間に深い心の溝が生じるかも知れない。最悪の場合は一家離散になることも考えられる。あなたは、姪や兄弟の家族の幸福を心から願っている。さて、そのような状況で左翼思考のあなたは本当に、どんなに些細なものであっても暴力は許せないことです。迷うことなく、即座に児童相談所なり警察に通報しなさい、とアドバイスするのであろうか。もし即座に当然そうしますよと答えるのであれば、或いは考えるのであれば、それはそれで立派というか、いや私には立派とも思えないけれど、一貫性は通っていると言える。しかし普通は、厳密に言えば普通の定義も難しいが、一般的には、「1回程度のことで早まったことをしてはいけない。僕の方からもお父さんには注意しておくから、通報するようなことはやめておきなさい。」と言わないであろうか。私なら間違いなくそう言う。さあ天声人語の執筆者や日本の左派陣営の人々の自問自答の結果はいかなるものなのであろうか。決め付けるつもりはないが、左派言論であろうが、革マルであろうが、日教組であろうが、そのようなケースで通報を勧める人間など一人もいないと思われる。結局、何が言いたいのかと言えば、左翼の思考形態、精神構造の特徴とは、自らの日常性の生活意識や皮膚感覚と遊離、隔絶した理想、イデオロギーを独り歩きさせて、それに絶対的な価値を置き、頑なにその価値を守り抜こうとするところにあるということである。極端な場合には、連合赤軍事件のようにイデオロギーの価値を守るために同志をリンチ殺害することにも発展する。まあそれは極論かも知れないが、現在の身近なケースで言えば、熊の被害で亡くなっている人々がたくさんいるにも関わらず、可哀そうだから熊を殺すな、駆除するなと執拗に抗議する人間がいる。自分や自分の身内が被害に遭うような状況になればそのような抗議はしないのであろうが、そういう自問自答を拒絶して、可哀そうな熊の命を救うために抗議し続けることがその人にとっての存在意義であるというか、いやな言い方かもしれないが、そういう健気な自分自身を心のどこかで愛おしんでいるのであろう。それと元阿部監督のケースで娘の通報と阿部氏の逮捕、辞任に心を痛める、至って常識的で良心的な人々を「暴力を肯定するだれそれ」として曲解し、レッテルを貼り、貶めようとするマスコミとどこが違うのであろうか。同じではないのか。良心的な人々は誰も通報した阿部氏の娘を批判して傷つけようと考えている訳ではない。しかし一部マスコミのようにその通報の行為をよくやった、勇気があって偉いなどと全面的に賞賛、賛同してしまうと、それに影響を受けた子供たちが似たようなケースで次々と同じような行動をとる可能性がある。自分や自分の身内がそういう状況に遭遇した場合は例外扱いで、第三者の場合には絶対的な原理主義でほんの些細な暴力事案であっても通報すべし、それに疑問を呈する人々は暴力肯定者であるなどと批判する左翼の主張が、本当に我々の社会が受け入れるべき正しい考え方なのであろうか。左派言論の特に朝日新聞社の人々によく考えて頂きたいと思う。まあそうは言っても組織の論理でそういう方向性の思考の端緒を開く事さえ難しいのであろうが。もし誰かが朝日新聞社或いは系列TV局の人間に、今回わたしが呈した質問をしたとすれば、返ってくる答えは容易に予想できる。それは、「仮定の質問には、お答えできません。」ということだ。左派の人々は、自分たちの主張、批判は一方的にわーわー言うが、自分たちに都合の悪い疑問や反論には途端にパソコンの電源がオフになるように自動的に思考がシャットダウンするという便利な機能が付属している。だから今回の私の問いにも、恐らくは「仮定の質問に対しては、考えることすらできません」ということになるのであろう。そのような仕事に本当に誇りを持てるのであろうか。まあ高給をもらっているのであればそれもよかろう。私にはどうでもいいことだが。
最後に阿部元監督の名誉のためにいっておかなければならないことがある。5月31日付けの天声人語の内容に、冒頭でたとえ話として聞いてほしいということで阿部氏の事件を想定して、「高校教師が酒に酔って生徒に暴力をふるい、現行犯逮捕された」などと架空の話しを記載しているが、酒に酔って暴力をふるうのと、その暴力があった時にたまたま酒を飲んでいたのとでは、全然印象が異なるものである。普通に考えれば、酒に酔って、要するに酒が原因で阿部氏が娘に暴力をふるったのであれば、酒を飲んでいたのはその日だけであったということは考えられないことなので、これまでにもそのような暴行が日常的にか散発的に発生していたはずである。しかし実際にはこれまでの暴行はなかったということなのだから、酒に酔っての暴行ではなくて、その騒動が起こった時がたまたま阿部氏が晩酌か何かで酒を飲む時間帯であったということなのであろう。その程度のことは普通に頭を働かせれば誰にでもわかることではないか。これは朝日新聞や左派言論の常習的、伝統的なやり口なので、今更指摘してもどうにもならないのかも知れないが、何でそのような悪質な印象操作を当たり前のようにできるのか、一体、どういう気持ちなのかを聞いてみたいものだ。ちょっとした罪とも言えないようなしくじりで奈落の底に堕ちていく人間のさらに足を引っ張ることがそれほど気分がいいのであろうか。「私は自分と利害関係のない他者はいくらでも批判し続けますが、私自身や私の庇護者を批判する声には一切、耳を傾けるつもりはありません。」という心の声が聞こえてきそうである。恐ろしい日本の木鐸である。
(吉川 玲)
劣化し続ける左翼の知性
ということで、不気味な世の中である。我々は今、超監視社会の中で生きている。特にマスコミが、本来は言論の自由を守るべき存在であるはずであるのに、大衆に対する言論統制、世論誘導の代理人となっているように感じられる。もちろん一口にマスコミといっても無数にあるので、一概には言えないことであるし、程度の差も様々であるが、オールドメディアの特に左翼言論の中身があからさまに限度を逸脱した統制、誘導体質になっていて、質も劣化しているように私には感じられる。言葉に中身や奥行きがないというのか、紙面を埋める社の方針に従った字面を並び立てただけのものであるなら、今の時代にはAIに書かせた方がよほど気の利いた文章が1~2秒で出来上がるであろう。人件費、時間、資源の削減のためにAIに変えてはいかがであろうか。AI全盛の今だからこそ人間が書く言葉や文章の価値が問われているのである。自分のことはあまり言いたくはないが、私でもこうやって文章を作成するときには、自分の人格や生き方の中心から生み出された血肉の言葉となるように心掛けているつもりである。言うまでもなく私は大した人間ではないが、大した人間でないからこそ、自らの言葉に宿る魂というか、言霊を大切にしなければならないと考えている。AIには人格も魂もないのであるから、その点においてAIと人間の根本的な差異を認識して、自らの言葉に置き換える必要性があるということである。そういうことを度外視して、大量の部数が発行されていて、それなりの影響力や政治力があって、背後に巨大な組織や金があるから、その人の言葉が尊い訳ではないと思う。その違いは読むべき人が読めばわかるであろう。自覚がないのであれば、単に修行不足なのか、そもそも多くの人々に言葉を発する資質が欠落しているのか、或いは組織に洗脳されて自分のことを客観視できなくなっているのかのいずれかであろう。
前回私は、「沈黙の知性」について記事を投稿したが、沈黙に耐えかねて、冷静さを喪失して出てきた妄言か何かよくわからないが、朝日新聞の天声人語がまた訳のわからないことを主張している。5月31日の内容によれば、巨人の前監督である阿部氏の娘に対する暴力事件について、SNS上で「真剣に向き合ってくれている」とか「愛のムチは必要不可欠だ」などという声が挙がっていることを批判するような内容のものである。正直に言って私にはその論説自体が、朝日新聞特有のいかにも与しやすい大衆の素朴な声に反応、懸念して、自らの正当性を宣伝する皮相的な手法に感じられて辟易とするものであるが、まあそれはそれで許容範囲内のものではある。しかし末尾において、そもそも論として父親の存在の意義について述べているのである。霊長類学者の山際寿一さんの著書『父という余分なもの』から引用して「多くの動物たちは父親がいなくても差し支えのない社会生活を営んでいる」と記されていると。しかし人間は、ほかの動物に無い「家族」や、複数の家族による「共同体」を営むために必要であったから、父親という役割を生み出したと。家族や共同体のあり方が変わるなか、父親はどうあるべきかと結んでいる。さて皆さんはこの論説をどのように感じられるであろうか。私は、朝日新聞的といえばそれまでだが、正直に言えば程度の低さを感じざるを得ない。些細であっても一切の暴力を否定する論考から、父親の存在意義や役割への飛躍に無理があるというか、家族や父親を否定するために阿部前監督の事件に言及したきわめて政治的な印象操作のものになっているように感じられる。いやいや阿部氏のちょとした家庭内騒動と父親の存在意義とは本来、全然関係性の無い話しではないのか。仮に阿部氏が父親ではなくて、母親であっても暴行や育児放棄は、家庭内では普通に起こり得ることではないのか。霊長類学者の言うところの父親不要の説と今回の阿部氏の問題を強引に結び付けて論じることに、私は朝日新聞の悪質性と質の低さを感じる。朝日新聞は一体、何を守るために、何を推進するために言論活動をしているのであろうか。本当は子供の安全などどうでもいいのではないのか。それとも家庭の調和というものが気に入らないのか。朝日新聞の紙面に登場してくるドラえもんの家庭に父親の影が見られないように、あからさまに家庭内の夫婦、親子、ジェンダー間の分断、対立工作を注目度の高い事件を利用して、日常的に行っていることは、一定の知性を兼ね備えた人々にはわかるであろうが、明らかである。私はこれは保守とかリベラルなどというような思想性の対立であるというよりも、もっと単純に左翼言論の知的レベルや精神性の低下に要因があると以前から感じていたものである。たとえば言語能力自体が今のマスコミは問題があるというか、ネットに掲載された記事を読んでいても何を言いたいのかよくわからないようなものが多い。それは天声人語も同様である。本当は気の毒なのであまり言いたくはないが、この際なので具体的に言うことにする。数年前の天声人語の記事に言葉の用法の変化について肯定的に論じたものがあった。「全然」という言葉の用法である。本来全然は、僕は全然、勉強ができません、というように否定的に使うのが正しいものである。それが時代の変化の中で、全然大丈夫です、とか全然好きですよ、などと肯定的な用法に変化してきたと。それで言葉も生き物なのだからその変化を受容すべきであるというような内容であったと記憶している。しかし私に言わせれば、朝日新聞のそして天声人語の言語読解能力は低い。今の時代の全然の肯定的用法は、肯定に見えるようで、実は否定のままで変化はしていない。たとえば親子で山登りをしていたとしよう。父親が息子に、「そろそろ疲れてきたのとちがうか。休憩しようか」と聞いたとする。息子は父親に「まだ全然疲れてないよ。大丈夫だから休憩せずに急ごう。」と答えるのが「全然、大丈夫。急ごう」になっているのである。誰かの家に食事に招かれて「お口に合うかしら。美味しくないんじゃない。」ときかれて「美味しくないなんてことは全然ないです。ものすごく美味しいです。」が「全然、美味しいですよ。」となるということだ。お分かりであろうか。全然の肯定用法は単に否定の省略なのだ。若者言葉はショートカットで省略することが多い。それが表面的には否定から肯定へと正反対に変化しているように見えるだけなのだ。それが大人にも拡がって定着しているのである。その程度のことがわからない言語能力だから、社会全体のことを論じていても中立性や客観性を保てずに極端に偏向したり、いびつに飛躍するのである。一昔前は朝日新聞の社説がどこそこの大学入試に引用されたなどと盛んに自慢していた時もあったが、今は昔である。この程度のものが大学入試になっているようでは、大学に進学する意味すら疑われることになる。社会に不要なのは父親の存在ではなくて、朝日新聞社なのではなかろうか。皆さんはどのように思われるであろうか。
(吉川 玲)