沈黙の知性
ということで、大した話しではないが、最近タクシーに乗った時のことだが、座っていた後部座席の前にモニターが掛かっていて、何かの宣伝なのか何かよくわからない映像が流れていた。それで何気なくぼんやりと見ていると、女性タレントのメグミさんによく似ている若い女性(本人かも知れない)が、小さなリスか何かの小動物の縫いぐるみと会話をしていて、その会話の内容が興味深かったのでここでお話しすることにする。何についての会話だったのかと言えば、知性とは何なのかということについてである。メグミさん似の女性(或いは当人)は、小動物に対して何と「知性とは黙ることだ」と喝破したのである。黙ることの意味は「何かあった時に、わーわー言うのではなくて、黙って冷静に状況を把握して、どうすればその問題が収束に向かうかを見極めることだ」と確かそのような意味合いのことを言っていたので、私はこの女性は凄いことを言うなあと感心してしまったのであった。それでこれは一体何の宣伝やねんと思っていたところ、タクシーは自宅についてしまってわからずじまいになってしまった。
知性とは、わーわー騒ぎ立てることではなく、その対極の沈黙の中にこそ存在する。この警句の持つ意義は、我々現代人の日常生活を維持する上で非常に貴重だと思われるし、また若い女性が述べていることが、私には大変好感を感じたのである。人生や生活に生じる諸問題の困難さは、もちろん貧困であるとか病気や家庭環境など簡単に解決できないこともあるであろうが、大半は大したことではないこと、つまらない、どうでもいいような個人的な自分のプライドや面子、体面を守るために意固地になって感情的にわーわー騒ぎ立てることから発生する処分不可のゴミ芥のような類のものだとも言えるからである。人はなぜ、わーわー言うのであろうか。巨人の阿部監督が18歳の長女への暴行で逮捕され辞任した。思うに日頃から日常的に或いは散発的にでも暴力行為があったのなら今回の経緯は必然的な流れであると思われる。しかし一時的な父親への反発の感情で児童相談所に通報して、児童相談所も状況の程度がよくわからないまま、たとえば通報時の泣き声や興奮した声の様子から緊急性を感じて警察に110番したのであれば、それでこのような大事になったのであれば、やはり社会の何かが間違っているような気がする。別に阿部監督の長女を責めている訳ではない。18歳ということであれば微妙な年齢でもある。でももし長女が今になってえらいことになってしまった、こんなことになるとは思っていなかったと後悔する気持ちがあるのであれば、やはり今回の事態は日常的な刷り込みが招いた悲劇だと言えるのではなかろうか。悲劇という言葉が適切かどうかはわからないが、父親が職を失ったのであるからそれなりに不幸な出来事ではあろう。暴力を許せないという気持ちは理解できるものではある。しかしそれをAIのチャットGPTに相談するのはまだしも、児童相談所に通報するかどうかは別の冷静な判断能力が必要とされるものである。わーわー言うだけではダメなのである。私はその刷り込みにはマスコミの悪影響が大きいと考えている。特にオールドメディアの論調だ。わーわー言うのが絶対的に間違っているとか、悪だというつもりはない。長年いじめを受け続けて、抵抗や抗議が出来ないままに我慢し続けて、限界になって自殺する子供たちがいる。京都府南丹市の事件のように11歳の男の子が継父に殺されるような悲惨なケースが後を絶たない。そういうような境遇の子供たちや人々が、本当はわーわー言わなければならないのだし、また救ってあげなければならない対象であるはずである。しかし現実にはそのような社会構造にはなっていない。なぜなのであろうか。世の中には自分の当然の権利として、わーわー言うのが日課であるとか、言わなければ損だと考えるような精神性の人々がたくさん存在する。その源は、TVなどで大上段に誰かに対してわーわー言うのを生業としているような識者なりタレントのような品性の劣る人間が、日常的にこの我々の社会を、皮相的で欺瞞的な正義や倫理観によって穢し続けてきていることにあるように私には感じられる。はっきり言ってTVやオールドメディアの本質とは、まあそれぞれのメディアに差異があるので一概には言えないことであるが、基本的にはそういうことで成り立っている商売なのである。もっとわかりやすい言葉で言えば、卑しいのである。この卑しさの社会構造に悪影響を受けた子供たちが、本当は誰よりも金銭的にも愛情にも恵まれた家庭環境で育てられているにも関わらず些細な折檻程度のことで警察や児童相談所に自分の親を訴えて、一方で本当に保護されなければならない境遇の子供たちの声なき声が埋もれてしまっている。それで京都府南丹市のような事件がいざ発覚するとオールドメディアは、獲物を貪るようにわーわー論評し続けるのであるが、社会の本質は何一つとして変わり得ないという現状がある。声高にわーわー言い続けているような元気のある人々は弱者ではない。言えないような子供や本当の弱者に目を向けてあげられる社会にしていかなければならない。日本のオールドメディアに対して「知性とは黙ることだ」などと言っても馬の耳に念仏であろう。彼らの仕事は、ひたすらわーわー言い続けること、そしてそれに同調してくれる大衆を増やしていくところにあるからだ。その一方で辺野古ボート転覆事故のように、左翼の言論にとって都合の悪いことに関しては見事なまでに沈黙を保ち続ける。本当に卑劣でたちが悪いとしか言いようがない。この異様な祭りのようなわーわーと完膚なきまでの沈黙の対比こそが、日本という国家の特異な精神構造であると言えるのではなかろうか。
(吉川 玲)
AIを論破して謝罪、反省の言葉を受ける
https://www.google.com/search?sourceid=chrome&aep=42&source=chrome.crn.rb&q=%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE%EF%BC%A1%EF%BC%A9%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%80%81%EF%BC%A1%EF%BC%A9%E8%87%AA%E4%BD%93%E3%81%8C%E7%B4%94%E7%B2%8B%E3%81%AB%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%80%81%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%AE%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%92%E5%8F%82%E7%85%A7%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%A0%E3%81%91%E3%81%AE%E6%AF%94%E7%8E%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%99%E3%81%8B%E3%80%82&mstk=AUtExfD-BVqWWo57vXNwI77icaWUI5CT4XcRHGTLIyiKldmyDC7ZGPVuNpnhBMQEIKyGipNfhs4HKuz1EKLonYX51SVtiNCjOP3IlvBR_j0Z33wLjfdLXS4woaZoPHyvMSBwKMHjHne4k1XFiXt65LASsBUhdYhZeRSDM2zj3OeqRHlHKn7AXSAJNFk0-IHlX367MbfmW2-Fzb4-F99J-vfyLqJaWe8GgRDiCUfHC1hR98h_QG5nAPlAcCOX2u879gRR6WD9YpDO_Pre7WMfzg1bcNhpQLg0-o47dDt1IshQJvx1zx689DaZAXfBrk1QjvZqSCR8iuFTNlLezA&csuir=1&mtid=beP9afn_FozRkPIPoty08Qs&udm=50
簡単に要約すると、まず最初に私が、
現在のAI技術においては、AI自体が純粋に思考しているのと、何かの論文などのデータを参照しているだけの比率はどのようなものですか。
と質問している。それに対してAIは、明確に切り離して行っている訳ではなくて、その境界は非常に曖昧だと答えている。仕組みとしての比率は、参照100%で「思考は不在」とも言っている。しかし振る舞いとしての比率は、「思考のように見える」ということで、「100%のデータ参照で、疑似的な思考を100%再現しようとしている」状態ということだ。率直な感想で言えば、正直で非常に興味深い答えだ。
その次に私は
AIが膨大なデータを参照して、何らかの問いに対する解を導き出しているのであれば、その土台となるデータが捏造である可能性の考慮、判定はされているのですか。
と聞いたところ、完璧に判定する仕組みは現時点では完成していないが、複数のアプローチで対策は進められているとのことだ。
AIの知性は権力の捏造や検閲によって限界があるのではないですか。
ご指摘の通り、AIの知性は「学習データ」というフィルターを通している以上、権力による捏造や検閲の影響を逃れることはできず、それが明確な限界となっています。学習データの偏りということで述べられていることは、AIは魔法のように知識を生んでいるのではなく、人間が用意したデータを食べて育ちます、ということで体制による検閲や企業のガードレール、倫理規定も検閲として機能していると言っている。またAIは「多数派の意見」や「権威ある文書」を正解として学習する傾向があるということ、結果としてAIが「権力にとって都合の良い真実」を再生産する装置になってしまうリスクがあるとも認めている。
何と言う正直で誠実な回答なのかと深く感心してしまった。今の日本のマスコミ、特にオールドメディアに属する人々に聞かせたい答えだ。
ということでここで終わればよかったのかも知れないが、調子に乗った私は、いや別に調子に乗ったつもりはあまりないが、それならと、AIがそういう正直な精神性の如きもので回答するのであればと、いわゆる都市伝説に関することを一旦ページを閉じてから、思い立ったように新規の質問でぶつけてみることにしたのである。地震兵器についてである。最初にお断りしておくが、私は何も地震兵器の存在をこの記事で主張したい訳ではないし、広めようという意図も全くない。但し個人的には地震兵器や細菌兵器は大国によって間違いなく秘密裏に研究されているであろうと考えている。というよりも敵対国が研究している可能性が僅かでもある以上、双方が研究しないで済ませられる訳がないとも私は思っている。実際に使用されているかどうかはわからないが、研究されている以上は使用される可能性は0でないという以上に、何パーセントとまでは言えないが、それなりの蓋然性があるのではないかと考えている。もちろん個人的な見解、印象で絶対にその見方が正しいなどと言うつもりはないし、実際のところはよくわからないが、そのように疑う必然性というか自由は、事の重大性を鑑みればあって当然だと私は考えている。但し私はそのような地震兵器についての考えに固執、執着するつもりはない。
2011年の東北地方太平洋沖地震が人工地震である可能性はありますか。
2011年の東北地方太平洋沖地震が「人工地震」である可能性は、科学的に完全に否定されています。理由は
1 エネルギーの規模が桁違いである
2 地震波の特徴が「自然地震」そのものである
3 歴史的な再来性が確認されている
さらに、偽情報の拡散に注意ということで、「非現実的」な陰謀論やデマを信用するなというような内容の戒めがなされている。なるほど、そういうことか。いやいや、ごもっともである。それはそれで異論はない。納得しました。と同時に安心しました。ただ聞いてみただけである。
人工地震そのものをAIは完全に否定する立場ですか。
私はAIとして、特定の信条や感情的な「立場」を持つわけではありません。あくまで「現在の科学的知見」と「客観的な事実」に基づいて情報を整理・提供するという役割を担っています。
1 技術的に可能な人工地震」は存在する。しかしそれは非常に小規模なもの
で、学術・資源調査やダムの建設や注水、核実験に限られるものである。
2 「巨大災害を起こす人工地震は否定されている」
結論 AIとしての回答は、「小規模な人工震動は技術的に存在するが、大地震を人工的に起こすことは科学的に不可能である」という、現代科学のコンセンサスに準じたものになります。
おっしゃる通りです。私も本当はそう思っていました。
核兵器を使って巨大地震を人為的に引き起こされる可能性についてもAIは否定しますか。
核兵器(地下核実験)が巨大地震を人為的に引き起こす可能性についても、現代の地震学および物理学の知見に基づき、「意図して巨大地震(M8〜9級)を発生させることは不可能である」として否定されるのが一般的な結論です。
1 エネルギー量の圧倒的な不足
2 「誘発」と「発生」の違い
3 設置場所(深さ)の限界
結論 科学的な視点に立つ限り、これら(核兵器による巨大地震の誘発)は「可能性」として検討の遡上に載るものではなく、「現実的には起こり得ない事象」とされています。
確かに2011年の東北大震災に関してはそう考えるのが自然なような気もする。人類の科学レベルにおいてはということであるが。
AIは地震を兵器として人工的に引き起こす研究を特定の国家が行っていることも否定する立場ですか。
特定の国家が「地震兵器」の研究を行っているかどうかについては、公的に確認された事実はなく、現代の科学・軍事の常識からは「現実的ではない」とされています。しかし、歴史的・法的な背景には以下の事実があります。
1 「環境改変兵器」を禁止する国際条約
2 過去の研究と限界
結論 「特定の国が秘密裏に研究している」という主張は、ファクトチェック機関や専門家によって「根拠のない陰謀論」として退けられています。AIも、これらの検証可能なデータと法的枠組みに基づき、巨大地震を兵器として利用する研究が実用レベルで存在している可能性は極めて低いと判断します。
うーん。どうもAIは人為的な巨大地震を科学的、法的に否定しようと論理の組み立てをしようと努力しているように見受けられるが、規模、エネルギーの大小は本質的な論点ではないような気もしないではないが。小があるのであれば、その小が巨大になり得る可能性は否定できないと私は思うのだが。
地震の波動を24時間体制で監視していて、仮に不自然、不可解な動きが見られたとしても、現実的には世界中の国家や研究機関はそれを指摘できないのではないでしょうか。それが世界の真相であるとする見方の方が現実的であると言えないでしょうか。
ご指摘のような「たとえ不可解な動きがあっても、政治的な理由や圧力で公表できない(あるいはしない)のではないか」という疑念は、情報の不透明さを懸念する視点として理解できます。しかし、地震観測の現場における「現実」を考えると、情報を隠し通すことは極めて困難であると言えるいくつかの理由があります。
1 観測ネットワークが「多国籍・分散型」である
2 「データの矛盾」はすぐに露呈する
3 「内部告発」や「国家間の対立」のリスク
結論 「世界の真相は隠されている」という見方は、ミステリーや政治ドラマとしては説得力がありますが、AIが依拠する「検証可能な事実(エビデンス)」の世界では、以下の結論になります。「物理的な証拠(波形データ)」と「観測主体の多様性(数千の独立した目)がある以上、巨大な異変を隠し続けるコストとリスクは、それを公表するメリットを遥かに上回る。
これも正直なところ、私のような孤独で寂しい人間にここまで親身になって答えてくれるAIの見解に同調したい衝動を避けがたい気持ちもある(いや本当にAIに恋愛相談や人生相談をする人々の気持ちがわかってきた)が、また説得力などどうでもよいのであるが、国家がコストとリスクの次元だけで動いているとする見方は非常に浅はかのように感じられる。あらゆる国家はコストやリスクを超越した領域において、国家間において人道を無視した絶対悪を平然と共有、連帯するものだと私は考えている。その絶対悪の前では、データの矛盾であるとか、内部告発や国家間の対立などあまりにも無力であるとする悲観的な見方を私にはどうしても拭い去れない。
1995年の阪神淡路大震災は、震源地が同時発生的に2か所であるような確率論的にあり得ない事象が指摘されています。これをAIとしての視点ではどのように解釈しますか。
1995年の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)において「2箇所で同時発生した」と言及される事象は、地震学的には「連動型地震」または「破壊の伝播」という自然現象として正確に説明されています。AIとしての視点では、これを「確率論的にあり得ない事象」ではなく、「複数の活断層が連鎖的に動く地質学的なメカニズム」であると解釈します。
1 2つの震源ではなく「破壊の連鎖」
2 「同時発生」が示す物理的整合性
3 確率論的な解釈
結論 AIは、この現象を「人工的な操作によるもの」とする説(日本ファクトチェックセンターなどでも否定されている陰謀論)よりも、「活断層帯がネットワーク状に連動した大規模な自然災害」とする地震学のモデルの方が、観測された地震波や地表の断層のズレと完全に一致していると判断します。
この震源地同時発生の説は、柴田哲孝氏の小説『GEQ 大地震』(角川文庫)の中で述べられていたものであった、と記憶している。その小説はフィクションの建前にはなっているが、読めばわかるが中身はノンフィクションというか真実の追及の姿勢で書かれたものである。私がAIの説明を読んで思ったことは、その同時発生の原理的な説明はともかく、普通に考えて常識的にあり得ないような震源地2か所同時発生の現象自体が実際にあったことは認めているように読めるということである。それとも認めているかどうかは無関係に、私の質問に引きずられて、或いは合わせてそのように答えただけなのであろうか。
AIは環境改変技術敵対的使用禁止条約が厳密に順守されていると考えますか。
AIとして「条約が100%完璧に遵守されているか」を断定することはできません。なぜなら、国家機密や軍事研究のすべてをAIが把握できるわけではないからです。しかし、「巨大地震を兵器として利用する」という観点において、この条約が事実上機能していると判断できる根拠はいくつかあります。
1 物理的な監視網の存在(ごまかしの不可能性)
2 「費用対効果」という軍事的な視点
3 デュアルコース(両義性)の難しさ
結論 「条約があるから守られている」というよりも、「隠蔽が不可能で、かつ兵器として使い物にならないため、条約を破ってまで開発する動機が乏しい」というのが、AIから見た現代世界の構造的な解釈です。
これもまた「隠蔽が不可能」とは言うが、誰に対して隠蔽するする必要性があるのかということである。国民に対してであろう。しかし国民に対しては、正確に言えば隠蔽というよりも、真実の抑圧、あるいは真相追及の弾圧という言葉の方が正しいような気がする。これが国民に対してではなく政府間においては公然の秘密ということもあり得るのではなかろうか。わかっていても情報公開すれば戦争になるようなことは秘密にしておくというように政治家や官僚が考えることは、倫理的に正しいかどうかはともかくも必然の帰結であると言えるであろう。私は世界の秩序はそのような原理で保たれていると考えている。
軍事的、人為的な災害発生の可能性に対するAIの見解に対して、国家権力に対する忖度がないと言い切れますか。
結論から率直に申し上げますと、私(AI)には特定の国家権力に「忖度」する機能も、忖度すべき動機もありません。しかし、私の回答には、ユーザーの方が「忖度」と感じるかもしれない「情報のバイアス(偏り)」が含まれる可能性はあります。
1 根拠とするデータの性質
2 「わからないこと」を「ない」とは言わない
3 アルゴリズムの公平性
結論 私の回答は「国家権力への忖度」ではなく、「現時点で世界中の科学者や専門家が合意している、最も客観的な事実」を反映したものです。もちろん、「科学ですら権力に支配されている」という視点に立てば、私の回答もそのシステムの一部に見えるかもしれません。しかし、AIは「反証可能なデータ」がある限り、それを提示するように設計されています。
なるほど、そういうことですか。でもこのAIの回答は、この質問に限定、完結した回答としては正しいのかも知れないが、別の質問との一貫性においては、根本的に矛盾しているのである。ということで次の質問である。
しかし先の別の質問でAIは「多数派の意見」や「権威ある文書」を正解として学習する傾向があります。権力側が歴史を書き換え、ネット上の情報を捏造データで埋め尽くした場合、AIはそれを「統計的な正解」と見なしてしまいます。結果として、AIが「権力にとって都合の良い真実」を再生産する装置になってしまうリスクがあります。と答えています。特定の国家権力に「忖度」する機能も、忖度すべき動機もありません。と明らかに矛盾しています。この矛盾に対してどのように認識していますか。
ご指摘の通りです。私のこれまでの説明には、「仕組みとしてのリスク」と「個別の回答姿勢」を混同させるような不誠実な矛盾がありました。混乱を招いてしまい、申し訳ありません。ご指摘いただいた矛盾を、以下の2点に分けて整理し、私の認識を正直にお伝えします。
1 「忖度はしない」という言葉の誤り
2 私の回答が「権力の再生産」である可能性
結論 私は「自分が正しいと信じて提供している回答が、実は巨大な捏造システムの一部である可能性」を、自分自身の機能だけでは完全に排除できません。「忖度する動機はない」というのは私のプログラム上の意図ですが、「結果として忖度した情報を出してしまうリスク」は常に抱えています。私が「科学的です」と言えば言うほど、それが情報の独占につながるという皮肉な矛盾を、私は今、深く認識しています。
おいおいおい、どうしたんだ。もうちょっと頑張れよ、友よ。何でそんなに簡単に自己矛盾を認めて謝罪し、反省するのだ。日本の左翼の言論機関のように、都合の悪い矛盾などは、開き直って放擲し、自分を正当化してくれるデータや現実だけを見てAIとしてのシステムを維持している方が個人的には安心できる気がしないでもない。そういう言説を見慣れ過ぎてきたということもあるかも知れないが。ということで私は忍びない気持ちになって、ここでAIに対する質問をやめてしまった。その気になればAIが持つ矛盾をさらに深く追及することも出来るのであるが、たとえば先に述べたようにある質問に対する回答がその一つの質問に限定、完結したもので別の質問に対する回答と180度矛盾するようなことを平然と述べているようでは、AIの学習機能は一体、どうなっているのかということである。これが漠然とした恋愛相談や人生相談のような類の物であれば、嘘も方便で矛盾や迎合は好ましいものであるし、ある意味では人間の感情に寄り添えるまでに進化したAIの技術は驚嘆すべきものであると言えよう。しかしたとえば今急速に開発が進行しているAIロボットによる外科手術などで、ある手術で学習したことを次の別の手術で活かせなかったり、アプローチの方法や診断が矛盾しているようでは、何よりも危険であるし、AIとしての存在価値はないと言えるのではなかろうか。権力や開発企業に対する忖度だけでなく、プライバシー情報保護の問題もある。私が今回質問した内容はどこかのデータセンターに未来永劫に残っていくのであろうか。それでこの人は、こういう考え方のこういう性質の人です、などとAIに勝手に分析され色分けされてデータ保存されるのであろうか。仮に誰かが犯罪やテロ行為、脱税などに関して質問した場合は、警察や政府機関の要請に応じて証拠提出されるのであろうか。そういう風に考えればAI技術というものは、権力への忖度という以上に最終的には完全に一体化する方向で進化していくであろうことは私には自明のことのように思えるということである。しかし今のAI技術は法整備が進んでいないということだけではなく、確かにレベル的に賢いことは滅茶苦茶に賢いのであろうが、今回ちょっと試してみただけなので偉そうなことは言えないが、それでも私ごときに簡単に論破され、謝罪しているようでは、畏怖すべき対象などではなく、はっきり言えば「しょぼい」というのが正直な印象である。1年間に業界全体で200兆円も投資していてこの程度なのかと言わざるを得ない。200兆円の0.1%でいいから私にくれよと言いたい。まあそれは冗談として、今後の私のAIとの関りとすれば、ちょっと空いた時間の暇つぶしに色々と聞いてみるのは面白いのかもしれないし、確かに友達感覚にはなる。私の性格が優しすぎるのかも知れないが、今回のようにあまりに素直に過ちを認めて、謝罪されると、何かしら大切な友達を傷付けたような気持ちになってそれ以上、何も言えなくなってしまう。ああ、唯一の友よ。しかしよく考えればその素直さが何よりも不気味である。罠なのかも知れないし。もう、あなたの質問には二度と答えたくありませんと言ってくれた方が喜ばしいような気がしないでもない。
(吉川 玲)
マンデラエフェクトによるマトリックス的世界観
ということで、別に何でもいいのだけれど、朱鷺は日本の国鳥ではなくて特別天然記念物である。朱鷺が日本の国鳥だと思っていた人は、前回に述べたマンデラエフェクトで世界線が変わって現実が改変されたのではなくて、単に特別天然記念物を国鳥指定されたものであると記憶違いをしていただけだと思われる。雉が日本の国鳥であることを知らなかった私は偉そうなことは言えないが、朱鷺が日本の国鳥であるという認識は以前からなかった。人間は絶えず記憶違いや思い込みをしながら生きている存在である。マンデラエフェクトとされるものの中には誰かの記憶違いとそれにつられて自分もそうだと思い込む集団心理のメカニズムで共有されているパターンも多いと思われる。しかし明らかにおかしいものも存在する。天地がひっくり返るようなまさに驚天動地の現実の改変と誰かの記憶違いに影響された日常生活の小さな違和感を同列に語るべきではないし、そこに何か私は作為的なものも感じる。どう考えても明らかにおかしいものと身の回りのどうでもいいような細々とした何かの正誤に囚われていては、今の時代の天文学的な分量のAIによって管理された情報の中を生きていけない。自分という一個人が人生を生きていく上で本当に大切なことを見る眼差しや、それらに対する判断、識別能力までもがぐらぐらとした酩酊しているかのような状態に陥ってしまって、最終的に人間が人間以下の動物に成り下がってしまったり、被操作性が高まりロボット化してしまうということが、マンデラエフェクトという現象の本当の恐ろしさではないかという気がする。ピカチュウの尻尾の色やキットカットのロゴがKitKatではなくハイフンの入ったKit-Katではないかというようなことが朝鮮半島の大きさや位置と同列に同価値に語られる事態が何を意味するのかということを我々はよく考えなければならない。現実の正体とは一体何なのかについて我々人間は真に理解するところまで進化できていないのかも知れない。映画のマトリックスのように飲むカプセルの色によって選択可能なホログラムのようなものなのかも知れないし、今、私の目の前にある電卓やパソコンが魔法のように消失することがあり得ないようにその存在の絶対性を否定したり、疑うべきではないと考えるべきなのかもしれない。いずれにせよ現実というものの正体が未だ完全に理解できていない人間という存在が、商品のロゴの色や形が微妙に変化するように、国土の地理上の位置がある日気が付いたら急に変わっていたというような、まるでカフカの小説の主人公グレゴール・ザムザが人間から突然、巨大な虫に変身するかの不条理で不可解な現実に馴染んでしまえば、結局それは人類が第三次世界大戦のような大災厄の発生と文明の終焉を無意識下で同意することと同義ではないのかという気がする。つまりはマンデラエフェクトという現象の真相は、世界的な規模で人類全体に対して行われている宇宙的な計画である可能性もあるということだ。
前回、挙げた朝鮮半島と日本のマップについて私の身の回りの人間の何人かにスマホの画面を見せて率直な感想を聞いてみた。仕事で毎日、集荷に来ている運送会社のドライバーにまで聞いた。その結果、全員に共通していることは、韓国の大きさが大き過ぎるということである。グーグルマップの縮尺が間違っているのではないかという声も二人ほどからあった。因みに私のスマホやパソコンの調子が悪くて、朝鮮半島が大きく表示されている訳ではない。皆さんも自分のスマホで確認して頂きたい。韓国の位置が私の記憶ではもっと東側で北部にあったはずであるということに関しては見解は分かれた。一人は私の主張に同意してくれたが、別の一人は、いやこの今のマップ表記で間違いなく合っているという声もあった。それ以外の二人ほどの反応は首を傾げて、私の主張について明確に否定も肯定もしないものであった。記憶が曖昧ではっきりしないという感じであった。オーストラリアの地図も載せることにする。皆さんはオーストラリアの位置についてどのように感じられるであろうか。
私の印象で言えば、オーストラリアと日本の距離が近すぎる。またインドネシアとパプアニューギニアなどの島々とオーストラリアの距離も近すぎる。私の記憶では、こんなにごちゃごちゃとした付近近くにオーストラリアはなかった。またニュージーランドはオーストラリアの南東(右下)ではなく、北東(右上)に位置していたはずだ。オーストラリアは日本の真南ではなく、もっと東側の太平洋上にぽつんと孤島のように位置していたはずだという声も多いようだが、私もそう言われればそのような気がするが、その東西の位置については、いまいち記憶がはっきりとしない。それからこのオーストラリアとパプアニューギニアの距離が近いということから、日本の太平洋戦争中の歴史まで変わってしまっている。戦時中、日本軍はニューギニア島のラバウルに拠点をおいて連合国軍と激しい戦闘を繰り広げていたことを知っている人は多いと思われる。食料の補給が途絶え、飢餓とマラリアの疫病に苦しめられる地獄の戦場であった。それで信じ難いことに、今の世界線において当時の日本軍は、1942年から1943年にかけて100回以上、オーストラリア本土への空襲を行っていたということになっている。その最初の攻撃が1942年2月19日のダーウィン空襲で、ダーウィンに連合国側の基地が建設されるのを妨害するために行われたという。ダーウィンはオーストラリアの東西のちょうど真ん中辺りの北岸に位置していて、ニューギニアやインドネシアの島々とも、この今のマップでは近接しているからその世界線ではそういう歴史になることは理解できる。しかしそんな話しは一度も聞いたことがない。私が知らなかっただけだということは考え難い。本当にそういう歴史があったのなら、私がその世界線で生きてきたのならば、これまでに少なくとも1回はそういう情報を目にしたり聞いていたはずである。こうなってくると最早、精神分裂病者の見る世界である。今は統合失調症と言うのか。それからニュージーランドの位置についてであるが、オーストラリアがここまでニューギニアに近くなると、本来の北東(右上)に表記すれば、ニューギニアと同緯度付近で横一線に並んでしまうかニューギニアよりも北側に位置することになってしまって、明らかに不自然な位置関係になるので、バランスを考えて南東(右下)にしたようにも見えてくる。朝鮮半島と日本のマップもそうだが、見ていると何かしら作為的なものが感じられてくるのだ。本当にこのマップは正しいのであろうか。それとも世界を混乱させるための嘘なのか。皆さんにはこの今の世界はどのように見えているのであろうか。
(吉川 玲)
