龍のひげのブログ -543ページ目

母の子殺しについて 1



最初の報道時点から私は怪しいと思っていた。福岡市の公園で母親が子供を殺害した事件である。母親がトイレに行っている2~3分の間に子供がどこかに連れ去られる事態は十分有り得るだろうが、直後に殺害されて子供を見失うきっかけになった正にそのトイレ横に遺体が遺棄されていたなどというような顛末は第三者の手で為されていた可能性はゼロではないにしても極めて不自然である。

秋田県、畠山鈴香の例もあるので私は福岡県警に対し先入観や予断に囚われない捜査をして欲しいと考え、そのような内容の記事を書こうか書くまいか迷っていた矢先に母親が逮捕された。少なくとも今回の件に関して言うなら、私のような素人が助言するまでもなくプロの目は節穴ではなかった。しかし失われた子供の命が戻るものでもない。このような母親の突発的で衝動的な子殺しの事件が起こるたびに、私には思い出す昔のある出来事がある。

私が子供の頃、我が家では犬を飼っていた。中型の雌犬、雑種で名前をマリと言った。当時は今のようなペットブームでもなく犬の飼い方も大雑把で適当だった。まあ私の家だけだったのかも知れないが、鎖にもつながず放し飼いにしていたのである。マリは自宅に隣接した倉庫と事務所をうろちょろしたり、仕事をする父の後ろにくっついてあちこちに移動していた。誰も散歩に連れて行く者はいなかったが、マリは一人(匹)で外出していた。どこに行っていたのかは知らない。あてもなく近所をぶらついていたのだと思う。しかし行方不明になるようなことはなかった。門限を決めていた訳でもないのに、夕方薄暗くなる頃には犬も心寂しくなるのだろうか必ず戻ってきていた。帰ってくる時には、いつも何事もなかったように澄ました顔をしていたように記憶している。でも雌(女)は犬も人間もよくわからないものである。犬もまた犬の出会いというものがあるのであろう。知らぬ間に仔を身ごもっていることが何度となくあった。産まれてくる仔は、その度に張り紙をしてもらって誰かにもらっていた。

それである日のことである。マリが仔を産んだ。ところが父が仔犬たちの様子を覗き見ようとして近づいたところ、興奮したマリは何とその中の一匹を食べてしまったのである。当時私は小学生5年生か6年生であった。父からその話しを聞いた私は信じられない気持ちとともに、大変なショックを受けた。

“何で自分の子供を食べるんだ、そんなに腹が減っていたのか。”

とにかくその事実が子供の私には強烈な印象だったのである。マリは私が高校生の頃に死んでしまったが、今思い返せばマリが我が子を食べた行為は、人間流に解釈すれば“心神喪失”だったのである。そういえば、その時のマリの目は“私は心神喪失状態でした”とでも言いたげな、そんな茫然自失とした雰囲気があったような気がしないでもない。

私は刑法39条の“心神喪失”及び“心神耗弱”について述べたいのである。不謹慎かも知れないが母親が自分の子を殺害する事件が報ぜられると、子供を食べたマリの姿が連想されるのである。人間の女性を犬扱いにして冒涜するつもりは毛頭ないし、ふざけているわけでもない。魔が差した時の人間の精神状態や行動の不可解さと、いわゆる心神喪失状態における免罪というものを自分なりに考えたいだけである。本来、人間は犬や猫とは違った理性の動物なのだから自らが犯した事態の結果に対して責任を負わなければならないのは当然である。それに対して社会全体は本当によく吟味した上で今日尚、刑法39条を存置させているといえるであろうか。母の子殺し事件が発生すると、これまで必ずといってよいほど新聞やTVのメディアは、“子育てで悩んでいた”とか“周りの地域住民や行政は事前に救いの手を差し伸べることができなかったのであろうか”というような同情的なコメントで結ぶのが常であった。まだ事件の全容が何も判っていない内からである。そのように心神喪失適用への道が暗黙に敷かれてしまうのである。

基本的かつ本質的な問いかけをするが、母親が子育てで悩むことは異常なのであろうか。私はそうは思わない。子育てだけでなく人間誰しも、仕事や健康、家計、人間関係で悩んでいる状態が普通ではないのか。私に言わせれば大人になっても悩みがない人間こそ異常である。それでは普通を異常にする力学とは一体いかなるものであるのか。

そこで今回、紹介する本は『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、日垣隆著)である。私は今回のブログを書くにあたり同書を再読したが、改めて著者の日垣氏は凄い人であると心より思った。この人の一途さには余人の真似できない美しさがある。尊敬すべき人であることがこの一冊を読むだけでよくわかる。日垣氏は何らかの事件で弟を殺害され、兄は精神分裂病に罹患したまま入院しているという十字架を背負っておられる人である。それで全国各地で心神喪失が争点となっている刑事裁判を取材して回り、同書解説の精神科医が伝えるところによれば、本業の精神科医ですら読破したものに会ったことがないという全三十巻以上にも及ぶ中山書店発行の『現代精神医学体系』を読破したという。日垣氏はひたすら、犯罪そのものをなかったことにする心神喪失という不条理の真相を追求し続け10年がかりで同書を完成させた。商業ベースの採算など考えていればとても出来ることではない。一生の仕事であり求道である。こういう人の言葉には嘘がない。我々はもっと自らの言葉の嘘やごまかし、無意識の正当化を見つめるべきである。

以下は私の勝手な所感である。日垣氏も言う通り、刑法39条における心神喪失及び心神耗弱を安易に適用する日本の司法の問題は「結果ではなく、ひたすら動機を裁いている」という点につきるのだと、私もまったく同感である。

動機を裁くとは、警察取調べにおける調書作成の“作文”に象徴されるのではないであろうか。

何日間も拘留されて朝から晩まで

“おまえは何々の状況で、斯く斯くしかじかの理由から、こういう風に考えて誰それを殺したのではないのか。もう一回よく思い出してみろ。”

と何百回も問い詰められれて最終的に

“はい、刑事さんのおっしゃる通りです。”と被疑者が自白するときにその場を支配している強制力は“物語”である。TVドラマの脚本のようなものでもあり、その特徴は万人が納得し共有できる筋書きである。大衆迎合のように見れなくもないが、その本質は権力が犯罪を通じて間接的に市民生活の物語を統制していることである。“型にはめる“と言う方がわかりやすいだろうか。その物語とは、たとえば子供が難病を患っていて余命いくばくもない、手術をすれば治る可能性はあるが多額の費用が必要でとてもそのような余裕はない、このままでは我が子を見殺しにするようなものだ、それで止むに止まれず身代金目的の誘拐を働いた挙句人質を殺してしまった、というようなストーリーである。誰が聞いても腑に落ちる話しであり同情も禁じえないが、社会秩序の為にそのような行為は断固として認めるわけにはいかない、よって厳しく裁かなければならないということになる。日本の司法は、あるいは日本国民はそのような物語(動機)が好きなのである。しかし第三者には了解不可能な理由で、または理由もなくいきなり誰かを殺害したというような事件は、加害者の責任能力の有無以前に、権力が統治する市民生活の物語から大きく逸脱している不可解なるものに対して精緻であるべき法を適用することによって法(権力)が社会を捕縛する力が減退することを司法は何よりも恐れるのではないであろうか。刑法、心神喪失の本質は、加害者を人権上の観点から守るものではなく権力基盤の弱体化を防ぐためのものだと私は思う。だから精神鑑定などというようなものは、どこか茶番臭いのである。

彼岸花

何ゆえに紅く燃えるか彼岸花


紅く、紅く真理のように


鮮血の悲しみ色に染まるは


我が心の空、青さのゆえか

野生の哲学 2

仏陀にしても“野性的”という表現は似つかわしいものではない。仏陀は論理の人であった。著者は、「肉体を通じてこそ肉体を超える思想を獲得することができる」と述べるがパトス(情念)とは肉体の付属物に過ぎない。そもそも人間誰もが生きている限りにおいて肉体から離れることが出来ないのであるから、本来、生者はすべからく肉体主義者であると言えるはずである。健康の維持や追求以上に哲学的な領域において肉体を強調することは単にライフスタイルや趣味の問題に過ぎないと思う。私は“野生”や“パトス(情念)”という言葉自体に何ら偏見があるものではないが、宇宙の本質はやはりどこまでも“ロゴス(論理)”であると思う。西欧かぶれしていると言われるかも知れないが、これはとても大切な認識であると私は考える。

何かに憑かれたような踊り念仏や、地を転げるようにして霊の言葉を伝える巫女は、肉体的ではあるが宗教という名の“俗なる生”の一断面であって明瞭かつ玲瓏な“悟り”からは程遠いものであるように私には思える。

それでは身体というものについて、あるいは身体と精神の一致や不一致についてどのように考えるべきなのであろうか。私はそこに“社会性”が深く関係してくるように思えるのである。身体と精神の底流には社会性つまり制度が影響している。要するに身体と精神の調和はその地域や社会に独自なものであって、普遍的かつ超越的に論じれるものではないということである。

筆者は、インドの聖地ベナレスで沐浴場で舟に乗っているとき、船べりに半ば白骨化した死体がプカプカと浮いているにもかかわらず、その横でみんな嬉々としてガンジスの水を飲んだり、うがいをしている光景を見てインド人のすさまじい免疫力に羨望の念を抱いたと述べている。

一方で日本については、

「体を泥んこにして動物と戯れあったり、野山を駆けずり回ったりした経験もなく、抗菌グッズがもてはやされる清潔な社会に育つ若者の生命感覚が、根本から損なわれているのである。決して不衛生な生活環境を推奨しているわけではないが、社会があまりにも潔癖であろうとすれば、不可解な行動をとる病的人間は、増加の一途をたどることになるにちがいない。なぜなら、バイオロジカルな雑菌を毛嫌いし、それを抹殺しようとする社会は、生命の多様な存在形態を受け入れるだけの寛容性をもたない社会でもあるからだ。」

と憂慮している。

これらについても“野生”というものを社会制度の中でどのように考えるかという問題である。筆者の主張はよくわかるのであるが、日本で生きてゆく者として現実的に考えればあまり意味のある意見だとも思えないのである。

都会のマンションの一室で暮らす家族は、どうしようもなく“自然という野生”から隔離された感覚しか持ち得ない。しかし、その“潔癖”自体が問題なのであろうか。無理に“野生”を都会生活の中に取り入れようとして、たとえばマンションの浴槽に泥を入れて子供を遊ばせるようなことに意味があるのか。現実的には、そんな馬鹿なことをすれば配管が詰まって大変なことになる。

あるいは母親が子育てをネグレクトして子供に清潔な衣服を与えていなかったり、ろくに食事の後片付けもせずに蝿や蛆がたかるような不衛生な部屋に幼児を長期間、放置するようなことが日本の今日的な問題なのである。まさか、そのような“野性的な環境”の方が免疫力が高まるから子供の為だ、などというような論理は成り立たないであろう。

私が言っている事は屁理屈かも知れない。筆者が言う通り「人間が自然現象そのもの」であり、「自然には切れ目がない」ということは禅的な真理であろう。

しかし人間存在を自然との有機的なつながりにおいて考察するときに、その国の社会環境やシステムを飛び越えて結び付けてしまうことは、本当の問題の原因を見誤ってしまうという点において危険だといえるのではないだろうか。

日本とインドを比べることは無意味なのである。日本ではガンジス川に浮かぶ死体はおろか、車に撥ねられた犬や猫の死体すら役所に電話すればすぐに回収してもらえる。私はそれでいいのだと思う。アスファルトの路上で犬や猫の死体がいつまでも放置されて蛆を湧かせているのは“自然”ではない。山奥の小屋で馬の出産シーンを見て感動するのとは根本的に異なると思う。

筆者の言う“野生”の意味はよくわかるし刺激的で面白いのでもあるが、日本の社会問題について言及するのであれば、“野生を取り戻す”というような茫漠とした考えは見当外れであるだけでなく、ますます世の中がおかしくなるような気がする。これからの日本の再生のために必要な、“日本の野生”というものをよく吟味した上で、それをどのように社会制度に取り込んでいくかも研究してゆく必要があると思われる。但し私は、日本の世界的な自殺率の高さや、うつ病や人格障害などの急激な増加、原因のはっきりしない猟奇的な犯罪は筆者が主張するような肉体を重んじる野生主義では決して解決しないように感じられる。単に個人レベルで肉体と精神が一致すれば、日本社会全体が健全化に向かうなどというような牧歌的な状況ではない。筆者は日本を離れている期間が長かったゆえ、日本の深刻さが今一よく見えていないのではないかとも思った。

日本の問題は、やはりきわめて政治的なところにあるのだと私には思われる。

最終的には民衆は社会環境に適合するしかないのである。自殺や精神障害も一種の適合だと思われる。政治家には何よりも問題の本質と将来を見通す能力が必要だと思われるが、日本の状態はあまりに悲惨である。

下級役人と何ら変わらないような考え方しか出来ない人物が首相になれば、間違いなく国民は不幸になる。

次回は日本が不幸を脱却する具体的な方向性について私見を述べたい。