アメリカ発、金融危機が世界を滅ぼす
世界的な金融不安の流れが止まらない。50年に1度あるかないかの恐慌状態に突入しているようだ。
この金融パニックは大地震のようなものだ。これまでに蓄積されてきたひずみが一挙に噴出しているのである。本当の地震も大変恐ろしいが、地殻変動による地震が一部の地域に発生するのに対して、経済大地震は金融グローバル化の影響で世界中が揺れる。デリバティブだか金融工学だか知らないが、我々は経済ひずみの正体をよく見極める必要があると思う。そういう私自身詳しくはないが簡単に説明すると以下のようになるのではないか。
財布の中に1万円しか入っていない人が、1万円以内の買い物をしていれば経済にひずみは生じない。1万円しか持っていない人に10万円の買い物をさせようとして、差額の9万円を証券化して世界中で広く薄く負担する。そうすると1万円しかない人が10万円の買い物が出来る。1万円は実体で9万円は虚構である。しかし9割虚構の10万円が市場に流れ出るといつの間にか全てが実体に化けてしまう。そうして10万円がまた100万円に変化してゆくのである。
これを幾何級数のように繰り返してゆくと天文学的な虚構経済が世界を支配することになる。まるでゾンビが生きた人間の生血を吸って仲間をどんどん増やしてゆくようなものである。現代の恐慌は商品の過剰生産や風聞による取り付け騒ぎによって起こるものではなく、経済規模を無理やり肥大させるシステムによって不可避的に発生するものなのである。ただその大地震がいつ起こるか誰にもわからないというだけで、必ず虚構は臨界点を超えると実体に向かって急激に収縮するのである。
アメリカの一部、金融資本家がそのような拡大プロセスで年収数十億円も得ているなどというのは本当にふざけていると思う。何がアメリカン・ドリームだ。詐欺のようなものじゃないか。日本のバブル崩壊による不良債権の処理が日本国内だけであるにも関わらずあれほどまでに苦しんだのに、今回の金融危機は世界中である。健全化にいたるまでの困難さは想像だに出来ない。
環境問題、人口問題、食料問題等を考えると世界の経済は虚構部分のメカニズムに規制をかけて、実体に即した素朴なものに向かっていかざるを得ないのではないか。このような異常な状態が、今後長期化すると本当に世界戦争の足音が聞こえてきそうで不安になる。
アメリカ発、金融危機が世界を滅ぼす。
しかし日本の街並みの風景が、いつもと変わらぬような平安を保っているのはどうしたことだろうか。もしかすれば全ての日本人はもうすでにゾンビなのかも知れない。
自称詩人のつぶやき
私は自称詩人である。自称することに意味がある。
全ての画家が一度は自画像を描くように、真摯に自分自身に向き合わなければ芸術というものは生まれない。詩人にとっては自分が詩人であることを認め、宣言することが詩人としての第一歩であろう。
だから私は自称詩人であると宣言する。今、ここに一人の詩人が誕生した。
いかにも簡単そうに見えるかもしれないが、私にとってこの一歩にたどり着くまでが艱難辛苦の道のりであった。私は自分が詩人であることを以前から薄々とは気付いていたが、それを認めることに対して心理的な抵抗感や葛藤があったのである。
その理由は、まず何よりも私はこれまでの人生において詩というものに対してほとんど関心や親しみを感じてこなかったからである。これほど明白な理由はない。私はまったく詩を読まず、そして作ることもなかった。だから自分が詩人であるなどと、おこがましいことを言える道理がなかったのだ。もう一つは私には社会の矛盾や欺瞞に対して透徹した論理で立ち向かいたいという気持ちが常に熾火のように赤々と燃えていて、そのような自分の現実主義的な原動力が詩という表現にはそぐわないように感じていたからだ。
しかし私という存在には詩を書かずとも、“言葉に仕える”というべき感覚、あるいは使命感のようなものがいつの頃からかはわからないが確かに備わっていた。詩人という人種をどのように定義するかということになるのであろうが、生意気なことを言わせてもらえば、立派な詩を書くから詩人なのではないと思う。あるいは誰かにお前は詩人だと認められたから詩人になるのでもなく、成長するに及んで徐々に詩人になっていくものでもないように私は感じる。
詩人は生まれながらにして詩人である。詩人とは宿命であり、絶滅寸前の社会的に特殊な実在である。理解されない人間でもある。
言葉に仕えること、そして言葉の背後に存在する全体性に繋がりを持つことによって言葉に生命の息吹を与えるのが私が定義するところの詩人である。
初めに詩人ありき、である。詩人の言葉とは自己顕示ではなく、追い詰められたように止むを得ずそっと囁かれるものである。
つまらない言い訳であるが、私はそもそも詩に親しみがないのであるから詩が下手くそなのは当然である。そんなことは誰に言われるまでもなく自覚している。私はほとんど詩を作らない、また詩が下手な本物の詩人である。
古今東西のあらゆる詩を読みつくした上で、言葉の配列や効果を研究し尽して作られたような詩には“生命”がない。一部の人間にしか理解できないような難解な言葉の羅列による現代詩は、裁判官の書く判決文のようなものである。詩というものが権威を求めた時点で既に詩ではなくなっているのである。
そのような詩を作る人はオーソライズされた似非詩人である。
私こそ詩人である。
詩人の“本物の言葉”は山を動かし、死者を生き返らせる。もちろん現実には山は動かず、死者は蘇らないであろうから比喩ではある。しかしそのような、“言葉の奇跡”を本気で信じ、挑む者こそ詩人であると言えるのだと思う。似非詩人はそのような言葉の可能性を否定するであろう。
詩人とは生き難い人種である。その理由は仕える対象が“言葉”であることに尽きる。言葉は日常のコミュニケーションの手段でもあるからだ。音に仕える音楽家や色に仕える画家との違いがここにある。非詩人は言葉を手段として利用する。弁護士や政治家、コピーライターも皆、同じである。言葉の効果を最大限に利用して世界に働きかけようとする。その訴求力やセンスが才能なのである。しかし詩人にとっては言葉は仕える対象であり神聖なものでもあるので、自分に都合よく利用しようなどとは思いもしない。よって言葉を利用する非詩人と言葉に仕える詩人が相通じることはあり得ない。詩人は皆無である。画家や音楽家はいくらでもいるが、詩人はどこにもいない。詩人は仲間を探そうという気もないのでいつも孤独である。
詩人の言葉は生き残った日本狼の遠吠えであり、地球に降り立つ異星人が流す一筋の涙である。詩人は、非詩人の言葉で穢されて傷つく。それゆえ詩人は非詩人を密かに恐れ、そして憎んでいる。すなわち社会全体に対して敵対的である。詩人の苦悩は海よりも深い。しかし言葉を通じて神に繋がっているので心安らかでもある。
詩人は無力であると同時に危険である。
私こそ詩人である。
ならば今ここで一つの問いかけをしよう。
詩人と非詩人の違いは何なのか。
実はその答えは私自身にある。私もまた非詩人である。当たり前のことだが、四六時中言葉に仕えてなどいられない。言葉を手段として利用しながら生きている。自分を正当化し他者を攻撃することもある。
「これ、なんぼしますの。もう少し安くなりませんか。」
という時の私は、非詩人の典型である。というよりも私はほとんど非詩人である。客観的に見積もると私の99%は非詩人である。しかし残りの1%が問題なのだ。僅か1%の何かが私という存在を異質な者にしている。1%がこれまでの私を苦しめてきた。他者には理解されず、かと言って自分を誤魔化すことも出来ない。私は1%の正体がわからずに、何とかして異物を取り除こうともがいてきた。自分の魂を覗き込むようにして、腫瘍のような1%を摘出してやろうと努力したが無駄であった。1%は呪いのように私につきまとって決して離れてはくれなかった。結局はその1%こそが私の本当の姿であり、使命であると認めざるを得ない。“私”というものは我ながら不可解である。私は1%の詩人である。
これを言い換えると私は1%の市民である。社会は私という存在を、私が私の1%を取り除こうとしたように認めたがらず、無視するであろう。異物は安定を脅かすからである。保守的な権威の敵であるからだ。しかし結局は、私が私の1%を認めざるを得なくなったように、社会は私の言葉に向き合わざるを得なくなる日がくるであろう。問題はその時に私の中の1%がどのように変質してゆくかだ。飲み込まれて1%が消滅してしまえば詩人としての私は死んでしまうであろう。そういう意味では思考なき民主主義が私を守ってくれているとも言える。しかし意外と社会は新たな方向へ変化してゆくような気もするのである。市民社会が進歩してゆくのであれば、詩人としての私の有毒な言葉は消滅してもかまわないように思う。
随分偉そうなことを書いたが、現実のところ詩というものは難しい。詩は粘土をこねるように言葉をこねて出来上がるものではない。私にとって詩を作るという作業は、言葉未然の何かがどこからともなくふわふわと蝶のように飛んでくることから始まる。その、ふわふわとしたものを上手く捉えて思考の力で言葉の形にはめ込んでゆく。そしてその言葉が自分自身を映し出すと同時に、自分を越えた大きな意思が無意識に表現され重なりあっているところの芸術である。作詩はいつも偶然がきっかけである。そして偶然と必然の橋渡しをするような作業である。
ところが言葉未然のふわふわしたものは中々私の元に飛んで来ない。4行ぐらいの一篇の詩を作るよりも長文の屁理屈を書いている方がよほど楽である。
よって当面は屁理屈を中心にした記事を書いてゆきたい。
自称詩人は株の大暴落で少し落ち込み気味でもある。日経平均が気になって優雅に詩など考えているどころではないのが正直な気持ちである。
なぜなら私は99%の非詩人なのだから。
母の子殺しについて 2
結果ではなく、動機を裁くということはそういうことなのである。社会内部の閉ざされたコスモロジーの機構を維持するためには、調書における作文のように型にはめて都合よく物語を作り変えるか、あるいは排除(免罪)するかのどちらかしかないのである。
因みに話しは逸れるが、童話の『フランダースの犬』が日本でだけこれほどまでに愛されるのは日本社会のそのような特色と大いに関係があるように私には思える。そこにあるのは“破滅の美学”などというほどの高尚なものではなく、弱きもの、無力で清らかな存在の死を傍観して慈しんでいるだけではないのだろうか。本当の人権意識が発達した欧米では、大人が自分たちの誇りを守るためにも我々の国では子供にそのような酷い死に方はさせないと憤るのである。一般的に欧米人は三島由紀夫の小説『金閣寺』における破滅の美学を日本の真髄であると勘違いしている向きが強いが、文学における観念と社会現実は分離して考えなければならないと思う。
『そして殺人者は野に放たれる』において日垣氏は家族殺しについて
「子殺しを無罪にする日本の司法と刑法三十九条の暴走は、もはやとどまることを知らない。1960年代以降、現代に至るまで、鬱病がらみの子殺しは無罪判決の博物館と化している」と書いている。
3人もの我が子を殺害した母親に対して1989年、浦和地裁が被告に対し驚天動地の「被害者論」を展開して無罪判決を確定させた判例を上げている。
曰く
「《本件犯行によって最も決定的な被害を受けたのは、自らの腹を痛め日頃から深い愛情を注いで慈しみ育ててきた愛児三名を一挙に失い、夫との離別はもちろん、十数年にわたって営々と築き上げてきた家庭の崩壊に直面した被告人自身であると言うことができよう。》
ということである。これは権力が不可解なる犯行を社会内部の通俗的な物語に書き換えて、犯罪の質的変換を成している典型例であると言えよう。
但し、日垣氏が同書を執筆した時期から見て今日は刑法39条に対する時代意識が変化しつつあることも事実である。来年度から裁判員制度も実施されることになる。飲酒運転の罰則が非常に厳しくなったことにより、アルコールの影響下による犯罪も心神耗弱を認めにくくなっているのではないだろうか。以前には酒や覚醒剤などで酩酊状態にある者が犯した殺人などの犯行が無罪になることが多かったようであるが、今日では少なくとも新聞沙汰になるような事件では裁判官も世論を意識した判決を書かざるを得ないであろう。
では何が新聞沙汰になり何がならないかというのはまた非常に微妙な問題であると思われる。いわゆる精神疾患が絡んだ人権報道のあり方ということであるが、日垣氏が述べるところの「日本では精神分裂病だけでなく、鬱病との関連があるとみなされただけで、人殺しも無罪または刑半減の対象になってしまう」ゆえに新聞やテレビが報じないという状況ではすでになくなりつつあるように感じられる。日本では近年、鬱病患者が急増している。極端な表現ではなく国民全体が鬱病化しているような時代に、一度でも精神科に診てもらったことがあるだけで殺人が無罪になるのであればそれこそ世の中の統制がとれなくなってしまうからだ。
しかし刑法39条が削除されるような兆候はまったく見られないし、そのような議論も聞かれない。権力が刑法39条の存続にこだわるのであれば、裁判官は、“そのような法律がある以上適用せざるを得ない”として、最も国民の同意が得られやすい事件に集中して心神喪失、心神耗弱を適用し続けることになるのではないであろうか。私はそれが、“母の子殺し”であると思うのである。子供を殺した母親が無罪放免になって、殺された子供以外の全てが忘却の中で幸福になれればそれでもよいのかも知れないが、世界は呼応するのである。要するにそのような社会意識の中では、なぜかはわからないが“母の子殺し”がどんどん増えていくのである。
もちろん多くの父もまた子供を殺すのであるから母の子殺しだけを強調するのは不公平であるとの意見も当然あろうが、母は愛する我が子を“生むがごとく殺す”ので父が子を殺める感覚とはどこか異なっているように思える。“生むがごとく殺す”と言った不可解で難解な人間心理は追求したところでわかるものではないであろうが、心神喪失の一言ですませるべきではないのではないか。
ここに動機を裁くことの論理破綻と思考放棄がある。私は犯行の動機を詳しく追及することは非常に重要だと思うが、やはり動機自体を裁いてはいけないと思う。裁く対象は犯行結果であることが司法の出発点になっているべきであり、それが今日的な社会善だと考える。動機ではなく結果を裁くような司法のパラダイム転換が成されるならば、おそらく裁判官の書く訳の分からない悪文は消滅し、司法は市民感覚に近づくとともに知的洗練への第一歩を踏み出すことになるのではないであろうか。
最後に、最も重要だと思われる点は日垣氏が主張している通り現行刑法が差別主義的な臭いにまみれたものであるということである。刑法第40条の≪瘖啞者ノ行為ハ之ヲ罰セス又ハ其刑ヲ減刑ス≫がようやく削除されたのは最近の1995年である。それまでは立法時における
「≪瘖啞者ノ精神ノ状況ニ因リ其発達カ常人に近キ者ハ之ヲ罰スト雖モ尚モ完全ナル人ト謂フコトヲ得サルヲ以テ一般ニ其刑ヲ減刑し≫(国会図書館所蔵「政府提出案理由書」)
言葉が不自由な者は完全な人間とは言えない」
という差別的なイデオロギーが条文に生きていたのである。結局は、またそのまま引用させていただければ
「現行刑法が公布されたのは明治四十年(1907年)四月二十四日であり、施行は明治四十一年十月一日である。二十一世紀に至るまで、ほとんど改正がなされておらず、今では使い物にならなくなってしまった。「政局」にばかり熱心なこの国の議員たちは、刑法を時代にふさわしいものにすべく絶えずチェックしようとする姿勢も意思もない。立法を常に担っているとの自覚すらないのだろう。国際的恥部と言うほかない。」
ということに尽きるのであろう。我々は差別が色濃く蔓延していた時代に作られた法律を現代風に無理やりこじつけたものによって管理、支配されているのであるから司法や裁判に違和感や矛盾を感じるのは当然なのである。しかし最近の政治家、特に大臣たる者の発言を耳にしても本当に物事をきちんと考える能力を有しているのであろうかと思わざるを得ず、あまりに悲惨である。
どうしたものであろうか。
母の子殺しについての社会的考察はタブーに触れる。この記事を書いている途中で急に腹が減ってきて、近くのよく行くたこ焼き屋に思わず買いに行った。このような内容のものを書いたところで無意味ではないかといつものように迷いながらである。そのたこ焼き屋は小さな店ながら有線放送のメディアによって大阪で美味しい店20店に選ばれDVDに収録されるぐらいなので本当に美味しいのである。おばさんが一人で焼いていて、先に来ていた中年女性と何やら話しをしていた。それが何と福岡市の公園で母親が子供を殺した事件の動機についての会話だったので驚いた。母親は脚が悪くて子供の手助けが必要であったのに、子供がそれを嫌がった。また子供が母親に対して授業参観に来るなと言ったことから母親がかっとなって衝動的に殺してしまったというようなことだった。たこ焼き屋のおばさんは、
「そんなことで自分の子供を殺しますか。私なら自分の子供に何を言われても全然腹が立ちませんけど。」と言った後、私の方を見て
「そんなことで腹立ったりしませんよねえ。」と同意を求めてきたのである。
私はその瞬間に、神からお前の思っていることを心置きなく書きなさいと言われているような気がしたのである。
大阪では神は美味しいたこ焼き屋さんの軒下にこそ在られる。
ということで私もまたちょっと“心神喪失”気味である。だから今回の記事内容に対して反感を持たれた方々、賢明な知性と心優しき心根をお持ちの女性にはご理解いただけると信ずるが、もしそうでなければ私の心神喪失に免じてお許しいただきたい。