龍のひげのブログ -541ページ目

虫の一分

虫の息

無私に無視して無心に書けば

夢死して生きるや

無死なる言葉

橋下知事、ご乱心

大阪府、橋下知事が朝日新聞の社説に噛み付いたようだ。山口県母子殺害事件、被告少年の弁護方針に対し橋下氏がテレビ番組で被告弁護団への懲戒請求を呼び掛けた件についてである。弁護団からの損害賠償請求を認めた広島地裁の判決を受けて、朝日新聞社説は、「判決を真剣に受け止めるならば、控訴をしないだけでなく、弁護士の資格を返上してはどうか。」と書いた。

橋下知事はからかい半分に批判されたとして激怒し、朝日新聞に対し事実誤認もあるから廃業しろなどと吠えている。

私の率直な感想を言えば、そもそも弁護士なる者は基本的に保守的である。弁護士だけではないのかも知れないが、これまでの日本の司法というものは一つの業界団体のようになっていて、そこに携わる人間たちが閉鎖的で特異な世界の秩序を維持することで保護される権威が彼らの既得権益になっていた。だから弁護士が他の弁護士への懲戒請求を扇動するなどということは、本来絶対にあり得ないことである。なぜなら言うまでもなく明日は我が身だからだ。そんな身内同士の喧嘩をしても無意味だから、弁護士が安易に懲戒請求の制度を利用したり勧めないという暗黙の協定が出来るのは当然である。それ以前に弁護士自治そのものが公権力の介入をさせないことによって、弁護士の地位や自由な活動を保障するためにあるのだから、弁護士が弁護士を批判するために懲戒請求を利用するという行為は制度の根本的な趣旨に矛盾しているとも言える。

橋下氏が閉鎖的な司法の世界に風穴を開ける目的で、あるいは自らの法的な正義感や信念からそのような異端的なことをTVで言ったのであれば勇気があって賞賛に値するものだとも言えよう。しかし橋下氏の発言は誰が見てもタレントとして、圧倒的多数の市民感覚(視聴率)に媚を売っていたものとしか思えない。

仮に当時橋下氏がタレントではなく、単に一人の弁護士として山口県母子殺害事件の弁護方針について意見を求められたのであれば、はたして懲戒請求を呼び掛けるような発言をしたであろうか。ご当人はタレントでなくとも同じ考えだったから発言したと主張するかも知れないが、私には到底信じられない。そのような馬鹿げたことを言うわけがない。何の得にもならないからだ。

その証拠に第一審で敗訴した途端に自らの非を認めて謝罪しているではないか。弁護士の正義や信念がそんなそんな簡単に変節するものだろうか。裁判の判決は裁判官によっても変わるのだから、素人が考えても橋下氏の態度はいい加減である。「私の法律解釈が間違っておりました」と殊勝なことを言っていたが、馬鹿なことを言うなと言いたい。法律解釈などまったく関係ないではないか。

単に自分がタレントから知事に転身して身の拠り所が変わったから、発言も一見もっともらしく様変わりしただけのことである。立場相応の考え方もあるだろうからタレントと知事では発言に多少のずれがあっても止むを得ないが、それなら、

私のタレント時分に弁護士としての職分を離れた軽率な発言でたくさんの人にご迷惑をおかけしたことをお詫びします。

と言うべきである。“法律解釈が間違っていた”というような姑息な筋道のすり替えは、本当に見苦しいもので気分が悪い。なぜなら司法の世界に身を置く人間特有の傲慢さがにじみ出ているように感じられるからだ。そのような性質の人々が、死刑や懲役などの人間の運命決定に深く関わっていると思うとやり切れない気分になる。今日、市民全般の司法に対する不信感はかなり根深いものがあるが橋下氏は、当の司法関係者がそのような事実をまったく認識できていないことを示す象徴のような人物である。

また橋下氏の一連の態度は“こうもり”的であるとも言える。その時々で都合よく哺乳類(弁護士)になったり、鳥(タレント)のようにさえずる。多才であると言う人もいるであろうが、単に調子がいいだけではないのか。どこか中途半端で信用性に欠けるのである。よって朝日新聞が“弁護士資格を返上すればどうか”と書いたことは、からかい半分などではなく極めて真っ当な意見だと私には思われるが、橋下氏には永遠にわからないであろう。わかるような感性をもともと持っていないからだ。自分のことしか考えていないのに偉そうなことを言うなよ。偉そうなのは新聞報道ではなく橋下氏自身ではないのか。弁護士にこのような特権階級的な意識を持たせる司法界のあり方そのものが日本の大きな問題である。テレビに出てふざけている弁護士たちも皆、同類である。

一大阪府民としては橋下知事に馬車馬のごとく働いていただきたいという気持ちはある。素人の政治が前例や癒着に囚われず、勇猛果敢に改革に突き進むという魅力はある。しかしいずれ鍍金は剥がれ、馬脚は現わる。今年の5月に30年ぶりで中学時代の同窓会があって、大阪府庁に勤めている男と話しをした。橋下知事の話しになって、その男が「年下だけど一応上司だからな」と苦々しそうな表情で言うので私が「4年間の辛抱じゃないか」と励ましてやると、その男は「いや、おそらく4年持たないと思うよ」と言っていた。

職員は冷静に分析しているのだなと妙に感心した。勢いよく先頭を切って飛び出したのはいいものの、第四コーナー(4年目)まで持たずに第二コーナー(2年目)辺りでへばってくるのかも知れない。今の発言を聞いていると、へばるだけではなくて何らかの事故で骨折するのではないかとも思えてくる。競走馬が骨折して予後不良となれば安楽死である。

はたして橋下知事は安楽死の運命となるのか、それとも意外と秋華賞のような1000万馬券に化けるのか、先の事は誰にもわからない。ただ我々は見守るだけである。

映画『トウキョウソナタ』の希望

何とも言えないような内容の映画だったな。

まあ、全体的には面白かったけど。

黒沢清監督作品、『トウキョウソノタ』を見た。

東京の小さなマイホームで暮らす4人家族のシリアスで滑稽な物語である。

香川照之演じる父親(佐々木竜平)と小泉今日子演じる母親(恵)には大学生と小学校6年生になる二人の息子がいる。ある日、健康機器メーカーで総務課長を務めていた竜平がリストラ宣告されて会社を首になってしまう。その事実を家族に言えない竜平は、悲しいかなリストラ以降もスーツを着て会社に出勤するフリを続ける。ハローワークで長蛇の列に並んで仕事を探そうとするが、紹介される職は警備員やコンビニ店長ぐらいである。竜平には大手企業で課長をしていたプライドがあるので、とても受け入れられない。

竜平が川沿いの公園でボランティアが配給する食事を食べていると、高校時代の同級生(黒須)に出会う。黒須も竜平と同じように建築関係の会社に勤めているフリをしていたが、三ヶ月前にリストラされていたのであった。

黒須の携帯電話は1時間に5回着信音が鳴るように設定されていて、その度に相手のいない電話に向かって忙しそうに一人芝居をしているシーンには笑ってしまった。黒須は妻の自分を見る目が疑わしそうだから、竜平に家に来て一緒に食事して欲しいと頼む。竜平が黒須の家に行くと、黒須の妻は竜平に対して「佐々木さんの会社は大丈夫なのですか。」と心配そうに聞いてくる。竜平は嘘をついて黒須の妻を安心させようと努力する。竜平は黒須の妻から、「黒須のことを守ってやってくださいね」と言われる。

しかしその数日後、黒須夫妻は中学生の一人娘を残して無理心中してしまう。

この映画の脚本で象徴的で秀逸だと思われた部分は、竜平の長男(貴)がアメリカ軍への入隊を希望することである。「日本はアメリカに守ってもらっているだけだ。日本人も世界の平和のためにアメリカと一緒に戦わなければならない。」と貴は主張する。

それに対して竜平は、「何が世界の平和だ。そんな危ない場所にお前を行かせられる訳がないではないか。この家の主は私で、私がお前たちを守ってやらなければならない立場なんだ。」と言って断固反対する。

貴は、「別にお父さんに守って欲しくなんかはないよ、そんな事を言っているから日本人はいつまでも駄目なんだ。」と答える。

結局、貴はアメリカ軍に入隊し中東に派兵されることになるが、その後エアメールで“アメリカだけが決して正しいわけではないことがわかりました。軍隊は止めますが日本には帰国しないで、しばらく現地の人たちと一緒に生活を共にしながら平和について考えてみたいと思います。僕は元気なので心配しないで下さい。”と連絡してくる。

“家族”とは一体何なのかという問いかけは、“国家”という根本的な前提条件を疑うことなしに答えられない地点に日本は既に到達していることをこの映画は物語っている。

恵は、竜平が公園でボランティア配給の食事の列に並んでいる光景を目撃してしまう。竜平はその後やむなくショッピングモールの清掃員の仕事を始めることになる。相も変わらずスーツを着て会社に行くフリをしながら。

映画後半は意外な展開を見せ始める。佐々木家に役所公司演じる強盗が入る。家に一人でいた恵は強盗の素顔を見てしまったことから、人質として連れ出され、盗んだ車を運転させられることになる。途中トイレに行かせてくれと強盗に頼んで、たまたま入ったショッピングモールで恵は清掃員の格好をしている竜平に出くわす。動揺した竜平は何も言わず走って逃げてしまう。やけになった恵は、正直にも強盗が待っている車に戻って逃避行のドライブを続けることになる。そして夜になりどこかの海にたどり着いた恵と強盗は、海辺の小屋に入ってゆく。

このストーリー展開にはいささか白けてしまった。しかしプライドを喪失した男が本当にゴミ屑同然にだらしないのに対し、やけを起こした女は何とも言えずエロチックであることがよくわかった。と言ってもエロチックなのはその一瞬だけなのであろうが。結局は堕ちてしまうと男も女も駄目なのである。

私はこの映画を見ながらなぜか植木等のことを考えてしまった。活力とエネルギーに満ち溢れた日本のよき日は過ぎ去ってしまった。でもそれはそれで仕方ないではないか。全て物事は移りゆくのである。同じ状態は永遠に続かない。日本の成長は終わっているので今後、万人が豊かさを享受することは不可能であろう。小泉今日子だってもう“なんてたってアイドル”ではない。今は今なりに精一杯生きてゆく以外に道はないのではないか。

ラストシーンでは、次男の健二が私立音楽中学の受験でドビュッシーの「月の光」を弾く。健二は両親に内緒で学校の給食費をつぎ込んでピアノを習っていた。家ではゴミ捨て場で拾ってきた音が出ないキーボードで懸命に練習していた。実は健二はピアノに対して天才的な才能の持ち主だったのである。当初、竜平は自分が失業している分際であるにもかかわらず、父親の権威にこだわって健二がピアノを習うことを一旦反対した方針は変えることは出来ないと頑なに言い張っていた。健二の圧倒的な演奏力に試験会場は静まり返り、審査員は息を呑む。健二の演奏に呆然と聞き入る恵の隣で、竜平の目から涙が流れていた。

黒沢清監督は、この映画の企画の段階で「最後にどうにかしてある種の希望にたどり着きたい」というコメントをされていたようである。私が受けた印象では、それは健二のピアノのように個人のもつ“才能”というか、または特殊な才能がなくともある人が何か一つのことを愚直にやり続けることによって自然と結び付けられるところの人間(信頼)関係ではないかというような気がした。

そういうものが暗い世相に一筋の明かりを灯すのである。

今風に言えば、夜の海に漂うクラゲが放つ淡い緑色発光のような希望とでも言おうか。

最後に私も、ある種の希望にたどり着くような一句をひねって締めくくりたい。

秋の夜に星が光るも生きてこそ

寝て、食べて、糞して

我も光らん

どうだ、参ったか。