映画『トウキョウソナタ』の希望
何とも言えないような内容の映画だったな。
まあ、全体的には面白かったけど。
黒沢清監督作品、『トウキョウソノタ』を見た。
東京の小さなマイホームで暮らす4人家族のシリアスで滑稽な物語である。
香川照之演じる父親(佐々木竜平)と小泉今日子演じる母親(恵)には大学生と小学校6年生になる二人の息子がいる。ある日、健康機器メーカーで総務課長を務めていた竜平がリストラ宣告されて会社を首になってしまう。その事実を家族に言えない竜平は、悲しいかなリストラ以降もスーツを着て会社に出勤するフリを続ける。ハローワークで長蛇の列に並んで仕事を探そうとするが、紹介される職は警備員やコンビニ店長ぐらいである。竜平には大手企業で課長をしていたプライドがあるので、とても受け入れられない。
竜平が川沿いの公園でボランティアが配給する食事を食べていると、高校時代の同級生(黒須)に出会う。黒須も竜平と同じように建築関係の会社に勤めているフリをしていたが、三ヶ月前にリストラされていたのであった。
黒須の携帯電話は1時間に5回着信音が鳴るように設定されていて、その度に相手のいない電話に向かって忙しそうに一人芝居をしているシーンには笑ってしまった。黒須は妻の自分を見る目が疑わしそうだから、竜平に家に来て一緒に食事して欲しいと頼む。竜平が黒須の家に行くと、黒須の妻は竜平に対して「佐々木さんの会社は大丈夫なのですか。」と心配そうに聞いてくる。竜平は嘘をついて黒須の妻を安心させようと努力する。竜平は黒須の妻から、「黒須のことを守ってやってくださいね」と言われる。
しかしその数日後、黒須夫妻は中学生の一人娘を残して無理心中してしまう。
この映画の脚本で象徴的で秀逸だと思われた部分は、竜平の長男(貴)がアメリカ軍への入隊を希望することである。「日本はアメリカに守ってもらっているだけだ。日本人も世界の平和のためにアメリカと一緒に戦わなければならない。」と貴は主張する。
それに対して竜平は、「何が世界の平和だ。そんな危ない場所にお前を行かせられる訳がないではないか。この家の主は私で、私がお前たちを守ってやらなければならない立場なんだ。」と言って断固反対する。
貴は、「別にお父さんに守って欲しくなんかはないよ、そんな事を言っているから日本人はいつまでも駄目なんだ。」と答える。
結局、貴はアメリカ軍に入隊し中東に派兵されることになるが、その後エアメールで“アメリカだけが決して正しいわけではないことがわかりました。軍隊は止めますが日本には帰国しないで、しばらく現地の人たちと一緒に生活を共にしながら平和について考えてみたいと思います。僕は元気なので心配しないで下さい。”と連絡してくる。
“家族”とは一体何なのかという問いかけは、“国家”という根本的な前提条件を疑うことなしに答えられない地点に日本は既に到達していることをこの映画は物語っている。
恵は、竜平が公園でボランティア配給の食事の列に並んでいる光景を目撃してしまう。竜平はその後やむなくショッピングモールの清掃員の仕事を始めることになる。相も変わらずスーツを着て会社に行くフリをしながら。
映画後半は意外な展開を見せ始める。佐々木家に役所公司演じる強盗が入る。家に一人でいた恵は強盗の素顔を見てしまったことから、人質として連れ出され、盗んだ車を運転させられることになる。途中トイレに行かせてくれと強盗に頼んで、たまたま入ったショッピングモールで恵は清掃員の格好をしている竜平に出くわす。動揺した竜平は何も言わず走って逃げてしまう。やけになった恵は、正直にも強盗が待っている車に戻って逃避行のドライブを続けることになる。そして夜になりどこかの海にたどり着いた恵と強盗は、海辺の小屋に入ってゆく。
このストーリー展開にはいささか白けてしまった。しかしプライドを喪失した男が本当にゴミ屑同然にだらしないのに対し、やけを起こした女は何とも言えずエロチックであることがよくわかった。と言ってもエロチックなのはその一瞬だけなのであろうが。結局は堕ちてしまうと男も女も駄目なのである。
私はこの映画を見ながらなぜか植木等のことを考えてしまった。活力とエネルギーに満ち溢れた日本のよき日は過ぎ去ってしまった。でもそれはそれで仕方ないではないか。全て物事は移りゆくのである。同じ状態は永遠に続かない。日本の成長は終わっているので今後、万人が豊かさを享受することは不可能であろう。小泉今日子だってもう“なんてたってアイドル”ではない。今は今なりに精一杯生きてゆく以外に道はないのではないか。
ラストシーンでは、次男の健二が私立音楽中学の受験でドビュッシーの「月の光」を弾く。健二は両親に内緒で学校の給食費をつぎ込んでピアノを習っていた。家ではゴミ捨て場で拾ってきた音が出ないキーボードで懸命に練習していた。実は健二はピアノに対して天才的な才能の持ち主だったのである。当初、竜平は自分が失業している分際であるにもかかわらず、父親の権威にこだわって健二がピアノを習うことを一旦反対した方針は変えることは出来ないと頑なに言い張っていた。健二の圧倒的な演奏力に試験会場は静まり返り、審査員は息を呑む。健二の演奏に呆然と聞き入る恵の隣で、竜平の目から涙が流れていた。
黒沢清監督は、この映画の企画の段階で「最後にどうにかしてある種の希望にたどり着きたい」というコメントをされていたようである。私が受けた印象では、それは健二のピアノのように個人のもつ“才能”というか、または特殊な才能がなくともある人が何か一つのことを愚直にやり続けることによって自然と結び付けられるところの人間(信頼)関係ではないかというような気がした。
そういうものが暗い世相に一筋の明かりを灯すのである。
今風に言えば、夜の海に漂うクラゲが放つ淡い緑色発光のような希望とでも言おうか。
最後に私も、ある種の希望にたどり着くような一句をひねって締めくくりたい。
秋の夜に星が光るも生きてこそ
寝て、食べて、糞して
我も光らん
どうだ、参ったか。