龍のひげのブログ -544ページ目

野生の哲学 1


本は買って棚に飾って置くものではなく読まなければならない。

『「野生」の哲学―生きぬく力を取り戻す』(町田宗鳳著、ちくま新書)は、書店で私に買われてから5年程経ってようやく読まれることとなった。書評を書くには遅きに失した感があるが、私には常に読むべき価値のあるものを選択する能力はあるであろうことを確認できたと言っておく。

本書のテーマは「野生を取り戻す」ことであり、「自己の本然的生命力としての<野生>を回復し、より深い次元からの「生の明るさ」を獲得するには、どうすればよいのか、」を考えることにある。

ニーチェの哲学にもつながるような内容は刺激的であると同時に、いかにも閉塞感の漂う現代日本に相応しいものであるとも言える。しかし私は著者の考えに必ずしも全面的に賛成できるものではない。あえて同書の内容に私なりの批判を加えることによって、「野生」についての思考を深めることを試みてみたい。

まず著者の経歴が際立っていることを述べなければならない。幼い頃に家を飛び出して20年間も禅寺で肉体労働である作務に明け暮れた後、30歳をゆうに越えてからアメリカ東部に渡り、掃除夫や運転手の仕事をしながら学究生活を送るようになった。そしてアメリカ東部の大学で14年間過ごした後、シンガポールに移って2年半教鞭をとり、日本には2000年の暮れに帰国した。海外の一人旅が趣味でもあるらしい。著者のこれまでの半生はまさに“野生的”である。また自ら“肉体主義者”であることを自負しておられるだけあって、頭の中で考えられた机上の空論ではない説得力がある。

しかし同書の内容を総括して言えることは、著者の「野生」という言葉に対する使い方や定義が曖昧なまま広範囲に用いられており、軽く読む程度には気にならないのであろうが、少し深く考えて見るとどうもしっくりと来ない部分があるのである。かいつまんで例示する。

たとえば著者は、根源的自然としての<狂い>について言及している。

「人間性の最奥に潜む生命感情を<狂い>と呼び、それに何らかの形で触れることが、宗教体験の本質にほかならないと論じた。」

著者の別の著作である『<狂い>と信仰―狂わなければ救われない』(PHP新書)を引用しながら「悟り」と「狂い」は紙一重であり、「狂い」の体験なしには「救い」もまた存在しないと説く。著者の論ずる<野生>はこの<狂い>と強いつながりをもつものであるということである。

「<狂い>には無意識の闇の中に姿なくわだかまる怪物のような不気味さが漂うが、その得体の知れない代物が、ある程度、意識の光を浴びるところまで浮上してきて、もっと直接的にわれわれの人格やライフスタイルに関わりをもち始めれば、それが<野生>となる。つまり混沌とした根源的生命が顕在化あるいは意識化したものが、私のいう<野生>なのである。」

またロゴス(理知)とパトス(情念)の関係についての考察においては、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の言葉の背後には、感情や感覚など身体的な要素を、理知的思惟や精神の自立を妨げるものとして、極力排除しようとした基本思想があり、それはロゴス(理知)の過大評価であり、生命活動としての身体性の役割がまったく無視されていると批判する。

デカルトは、「ロゴスを偏重するあまり、人間という自然現象が必然的に抱える曖昧な要素が、ばっさりと切り捨てられているのである。人間性の<狂い>や<野生>が抹殺されたところに、果たして全人的な人格が成立するのか、私としては大いに疑問とするところである。」

「情念としてのパトスが疎外されてしまうと、合理的な思考を支えているロゴスも活力を失ってしまうわけである。」

「いわばロゴスとパトスは夫婦関係にあるといってもよい。~(略)~いささかロゴスの亭主関白気味であった文明社会に、押さえ込まれていたパトスが失地回復をして、ロゴスとの間に健全なバランスを築きあげることが不可欠なのである。そしてロゴスとパトスが激しくぶつかり合うところに、<野生>という新しい知のパラダイムが止揚してくるわけである。」

言わんとするところは良くわかるのであるが、はたしてそうであろうか。たとえは悪いかもしれないが、麻原彰晃が逮捕前のTV出演時に語った言葉で私の記憶に残っているものがある。

麻原は「ある程度の思考力がなければ悟れない」と言ったのである。私はそのセリフを聞いたときに、この人は“わかっている”んだなと思ってしまった。“悟り”とは思考力で成就されるものではないが、思考が出発点となるためにある程度の思考力がなければ始まらないのである。それで思考を通じて日常的思考を支配する論理を突き抜けたところにある世界とは、より高次な論理構造なのだと私は思う。そのプロセスはあまりに困難で深い苦悩に満ちている。道を歩む者は必ず魔境に陥り悪魔と出会うことになる。よって精神だけでなく生身の肉体の力をも総動員させて立ち向かわなければ、まさに“狂って”しまうのだ。

オウム真理教と言えば、ヨガの厳しい修行などで身体性を重視する体育会系的なイメージが一般的にはあったのかも知れないが、肉体と精神を対等なパートナーとして見るような視座はなかったのではないかと私は考える。少なくとも宗教的な視点で見る限り、肉体とは道具なのではないか。



同窓会なるもの 2

それで同窓会の話しに戻るが、ある女性が私に話しかけてきてくれた。私はその女性のことをまったく覚えていなかった。それで正直に「申し訳ないけれど、私は覚えていないのです、ごめんなさい」と謝った。するとその女性は「一度もクラスが一緒になったことはないのだから無理もないね。でも私はものすごく、あなたのことを覚えているの。なぜならあなたは私にとっての初恋の人だから。」と言った。世間一般的には、同窓会ではありがちな退屈な話しである。しかし私には正直なところ天と地が引っくり返るほどの驚きであった。まさに驚天動地の告白である。中学時代に私に恋していた女性がいたとは考えられないのである。そんなことはこれまでの人生でただの一度も想像だにしたことがなかった。男は顔ではないが、私は女性に初恋の相手として選ばれるような端正な顔立ちをしていない。どちらかと言えば不細工である。小学校2年生になる私の息子はこの頃口が悪くなってきて私が何か注意すると、「何言うてんねん、不細工な顔してるくせに」と口答えする始末である。しかし、その女性は冗談を言っている訳ではなかった。なぜなら中学時代の私のことを、本人である私以上に覚えていてくれていることが話しをしていてわかったからである。私は野球部に入っていた。と言っても中学2年生の途中で止めてしまったのだけれど。その女性は野球部の練習場所が見渡せるという理由だけでわざわざテニス部に入って、いつも私を見ていたと言う。私が当時もっとも親しくしていた男友達の名前も覚えていた。週に1回ぐらいは私の家を見に来ていたと言っていた。家の表札がどのようになっていたとか私が全然知らないことまで彼女は覚えていた。私が中学2年生の時に書いた生活体験文の『とかげ』も覚えてくれていて、「“その日の晩御飯に出たおかずのきゅうりがバッタに見えてたべられなかった”でしょう。」と最後の一節を暗誦した。私は心底、驚いてしまった。確かに私はそのように書いたのである。普段、蜥蜴にゴキブリを食わせて喜んでいた私はバッタが食べられる光景にショックを受けて、その日きゅうりがバッタに見えて食べられなかったのである。当時いかにその文章が同級生たちに受けたからといっても30年前の話しである。クラス代表と学年代表で2回皆の前で発表しただけで文集のような形で残っているわけではないのだ。私の手元にさえ原稿はとうの昔に紛失してしまっている。“記憶”が全てであり、私のつたない表現は30年の時を超えて彼女の心の中で鮮明に生きていた。私は魂の中心にあるしこりが慰撫され、解きほぐされてゆくかのような静かな感動を味わった。

正直に言えば40代も半ばになればどのような女性であれ容貌や色香は衰えてゆくものであるから、そのようなロマンティックな告白は20年前にして欲しかったというのが本音であるが、もちろんそんな余計なことは口にしなかった。それで私は、自分は決して女性にもてるようなタイプではなかったはずなのに一体どこが良かったのかとくだらない質問をした。女性はどことなく雰囲気がよかったからだと答えた。私はその“雰囲気”なるものがどういうものだったのかもっと詳しく聞いて当時の自分を知りたかったのであるがそれ以上は聞けなかった。ただその女性は「他にもあなたのことが好きだった子がいたのよ」と言って二人ほどの名前を挙げたが、それらの名前に関しても私はまったく記憶がなかった。思えば私には元々冷淡なところがあったのかも知れない。

その女性の近況を聞いてまたまた仰天した。何とこれまでに4回も離婚していて今の相手とは5度目の結婚だそうである。双方の連れ子たちと新しい家族として一緒に生活しているとのことだった。3度目か、4度目の離婚の時には自分が慰謝料を支払ったと言っていた。聞いている内に私は脱力して座っている椅子からずり落ちそうになった。私はたった1度の離婚が出来ずに、どこかの夜店で買われて来て一夏過ごしたかぶと虫のように日に日に弱っている。まあ私の場合相手が応じないからであるが。もちろん離婚と結婚を繰り返すのが偉いというわけでもないだろうが、彼女の人生に対する貪欲さというかそのエネルギーには降参してしまいそうな気分を感じた。そんなパワフルな女性に30年前の一時期とはいえ初恋の相手に選ばれ思いを寄せられていたとは嬉しくもあり、また今日の我が身が不甲斐なく思えて居たたまれなくもあった。しかし、げに女とは恐ろしい生きものである。

小学校から中学まで一緒だった、大手TV局の子会社に勤めている男は信じられないことに私が小学校2年生の時に書いて校内放送で発表させられた作文を覚えてくれていた。その男に言われて初めて思い出した。そう、母の実家がある徳島に行くためにフェリー船に乗ったのである。そのことについての作文であった。私はその“フェリー”を変な発音で読んで教室で放送を聞いていたクラスメイトたちは爆笑に包まれたのだという。小学2年生といえば息子の年齢だ。当時の作文が誰かに覚えられているとは本当に信じられなくもあり、時空を超越したような感慨だった。その男が言うには私はめっちゃ作文が上手くて目立っていたのだそうだ。私という人間がそのように見られていたとは今回、同窓会に参加して初めて知ったことである。私は文章で誰かの記憶に深く残っている人間であった。私は生まれつきそういう人間だったのかも知れない。

いくつになっても自分自身を深く知ることは困難な道であり、驚きの連続でもある。

それでその日の同窓会は当初ほんの少しだけ顔を出すつもりであったのが気分が少し高揚していたためか、私が初恋の相手だったと告白してくれた女性も一緒に3次会にまで参加してカラオケで下手くそな歌を熱唱してしまった。

何ていうかその日は本当に白犬のように幸福な一日であった。

同窓会なるもの 1

今年の5月に中学時代の同窓会があった。ほぼ30年ぶりでの旧友たちとの再会であった。そしてそれは私にとって単に懐かしいというだけでは済ませない、自分自身の原点を探る回帰をも意味していた。

会場に立ち入ると当時の面影を残す顔も、見知らぬ人間に変身してしまったような顔もあった。しかし面白く思ったのはその人なりの身体の微妙な動かし方やしぐさ、佇まいが30年経った今も全然変わっていない事実を発見したことである。人間、顔は変わっても身体は変わらないのである。おそらく顔は社会性の反映であり、身体の動きがその人の終生変わらぬ本質なのであろう。

私はどのように記憶されていたのか。驚いたことに私は何と作文で皆に覚えられていた。私は今でこそ本に囲まれたような生活をしているが、高校卒業ぐらいまでは教科書以外の小説などは、ほとんど一冊たりとも読み通したことがなかった。しかしどういうわけか幼少より学校で作文を書くと先生に褒められたり、選ばれたりして皆の前で発表させられることが多かったのである。中学時代は夏休みの宿題で生活体験文というものを書かされた。私は中学一年生の時に“朝は眠たい”という奇妙なタイトルの文章を書いた。これがクラス代表に選ばれて体育館で発表させられることになった。一学年は8クラスあって8人の代表が全一年生生徒の前で次々と朗読し、その後生徒の投票で学年代表が選出されるのである。私は7~8割位の圧倒的な集票率で学年代表に選ばれた。詳しい内容は私自身が忘れてしまっているが、“朝の眠たさ”というものをさながら選挙演説のように、あるいは刑の軽減を情状酌量にて請い求める罪人のように切々と訴えたものであった。「夜は眠たいし、昼も眠たい。しかし朝はもっともっと眠たい」と締めくくると体育館が揺れるようにどよめいた。

現在、大阪市役所で企業誘致をしている男は、あれは中学一年生の時ではなくて大人の今に書かれたものであっても名作だと思うと言ってくれた。

中学2年生の生活体験文では“とかげ”という作文を書いた。当時、私はデパートで買ったちょっと珍しい蜥蜴を飼っていた。日本の蜥蜴のようにぬめっとした肌ではなく、鎧のように固くごつごつした茶褐色の皮膚で全身が覆われていて、その戦闘的な姿が格好良かったのである。餌は釣りに使うゴカイのような生き物が小さなパックで販売されていたが、私は自分で捕獲した別の生き物を同時に与えていた。それは何と“ゴキブリ”であった。初めに蜥蜴にゴキブリを与えたのは私の父であった。以後その光景を気に入った私が引き続きゴキブリを与えることになった。今では無くなってしまったが、当時透明のプラスティックで出来たゴキブリ捕獲器があった。餌におびき寄せられて、その容器に侵入すると出れなくなってしまのである。“一方通行、出口無し”というキャッチフレーズであった。その捕獲器にゴキブリが掛かると、蜥蜴を飼っていた水槽の容器に投げ入れた。そこからがちょっとした見ものであった。ガラス容器の中で蜥蜴とゴキブリの動きが一瞬止まるのである。獲物を襲う前の静かな緊張が漂う。そして次の瞬間に蜥蜴は電光石火の速さで跳びかかり、哀れなゴキブリは夜のような黒々とした羽を広げながら、むしゃむしゃと食べられてゆくのである。今思い返すとグロテスク極まりないが、当時の私はその光景を見て楽しんでいたのである。それである日の事である。私は自宅の近くで一匹のバッタをつかまえた。その時に何気なく蜥蜴の餌にしてやろうと思いついた。たまたま近くにいた妹にそのことを話すと、妹は「可哀想やからやめとき」と言った。私は、「かまへん」と無視してバッタを蜥蜴を飼育している水槽に入れた。いつものように蜥蜴は一瞬の静止の後にバッタを噛みくわえて食べ始めた。私はバッタが食べられてゆく光景を見て、ゴキブリでは感じなかったショックを受けた。何故かはわからないが弱肉強食の世界の不条理を見たように思い、バッタを餌にしてしまった自分の行為に罪の意識を深く感じて心が痛んだのである。ゴキブリの場合には強者の蜥蜴を格好よく思い、バッタだとナイーブな道徳感情が働くというのは単に正直なのか、子供らしいだけなのか、感受性として分かりやすいのか分かりにくいのか今もってよくわからない。しかし当時の私はどこか天才だったのである。それで私はその話しを作文に書き前年に引き続いてクラス代表として体育館で発表すると、割れんばかりの大歓声と笑いに包まれて、またしても圧倒的多数で学年代表に選ばれたのであった。因みに中学3年生の夏休みは、高校受験やら何やらで私の心の余裕はなくなっていて生活体験文は結局書かなかった。