冤罪が発生する社会構造
“冤罪”が発生する社会的背景というものについて考えてみたい。富山県強姦事件で誤認逮捕された男性はアリバイがあるにもかかわらず、被害女性2名が面通しの結果「この人だと思う」あるいは「この人だ」と証言したために犯人にされてしまったのである。
この手の事件で被害者の記憶に基づく証言が重要視されるのは当然だが、加害者を特定するような決定的な証拠がおざなりにされたり、容疑者のアリバイを無視して無理やり自白を強要するということは捜査の怠慢と言うよりも本質的には捜査能力の低下に原因があるといえるのではないだろうか。
その背景は痴漢やDVなどの犯罪とは言えないような軽微な事件で、女性の言い分のみが無条件に認められ男性の主張は無視しても構わないというような暗黙の了解が社会構造に強力にコード化されてしまっているところに原因があると思われる。
痴漢などの迷惑行為を女性の言い分のみに基づいて、“犯罪”として強権的に取り締まっていると、強姦などの本当の犯罪に際しても痴漢やDVなどと同じような取調べになるのは当然とも言えるのである。
なぜなら冤罪の構造も権力内部で引き継がれ一体化されてしまうからである。そして社会秩序を維持するための肝心の“捜査能力”が劣化してゆくのである。
このような社会構造に私は権威あるメディアも加担していて大いに責任があると考える。たとえばDV法に関しても、法律の大原則であるはずの公平性の視点が明らかに欠如している悪法であると一部で抗議集会などが開かれていたがメディアは一切、報じようとしない。
そのような動きが燎原の火のように拡がることを何よりも恐れているからである。権威あるメディアが社会正義を担保していると考えるのは明らかに間違っている。見せ掛けの正義と民主主義をこねくり回しながら、権威や収益システムを死守しようとしているだけではないのか。
私が既存メディアの解体、再編が必要だと考えるのはこのような理由によってである。つまらない法律ばかりたくさん作って世の中を滅茶苦茶にするのであれば、メディア資本を解体する法律を作るべきだと私は思う。
逃げるな。
自転車に乗って家の近くを走っていた時のことである。ふと誰かに呼ばれたような気がしたので止まって辺りを見回したが誰もいない。
しかし、止まった場所のすぐ横にあった派出所に銀に輝くポスターが貼ってあって、一言「逃げるな。」とのコピーが書かれていた。どうやら私はそのポスターに呼び止められたものらしい。よく見ると警察官募集のポスターで、下の方に小さな文字で「悪と真正面から向き合おう。」とあった。
しかし募集しておきながら逃げるな、などと大上段に構えた言葉は何ともユニークである。どちらかと言うと、万引き犯や引ったくりに対する時の「ちょっと待ちなさい、おい、こら逃げるな」の“逃げるな”である。それも高級紙を使って正面に立つ人の姿を鏡のように映し出すような小じゃれた工夫までして。
普通に「我々と共に悪と戦おう。」とか「町の平和を守ろう。」などのコピーの方がいいのではないか。
しかし、“逃げるな。”はいい。面白い。警察官募集のポスターが通り行く人々を片っ端から逮捕してゆくかのように睥睨していた。真面目ゆえの何とも言えないおかしさがあって私はいたく気に入ってしまった。
それで家からデジカメを取ってきて写した。
派出所の中から警官が出てきそうな気がして私はあわてて逃げた。
アンタッチャブルな領域
たとえば役所の“裏金”の問題一つをとって考えて見ても、社会保険庁の年金横領や着服と同じようなケースが考えられるので徹底的に調査すべきであることは言うまでもない。
なら、どうして警察組織の裏金については全国的な問題として大きく取り上げられないのか。一部の地方(北海道、高知県)で地方新聞社が警察裏金の疑惑を粘り強く追及し暴いた事実があるようだが、東京や大阪のような大都会ではそのような話しはまったく聞かない。(私の知らないところであるかも知れないが。)
もちろん外交官の機密費のように表に出にくい金が警察組織にはあって、手が出しにくいアンタッチャブルな領域であることはよくわかる。私自身の個人的な考えとしても、捜査協力についての謝礼や内偵の活動費用などの情報を一般に公開していたのでは肝心の捜査に支障をきたすであろうから本末転倒であると思う。これらのことは本質的には組織の職務内容に関連した、予算や会計手法、情報公開のあり方の問題であると思う。最終的に国家(市民社会)にとってプラスになるかどうかだ。
しかし私が今、問題にしているのはそういうことではない。大衆の道徳感覚や不正に対する糾弾は社会構造が生み出すものであって、その道徳や糾弾が全体にそれなりに機能している間はいいのだけれど、今日の日本のように自殺者やうつ病者が一向に減りそうにない現状では背後の歯車の構造をよく点検して改めるべきところは改めていく時期に来ているのではないかといいたいのである。その一例として地方新聞社が果敢にジャーナリズムとしての責任を果たしているのに中央の権威あるメディアはどうして警察の“不正”に踏み込めないのか。
普通に考えれば大新聞社は資本系列下にTV局などを抱えており、ドラマや映画撮影などにおける道路利用で警察から認可を得たり、また警備してもらわなければならないことも多いから警察組織との良好な関係を何よりも大切にするのだと思われる。だから「警察の方々、いつもお疲れ様です。」と苦労をねぎらうような捕り物調的なドキュメンタリー番組ばかり作って放映している。
そのような番組や刑事が格好よく殉職するドラマばかり見せられていたのでは誰だって洗脳される。私も幼い頃刑事ドラマを見すぎたおかげで、つい最近までは警察は絶対に嘘をつかないと思っていた。
ところが実際には“冤罪”が起きる。また明らかに事件性があるものについて事故として処理されてしまうケースも多いようである。TVの報道番組では何年か前にニュースステーションが、高知県で自衛隊員が橋から墜落死し警察が自殺と鑑定、処理したことに対して明らかに地元の暴走族によって投げ落とされた殺人事件の可能性が高いとして取材を重ね、警察の捜査手法についての疑問点など複数回にわたって放映していたものがあった。
しかし私がこれまでの人生で見たものはそれだけである。それも地方の出来事の一こまである。全ては闇から闇へと葬られてゆくのである。
私がメディアの構造改革、再編が必要だと思うのはこれらの理由によってである。
