日韓戦について
とうとう北京オリンピックも終わってしまった。と言ってもそれほど熱心に見ていた訳でもないので特に感慨深くも名残惜しくもないが。
私が見た範囲で総括して言うと、最も強い印象を受けた競技はやはり野球である。韓国は強かった。ただその一言である。予選リーグと決勝リーグの日韓戦を見ていて思い出したことがある。今からもう15年ぐらい前だろうか。韓国の選抜チームと日本のプロ選抜チームとの、確か親善試合が日本国内で行われTV放映されていた。当時の韓国プロ野球は日本の社会人レベルで、日本のプロにはまったく歯が立たなかったように記憶している。
しかし、当時日本選抜チームの監督をしていた王監督が日本の選手に、韓国の選手達を称して「あいつらの眼を見てみろ、貪欲に技術を吸収しようとするあの鋭い眼光を。あいつらは強くなって我々の前に立ちはだかる日が必ずやってくるぞ。」と言っていたという話しを、その時中継していたTVアナウンサーが紹介していた。
さすがに王監督はその時点で既に韓国選手たちの只ならぬ雰囲気から、日本野球が脅かされる日がくることを見抜いていたのである。それで、ついにと言うべきかあっさりと言うべきかはわからないが、とにかく日本の野球は韓国に抜かれてしまった。リリーフに立った日本のピッチャーが韓国打線を抑えることが出来ず、脂汗で濡れそぼった髪の毛と精神的ショックが張り付いたような強張った顔を見ていると日本の野球は恐らくこの先もずっと韓国には勝てないだろうと直感的に思った。サッカーと同じように、たまに勝てる程度になるのではないだろうか。
韓国の強さは一体何なのか。サッカーも野球も技術的には大差はない、むしろ日本の方がレベルは上なのかも知れない。しかし気迫というか、勝利に対する気持ちの強さがまるで違うように感じられる。日本選手にも当然勝つことに対するこだわりはあるのであろうが韓国選手のように赤々と燃え上がるがごとき執念の前では、技術レベルに相当の開きがなければちょっと勝てないような気がする。
勝負事には“運”という要素が付き物であるが、運は必ず精神力の強いほうに引き寄せられる。麻雀をやったことがある人間なら誰もが知っていることだ。気力が充実している間はツモも良く振り込むことも少ないが、集中力が一旦途切れてしまうと目に見えるようにツキが離れてゆく。場の流れが変わってしまう。もし国際麻雀大会があれば恐らく韓国は強いだろう、日本はきっとかなわないだろうなどとTVを見ながらつまらないことを考えてしまった。
思い致せば日本も数十年前の戦争中は、米軍戦闘機を地上から精神力のみで撃墜せしめようとするような今から考えれば笑うに笑えないような、極端な精神力万能主義の時代があった。原爆の投下で精神は物質に勝てないことを完膚なきまでに思い知らされた。しかし戦後においてもスポーツなどにおいて根性や精神力を重視する風潮は長きにわたって根強く残っていた。しかしある時期から根性論や精神主義に対置するものとしての合理的思考や科学的トレーニングに取って代わられるようになった。今や根性や精神力などという言葉自体が泥臭くて口にするのも気恥ずかしいような時代になっている。しかし今の時代の“科学”なるものは、やらせ番組で白衣を着たいかにも権威的な人物が、捏造されたデータでもってそれらしく説明すれば万人が納得してしまうというような、実にいい加減というか底の浅いものでもある。
だから私は韓国のサッカーや野球などのプレイスタイルを見ていると、科学的な戦術よりも精神力の方がよほど確かで信用の置ける能力ではないかとも思えるのだが、大体において日本人はそういう風には考えたがらない。敗北の原因すら科学的かつ合理的に説明して自らを納得させようとする。
精神力で戦闘機を撃ち落すことは出来なくとも、ゴール枠内に飛んでゆくボールの軌道を逸らせてゴールポストに当てさせたり、決定的な場面でこぼれ球を拾うような芸当は可能であることを韓国の執念は教えてくれているような気がする。だから私は日本チームが負けると悔しいことは悔しいのであるが、運も不運もなく物事が正しところに落ちついたようなどこか清清しい気持ちになる。
それに韓国は、日本の昔のような精神一偏主義ではなく充分に科学的な研究や対策をして臨んでいるものと思える。新しい技術やスタイルを進んで取り入れ、消化してゆくスピードも日本より早いのではないだろうか。
日本の悪いところは全てにおいて、あれかこれかの二者択一なのである。
“戦争か平和か”、“肉体か精神か”“愛か金か”、全て同じである。対立概念を統合し、乗り越えたところにあるより高次の価値を創造しようという発想がまるでない。だから、あれもこれものような韓国のような国には日本は必ず抜き去られていく運命にあるのだと私は思う。
たまたま勝った方が強いのではない。運も含めてトータル的に強い方が必ず勝つのである。先ずそれを認めなければ、日本の再起はないのではないか。
力の根源
軍事力を背景にした言葉の強さがなければ、外交交渉力を持ち得ないという意味で言ったのではない。
昔読んだアルビン・トフラーの『パワーシフト』だったかと思うが、力(パワー)の要素は暴力と金と知識であると書かれていたことを覚えている。これは国家間だけでなく個人レベルの人間関係で見てもあてはまる原則であろう。
すなわち力の原則に従えば、日本が今後とも平和国家として憲法9条を堅持し続けるか、それとも改憲するかという選択は国力を底辺で条件付ける三つの要素の内の一つに過ぎないということも出来るのである。
もちろん直接、戦争や徴兵制ということに関連してくる法案なので国民一人一人にとって最も重要な問題であることはよくわかるし、誰にとっても戦争よりも平和の方が望ましいのは当然である。
それなら暴力(軍隊)を排除するのであれば、金と知識の力で世界と伍してゆかなければならない。事実、戦後日本の急激な成長は、経済力と国民の知的水準の高さによって成し遂げられたものである。つまり日本の平和とは金の力と、国民一人一人の世界的な賢さで保たれてきたものなのである。
今日の日本は、その金と知識の力が急激に低下してきている。要するにパワーの全要素を喪失して国力がはっきりと衰退しているのである。そのような状況下において憲法9条改正の動きが出てきているのである。
何が言いたいのかというと、日本が自国内だけでも平和を維持し続けたいのであれば、それに見合った総合的な国力が無ければどうしても不可能であることを先ず第一に認めるべきではないかということである。
そのような本質的な部分を見ようとせずに、一部の政党や知識人たちが未だに冷戦下の二項対立的な議論や闘争ばかり繰り広げていることに嫌悪を通り越して憎しみに近いものを私は感じる。
憲法9条や平和の大切さを論ずる輪に参加さえしていれば正当な民主主義に加わっているかのような幻想が教育やメディアを通して日本の精神を曇らせてきた。それでいつの間にか日本人は根本的に自分の頭で真相を見極める思考力を放棄し、大勢に流されるだけの集合体になってしまった。道徳は荒廃し人心は乱れ、経済力や知的能力の高さを誇れるような国でも既になくなってしまっている。
そして皮肉なことに、どんどんと戦争に近い状態へと追い込まれていっているのである。
はっきり言うが我々に今必要なのは理念ではなく力である。力を取り戻さなければ、“無力”が国家的な暴力を生み出すであろう。
特に若い人々に言いたいことであるが、誰かの設問に答えてはならない。なぜならあなたの答えではなく設問そのものが日本を作ってきたからだ。だから答えた時点で負けである。反対に設問者に考えさせ、答えさせなければならない。
もう一つは権威的なものの威光に惑わされてはならないということである。相手がたとえノーベル賞受賞者であろうと臆することはない。なぜなら世界のパラダイムが変化するときに、“権威”は時代遅れとなって社会変化の足枷となるからだ。
自分の頭で考えることが一番尊いのである。そして、それが力の根源であると私は思う。
政治家の言葉
福田首相は竹島問題についての質問に答えて曰く、「双方の立場というものがありますからね」と言った。
ご当人は言葉を選んだ上で当たり障りの無い無難な回答をしていたつもりなのだろう。一般多数の大衆には通用するのかも知れないが、人よりも少しだけ言葉に敏感な私は納得しない。そもそも私は“あの人”の距離を置いたような言い回しに知性も強さもまったく感じない。双方に立場があるのは当たり前のことである。そういうのはいわば言わずもがなのことである。
言わずもがなのことを言うことが政治家の仕事なのか。それでは政治家の言葉とは一体何なのかということになる。
あえて言わずもがなに隠された本音を探るとこういうことになるのではないか。「我々にも国家としての面子や建前があるのですから、一応形だけでも領有権は主張せざるを得ないのです。そこの所をよくわかってくださいよ。実質的に竹島はあなたがたが支配しているのですから、日本は教科書等であくまで形式的に主張するということにさせてください。だから難しいことを言わないで、まあお互い仲良くしましょうよ。」
こういう言い方をするとご当人や自民党議員たちは烈火のごとく怒って否定するかもしれないが、日本の権力は元々そのような性質が強いのではないのか。本質的には国民不在のごまかしであると言える。また国内ではいつもそれで通用してきたのだ。問題を曖昧にし玉虫色の解決で現状を維持しようとする方法である。
しかし韓国は、「何を言っているんだ、そんなこと信用できるわけがないではないか。そういう二枚舌な態度は我々を見下しているのと同じではないのか。馬鹿にするのもいい加減にしろ。」ということになる。それで阿吽の呼吸ともいうべきような見事な協調で韓国の民間人は各地で日の丸国旗を燃やしたり、時には宗教家まで集結して(させられて)抗議声明を高々と唱えることとなる。
私はナショナリストであるから韓国のそのような官民一体となった激烈な行動に多くの日本人が嫌悪感を抱く気持ちはよくわかるのであるが、一歩踏み込んで考えて見ると韓国の民主主義は日本より遅れているのかも知れないけれど一面、健全であるとも言えないだろうか。日本のように言葉(形式、建前)と身体(実質、本音)が分離していないからである。民主主義の成熟に言葉と身体の不一致が必要不可欠なのかといえば必ずしもそうではなくてあくまで日本的なものだと思われる。
日本と韓国の問題は当然、歴史的な遺恨が根深く残っていて解消されていないことが主な原因であろうが、実質、実利を重んじる大陸的な感性と奇麗事の建前で問題を曖昧にして棚上げしようとする日本的な思考様式の対立という側面が大きいのではないかと私は考える。
日本が相手国と同じようにとことん実質、実利を重視した外交を展開すれば対立は益々深まって軍事的な緊張感が高まるではないかという意見もあるであろう。しかし本来領土問題とはそのような性質のものではないのか。
日本は外部に開かれた言葉(論理)を持っていないがゆえに全てを国内問題として対処しようとする。しかしそれでは対話のスタートラインにすら立てていないのである。日本人はもっと“言葉”の性質について鋭敏な感性を養わなければならない。