野生の哲学 2 | 龍のひげのブログ

野生の哲学 2

仏陀にしても“野性的”という表現は似つかわしいものではない。仏陀は論理の人であった。著者は、「肉体を通じてこそ肉体を超える思想を獲得することができる」と述べるがパトス(情念)とは肉体の付属物に過ぎない。そもそも人間誰もが生きている限りにおいて肉体から離れることが出来ないのであるから、本来、生者はすべからく肉体主義者であると言えるはずである。健康の維持や追求以上に哲学的な領域において肉体を強調することは単にライフスタイルや趣味の問題に過ぎないと思う。私は“野生”や“パトス(情念)”という言葉自体に何ら偏見があるものではないが、宇宙の本質はやはりどこまでも“ロゴス(論理)”であると思う。西欧かぶれしていると言われるかも知れないが、これはとても大切な認識であると私は考える。

何かに憑かれたような踊り念仏や、地を転げるようにして霊の言葉を伝える巫女は、肉体的ではあるが宗教という名の“俗なる生”の一断面であって明瞭かつ玲瓏な“悟り”からは程遠いものであるように私には思える。

それでは身体というものについて、あるいは身体と精神の一致や不一致についてどのように考えるべきなのであろうか。私はそこに“社会性”が深く関係してくるように思えるのである。身体と精神の底流には社会性つまり制度が影響している。要するに身体と精神の調和はその地域や社会に独自なものであって、普遍的かつ超越的に論じれるものではないということである。

筆者は、インドの聖地ベナレスで沐浴場で舟に乗っているとき、船べりに半ば白骨化した死体がプカプカと浮いているにもかかわらず、その横でみんな嬉々としてガンジスの水を飲んだり、うがいをしている光景を見てインド人のすさまじい免疫力に羨望の念を抱いたと述べている。

一方で日本については、

「体を泥んこにして動物と戯れあったり、野山を駆けずり回ったりした経験もなく、抗菌グッズがもてはやされる清潔な社会に育つ若者の生命感覚が、根本から損なわれているのである。決して不衛生な生活環境を推奨しているわけではないが、社会があまりにも潔癖であろうとすれば、不可解な行動をとる病的人間は、増加の一途をたどることになるにちがいない。なぜなら、バイオロジカルな雑菌を毛嫌いし、それを抹殺しようとする社会は、生命の多様な存在形態を受け入れるだけの寛容性をもたない社会でもあるからだ。」

と憂慮している。

これらについても“野生”というものを社会制度の中でどのように考えるかという問題である。筆者の主張はよくわかるのであるが、日本で生きてゆく者として現実的に考えればあまり意味のある意見だとも思えないのである。

都会のマンションの一室で暮らす家族は、どうしようもなく“自然という野生”から隔離された感覚しか持ち得ない。しかし、その“潔癖”自体が問題なのであろうか。無理に“野生”を都会生活の中に取り入れようとして、たとえばマンションの浴槽に泥を入れて子供を遊ばせるようなことに意味があるのか。現実的には、そんな馬鹿なことをすれば配管が詰まって大変なことになる。

あるいは母親が子育てをネグレクトして子供に清潔な衣服を与えていなかったり、ろくに食事の後片付けもせずに蝿や蛆がたかるような不衛生な部屋に幼児を長期間、放置するようなことが日本の今日的な問題なのである。まさか、そのような“野性的な環境”の方が免疫力が高まるから子供の為だ、などというような論理は成り立たないであろう。

私が言っている事は屁理屈かも知れない。筆者が言う通り「人間が自然現象そのもの」であり、「自然には切れ目がない」ということは禅的な真理であろう。

しかし人間存在を自然との有機的なつながりにおいて考察するときに、その国の社会環境やシステムを飛び越えて結び付けてしまうことは、本当の問題の原因を見誤ってしまうという点において危険だといえるのではないだろうか。

日本とインドを比べることは無意味なのである。日本ではガンジス川に浮かぶ死体はおろか、車に撥ねられた犬や猫の死体すら役所に電話すればすぐに回収してもらえる。私はそれでいいのだと思う。アスファルトの路上で犬や猫の死体がいつまでも放置されて蛆を湧かせているのは“自然”ではない。山奥の小屋で馬の出産シーンを見て感動するのとは根本的に異なると思う。

筆者の言う“野生”の意味はよくわかるし刺激的で面白いのでもあるが、日本の社会問題について言及するのであれば、“野生を取り戻す”というような茫漠とした考えは見当外れであるだけでなく、ますます世の中がおかしくなるような気がする。これからの日本の再生のために必要な、“日本の野生”というものをよく吟味した上で、それをどのように社会制度に取り込んでいくかも研究してゆく必要があると思われる。但し私は、日本の世界的な自殺率の高さや、うつ病や人格障害などの急激な増加、原因のはっきりしない猟奇的な犯罪は筆者が主張するような肉体を重んじる野生主義では決して解決しないように感じられる。単に個人レベルで肉体と精神が一致すれば、日本社会全体が健全化に向かうなどというような牧歌的な状況ではない。筆者は日本を離れている期間が長かったゆえ、日本の深刻さが今一よく見えていないのではないかとも思った。

日本の問題は、やはりきわめて政治的なところにあるのだと私には思われる。

最終的には民衆は社会環境に適合するしかないのである。自殺や精神障害も一種の適合だと思われる。政治家には何よりも問題の本質と将来を見通す能力が必要だと思われるが、日本の状態はあまりに悲惨である。

下級役人と何ら変わらないような考え方しか出来ない人物が首相になれば、間違いなく国民は不幸になる。

次回は日本が不幸を脱却する具体的な方向性について私見を述べたい。