母の子殺しについて 1 | 龍のひげのブログ

母の子殺しについて 1



最初の報道時点から私は怪しいと思っていた。福岡市の公園で母親が子供を殺害した事件である。母親がトイレに行っている2~3分の間に子供がどこかに連れ去られる事態は十分有り得るだろうが、直後に殺害されて子供を見失うきっかけになった正にそのトイレ横に遺体が遺棄されていたなどというような顛末は第三者の手で為されていた可能性はゼロではないにしても極めて不自然である。

秋田県、畠山鈴香の例もあるので私は福岡県警に対し先入観や予断に囚われない捜査をして欲しいと考え、そのような内容の記事を書こうか書くまいか迷っていた矢先に母親が逮捕された。少なくとも今回の件に関して言うなら、私のような素人が助言するまでもなくプロの目は節穴ではなかった。しかし失われた子供の命が戻るものでもない。このような母親の突発的で衝動的な子殺しの事件が起こるたびに、私には思い出す昔のある出来事がある。

私が子供の頃、我が家では犬を飼っていた。中型の雌犬、雑種で名前をマリと言った。当時は今のようなペットブームでもなく犬の飼い方も大雑把で適当だった。まあ私の家だけだったのかも知れないが、鎖にもつながず放し飼いにしていたのである。マリは自宅に隣接した倉庫と事務所をうろちょろしたり、仕事をする父の後ろにくっついてあちこちに移動していた。誰も散歩に連れて行く者はいなかったが、マリは一人(匹)で外出していた。どこに行っていたのかは知らない。あてもなく近所をぶらついていたのだと思う。しかし行方不明になるようなことはなかった。門限を決めていた訳でもないのに、夕方薄暗くなる頃には犬も心寂しくなるのだろうか必ず戻ってきていた。帰ってくる時には、いつも何事もなかったように澄ました顔をしていたように記憶している。でも雌(女)は犬も人間もよくわからないものである。犬もまた犬の出会いというものがあるのであろう。知らぬ間に仔を身ごもっていることが何度となくあった。産まれてくる仔は、その度に張り紙をしてもらって誰かにもらっていた。

それである日のことである。マリが仔を産んだ。ところが父が仔犬たちの様子を覗き見ようとして近づいたところ、興奮したマリは何とその中の一匹を食べてしまったのである。当時私は小学生5年生か6年生であった。父からその話しを聞いた私は信じられない気持ちとともに、大変なショックを受けた。

“何で自分の子供を食べるんだ、そんなに腹が減っていたのか。”

とにかくその事実が子供の私には強烈な印象だったのである。マリは私が高校生の頃に死んでしまったが、今思い返せばマリが我が子を食べた行為は、人間流に解釈すれば“心神喪失”だったのである。そういえば、その時のマリの目は“私は心神喪失状態でした”とでも言いたげな、そんな茫然自失とした雰囲気があったような気がしないでもない。

私は刑法39条の“心神喪失”及び“心神耗弱”について述べたいのである。不謹慎かも知れないが母親が自分の子を殺害する事件が報ぜられると、子供を食べたマリの姿が連想されるのである。人間の女性を犬扱いにして冒涜するつもりは毛頭ないし、ふざけているわけでもない。魔が差した時の人間の精神状態や行動の不可解さと、いわゆる心神喪失状態における免罪というものを自分なりに考えたいだけである。本来、人間は犬や猫とは違った理性の動物なのだから自らが犯した事態の結果に対して責任を負わなければならないのは当然である。それに対して社会全体は本当によく吟味した上で今日尚、刑法39条を存置させているといえるであろうか。母の子殺し事件が発生すると、これまで必ずといってよいほど新聞やTVのメディアは、“子育てで悩んでいた”とか“周りの地域住民や行政は事前に救いの手を差し伸べることができなかったのであろうか”というような同情的なコメントで結ぶのが常であった。まだ事件の全容が何も判っていない内からである。そのように心神喪失適用への道が暗黙に敷かれてしまうのである。

基本的かつ本質的な問いかけをするが、母親が子育てで悩むことは異常なのであろうか。私はそうは思わない。子育てだけでなく人間誰しも、仕事や健康、家計、人間関係で悩んでいる状態が普通ではないのか。私に言わせれば大人になっても悩みがない人間こそ異常である。それでは普通を異常にする力学とは一体いかなるものであるのか。

そこで今回、紹介する本は『そして殺人者は野に放たれる』(新潮文庫、日垣隆著)である。私は今回のブログを書くにあたり同書を再読したが、改めて著者の日垣氏は凄い人であると心より思った。この人の一途さには余人の真似できない美しさがある。尊敬すべき人であることがこの一冊を読むだけでよくわかる。日垣氏は何らかの事件で弟を殺害され、兄は精神分裂病に罹患したまま入院しているという十字架を背負っておられる人である。それで全国各地で心神喪失が争点となっている刑事裁判を取材して回り、同書解説の精神科医が伝えるところによれば、本業の精神科医ですら読破したものに会ったことがないという全三十巻以上にも及ぶ中山書店発行の『現代精神医学体系』を読破したという。日垣氏はひたすら、犯罪そのものをなかったことにする心神喪失という不条理の真相を追求し続け10年がかりで同書を完成させた。商業ベースの採算など考えていればとても出来ることではない。一生の仕事であり求道である。こういう人の言葉には嘘がない。我々はもっと自らの言葉の嘘やごまかし、無意識の正当化を見つめるべきである。

以下は私の勝手な所感である。日垣氏も言う通り、刑法39条における心神喪失及び心神耗弱を安易に適用する日本の司法の問題は「結果ではなく、ひたすら動機を裁いている」という点につきるのだと、私もまったく同感である。

動機を裁くとは、警察取調べにおける調書作成の“作文”に象徴されるのではないであろうか。

何日間も拘留されて朝から晩まで

“おまえは何々の状況で、斯く斯くしかじかの理由から、こういう風に考えて誰それを殺したのではないのか。もう一回よく思い出してみろ。”

と何百回も問い詰められれて最終的に

“はい、刑事さんのおっしゃる通りです。”と被疑者が自白するときにその場を支配している強制力は“物語”である。TVドラマの脚本のようなものでもあり、その特徴は万人が納得し共有できる筋書きである。大衆迎合のように見れなくもないが、その本質は権力が犯罪を通じて間接的に市民生活の物語を統制していることである。“型にはめる“と言う方がわかりやすいだろうか。その物語とは、たとえば子供が難病を患っていて余命いくばくもない、手術をすれば治る可能性はあるが多額の費用が必要でとてもそのような余裕はない、このままでは我が子を見殺しにするようなものだ、それで止むに止まれず身代金目的の誘拐を働いた挙句人質を殺してしまった、というようなストーリーである。誰が聞いても腑に落ちる話しであり同情も禁じえないが、社会秩序の為にそのような行為は断固として認めるわけにはいかない、よって厳しく裁かなければならないということになる。日本の司法は、あるいは日本国民はそのような物語(動機)が好きなのである。しかし第三者には了解不可能な理由で、または理由もなくいきなり誰かを殺害したというような事件は、加害者の責任能力の有無以前に、権力が統治する市民生活の物語から大きく逸脱している不可解なるものに対して精緻であるべき法を適用することによって法(権力)が社会を捕縛する力が減退することを司法は何よりも恐れるのではないであろうか。刑法、心神喪失の本質は、加害者を人権上の観点から守るものではなく権力基盤の弱体化を防ぐためのものだと私は思う。だから精神鑑定などというようなものは、どこか茶番臭いのである。