日本人はいかにして生きていくべきなのか
ということで、日本の未来、行く末にとって極めて重要、重大なことでありながら、誰も言わないのであれば、私が言わなければならない。結論から言えば、日本は核兵器を保有すべきである。と、このようなことを言うと、返ってくる反応はある程度、予想できる。今のイランのような戦争状態になってしまうではないかと。破滅にしかならないと。だが、果たしてそうであろうか。日本は、西側諸国の立派な一員である。これまで世界各国に対して資金援助や技術供与などで多大な貢献をしてきているはずである。もちろん日本が西側諸国の同意なしに独走で核開発をして孤立状態に陥るようなことは、絶対にあってはならないことであるし、またあり得ないことである。それでは仮に日本政府が核兵器を持つことを主張するとすればどうなると思われるであろうか。いやその問いも、問い自体が答えを内在させている。ある日突然、唐突にそのような意向をG7などの国際会議の場で日本が言い出せば、気でも狂ったのかと嘲笑されるだけで全く相手にもされないであろう。当然、水面下で時間を掛けてじっくりと慎重に合意の根回しを進めていく必要性はある。それでも日本にその可能性が、つまり核兵器を持ち得る可能性が全く無いかと言えば、そうではないと思われる。それでは質問を変えて、日本が核兵器を持つ方向性に舵を切った場合に、どういう条件であれば、西側諸国は、NATO加盟各国は、いやアメリカは同意する可能性があると考えられるであろうか。アメリカさえ同意してくれれば後は何とでもなるように思われる。先に大前提として言っておかなければならないことは何のための日米同盟なのかということである。このような提案や交渉もできないような同盟などそもそも同盟関係でも何でもないものである。私が考えるに、日本が独自で核兵器を開発し、保有し得る唯一の条件は、核兵器使用の最終決定権を日本が放棄し、アメリカに完全に委ねるということである。そんなことをして何の意味があるのかと疑問を感じる人もいるかも知れないが、大いに意味はある。核兵器は他国からの戦争や侵略への抑止力になっていればよいのであって、使用の決定を誰がするかを分離して考える方が日本にとっては適切であり、またその姿勢が日本という国のある意味では特殊性であるとも言える。そもそも核兵器を実際に使用することなど独裁政治の国であっても、そうそう簡単に決定できることではない。ロシアのプーチン大統領でさえウクライナに侵攻した当初は、核兵器使用の命令を伝達する鞄を常に持ち歩いて今にも発射させるかのように威嚇していたが、今の状況を見ればその可能性は極めて低いと見れる。ましてや日本には100%無理であると言えるものであって、「所有すれども使用せず」は日本に相応しい核兵器との関わり方であると言えよう。そもそもウクライナも1991年のソ連からの分離独立時において、ソ連の核兵器を放棄せずに持ち続けていれば、現在のような地獄の状態を招いてはいないのである。トランプ大統領が、このような日本の提案にどう反応するのかはよくわからないが、仮に日本が核兵器を保有するとすれば、トランプ政権の今しかないし、千載一遇のチャンスであると言えよう。アメリカも大統領が代われば、考え、方向性が変わるかも知れないが、トランプ大統領は世界の警察を止めると言っているのである。莫大なコストが掛かり、アメリカの財政を圧迫させ、アメリカの軍人がアメリカとは直接的な関係のない、他所の地域の戦闘で血を流したり、命を落とすことは割に合わないと言っているのである。自分の国は自分で守れと言っているのである。地球を東半球と西半球に分割して、東側のアメリカ大陸とその周辺にしか責任を持てないと言っているのである。ならば日本がアメリカの同盟国としての立場から、アメリカに使用決定権を付与した核兵器を保有したとすれば、その抑止力からアジアに軍事的な均衡と安定をもたらし、アメリカはより一層の経済の繁栄を追求し得る土台となるではないか。現在の状態は、日本に米軍基地があるといっても、アメリカ本国とは太平洋を跨いで距離があり、中国の軍事的な暴走の危険性を考えると、とてもではないが、均衡や安定が保たれているとは言えないものである。アジア地域の安定のためにこそ日本に核兵器が必要なのである。それもアメリカの核兵器ではなく、日本が独自に開発し、管理することに意味がある。なぜなら最終的に、世界はどのように変化していくかわからないので、中国とアメリカが手を結び、米中の軍事的な対立構造が消滅してしまえば、日本はその狭間で極めて無防備かつ危険な状態に導かれる可能性があるからである。日本は米中両国に都合よく支配され、搾取されるだけの国家になり、究極的には日本という国家の名目上の存在意義すら否定される事態になるかも知れない。もうすでに今でさえ実質的にはそうなりかけているというのに。少なくともトランプ大統領の政治手法、ディールにはそういう危険性が含まれていることを我々日本人はもっと警戒する必要性がある。日本の存続のためには米中の最低限の軍事的な対立の図式は必要なのである。それを日本の政治家は、いまいち理解できていないように危惧される。日本が使用することを放棄する核兵器を持つようなことは、日本の国家としての独立性を棄損することになるのではないかという意見もあるかも知れないが、それに対していまさら何を言っているのだと言わざるを得ない。そもそも本当の意味での日本の独立など、これまでにもあり得なかったではないか。日本という国が抱えているの最大の問題とは何かお分かりであろうか。それは実質的に自主独立できていないにも関わらず、形式上だけでなく実質的にも完全な独立国家であるかのように国民に見せかけるための政治や報道に全てが終始していて、その矛盾や齟齬が国民生活や安全保障上の様々な問題を生み出しているというところにある。戦後のGHQがそのような日本統治の仕組みを構築したのであるが、戦後レジームからの脱却はトランプ政権の今しかない。理想論を言えば切りはないが、現実主義の観点に立てば、日本は米国からの軍事独立など絶対にあり得ないし、対等な軍事同盟とも到底、言えないものである。これからの時代は国家機能というものを分割して考える必要がある。日本は軍事的にはアメリカに全面的に従属しているべきであるし、それ以外の選択肢はない。軍事の独立を完全に放棄することによって、政治や経済分野において自主独立への可能性の芽が出てくるということだ。これまでの日本は虚構に縋り付いていたせいで、全てがない交ぜ状態で外部圧力からのコントロールを受けざるを得ない状態にあったと見れる。核兵器だけの問題ではない。注目を集めるだけの極論のように思われるかも知れないが、そうではなくて本気で思うところだが、日本に自衛隊は不要である。どういう意味が、何が言いたいのか、お分かりであろうか。不要という意味は、自衛隊は米軍に移管されて、吸収合併されるべきであるということだ。企業間における部門吸収のように、日本の自衛隊は米軍のアジア極東支部になればよい。自衛隊が保有する全ての武器や情報、人員を全て無償で米軍に供与すべきである。これがどのような効果をもたらすか分かるであろうか。効果というよりも日本の全ての問題が瞬時に解決するとも言えよう。日本に軍隊はなくなるのであるから、憲法9条の解釈上の問題も、集団的自衛権の在り方の議論もなくなる。戦後の日本が延々として繰り返してきた神学論争のような不毛で生産性のない対立の図式から解放されるのである、朝日新聞も共産党も立憲民主党も社民党も何も文句は言えないくなるであろう。日本の軍部は消滅して、全ては米軍になるのであるから批判のしようがない。面白いではないか。いやそんなことになれば、台湾有事の際に日本の自衛隊は、アメリカから使い捨ての駒のように出動を命じられて、多数の日本人兵士の人命が犠牲になるだけだと思われる人もいるであろうが、私はそうは考えない。なぜなら自衛隊が米軍の下部組織なり、一支部になれば、当然米軍から兵士や幹部が自衛隊に出向してくることになるであろうから、自衛隊員を消耗品のように扱うことは考え難いということと、そもそもアメリカはかつてのベトナム戦争のように泥沼の地上戦の戦いをやらなくなっている。だから自衛隊は、日本の軍事組織であるよりも、米軍に吸収された方が何よりも安全であるし、強力になるし、日本の様々な矛盾や束縛も雲散霧消することになるので、何も悪いところはないはずである。その上で先にも述べた通り、日本が核兵器を保有すれことになれば、沖縄の基地問題も解決に向かうであろうし、いわゆる思いやり予算というものも大幅に削減することになるであろう。今の日中の緊張状態も、結局のところ軍事力のバランスが取れていないのに、無理やり経済だけを優先させて、見せかけの友好関係を樹立させようとする姿勢が、そもそもの間違いとというか問題の根源であると言えるものである。話しが逸れるが、ウクライナのロシアとの戦い方を見て、日本のリベラル、護憲派の人々は心が痛まないのであろうか。恐らくはそういう人々は本質的な部分では何も考えていないのであろうし、頭の中で具体的に想像する能力もないのであろう。ウクライナのロシアに対する戦い方こそが、日本の憲法が自衛隊の在り方として規定する専守防衛のようなものである。もっぱら自国の領土を守るだけで、長距離ミサイルでロシア本国を攻撃することもNATO諸国から許されていない。日々、多くの若者が死んでいくだけの地獄の消耗戦である。もちろんロシアの兵士もウクライナ同様に、あるいはそれ以上に消失しているのであろうが、攻め込んでいる側(ロシア)は、その地域での戦闘が劣勢になれば、一旦、本国の安全地帯に退避して、仕切り直しをすることが可能だが、攻め込まれているウクライナは、逃げていくべき安全地帯がない。東側から西側にロシアの領土を拡げられていくだけであり、後退は兵士の死や国土の割譲を意味するものでしかない。その精神的な苦しさや戦い続けることのモチベーションを維持することの難しさというものは、攻める側と守る側では雲泥の差があると思われるが、戦争における「専守防衛」の理念など本当に何の意味もないと言えよう。そのような訳の分からない憲法の条文に縛られるのであれば、自衛隊は米軍に移管されるべきなのである。もちろんこのようなディール(取引)に対して、トランプ大統領がどのように考えるかわからないが、もちろん交渉してみる価値はあるのではなかろうか。それが政治というものの本来の在り方ではないのか。それからマスコミの言うことなど、私は相手にする必要性はないと思っている。マスコミは特にオールドメディアは彼らにとっての都合の良い自説やイデオロギーを主張し続ける立場や地位、影響力を既得権益として頑なに守っているだけで、本当にその主張内容が今の世界や日本の状況に合致していて、そこに普遍的な正義や価値があると、心の底から信じ込んでいるかどうかは別問題なのである。純粋に世界に向き合っているのではなくて、そう主張する自分のプライドと自分の後ろ盾(組織)を守っているだけなのである。たとえば朝日新聞の記者が何らかの理由で朝日新聞社を退職すれば、2,3日後はともかくも1年ぐらい経過すれば恐らく考えが変わるであろうし、共産党の政治家が共産党を離党しても、程度の差はあれど同じようなものだと思われる。もちろん読売も産経も同じなのであろうが、左派とかリベラルのイデオロギーの特質は、世界や世の中が実際にどうであるかというよりも、その世界をどのように見做し、解釈するかということの考え自体やそれを主張するところの自分自身や組織に価値を置く、要するに自己反省や内省のない思想なのであって、今のように、世界のパラダイムが転換してゆく変動期や戦争や有事の際には、そういう性質のイデオロギーなり攻撃的言論が社会に与える負荷が大きいということが重大な弊害であると私は常々、考えている。それから最後に誤解のないように言っておかなければならないが、私は何もアメリカが全面的に信用できる偉大な国家であるなどと思っているわけではない。これまでの歴史を振り返って見ても、戦争の原因を自ら作って、戦争を仕掛けてばかりいる陰謀国家であることは間違いない。太平洋戦争末期においても日本が降伏しているにも関わらず原爆を投下しているのだから、野蛮で暴力的な国であるとも言える。今のイランに対する攻撃もやり過ぎだという人も多いであろう。それでもアメリカは政治的自由というものが確かにあり、自由の女神像の如く世界を照らしていることも事実である。アメリカはその自由の理念によって自ら変わり得る国であり、またその自由の価値を守るために戦う国でもある。我々日本も西側諸国の一因として、一義的に何の価値を守るべきかといえばやはり独裁による弾圧ではない個人の自由や人権なのではないかと私は考えるものである。ロシアや中国、イランなどには政治の自由というものや人権を守る価値というものがないではないか。そういう意味で、私は決して内部的に変わり得ないロシアや中国と戦略的互恵などという体裁のよい言葉で飾り立てながら、必要以上の友好関係を構築しようとする政治家を信用できないし、危険だとも考えている。まあそういうことで、確かに考えは人それぞれであって、もちろん自由主義の観念は、独裁政治の国家を擁護したり、共産主義の理念を賞賛する自由も包含するのであり、それらを総合しての自由民主主義であるべきことは言うまでもないことであるが、私が言いたいことは一口に自由と言っても、何でもかんでも一つの鍋に放り込むように自由の具材を入れて、ことことと煮込んでも碌な料理にはならないということである。自由には規律と責任が必要である。社会の事を何も知らない小学生の自由や、狂人や犯罪者の考える自由というものを社会的な規範に組み込まれるべきではないのと同様に、オールドメディアの権威主義的な論調や影響力も、その自由の観念が情報操作によって彼らに都合の良い方向に誘導されたり、制限されたり、色付けされるという意味合いにおいては、決して報道の自由などではなくて単なる社会の弊害に過ぎない。今回、私が述べたことは、前回の記事で述べたように、TVや新聞の情報を拠り所にしていれば、絶対にたどり着けないであろう日本の国家が向き合うべき最適解の一例なのである。自由にはコストもかかるし、余力も必要である。だから自由は大切であるが、自由の乱費や誘導は大きな問題だ。今、我々日本人は自分たちの生命や財産を守るための最適解を絶えず見つけていかなければ、生き残ってはいけないのである。その最適解はAIに聞いても正しい答えは返ってこないであろう。AIに聞いている時点で奴隷である。人間が、日本人一人一人が考えなければならないことである。そういうことだ。それが私の言いたいことである。
(吉川 玲)
腐った情報の中を生きる苦難について
ということで、何から言おうか。何でもいいのだけれど、ところで皆さんは、キムタクこと木村拓哉さんが実は背が低いということをご存知でしょうか、というかそういう認識をこれまで持っていたであろうか。お笑いタレントの粗品が少し前に吹聴していたことであるが。そのキムタクの身長の話しを、私が週に1回通っている鍼灸院で話したところ、そこの鍼灸師が以前に友人から聞いた話しで、ダウンタウンの松本人志さんをどこかの場所で初めて実際に見たところ、思っていたよりもかなり背が低かったとのことで、「まっちゃん、見たら小さかったで」と聞かされたとのことであった。相方の浜田雅功さんがさらに背が低いので、そういうイメージが世間一般にないのではということである。今ではほとんどTVを見ない私でもさすがにキムタクやダウンタウンのまっちゃんはこれまでに何度もTVで見ているが、どちらも背が低いという印象なり認識を持ったことは一度もなかった。まあ、興味がないからどうでもよいと言ってしまえばそれまでであるが。ということで、私が何を言いたいのかおわかりであろうか。この段階でわかった人は、素晴らしい勘の持ち主であると思われる。そういう人々の感覚なり知性が新しい日本を作る原動力となるのであろう。私が言いたいこととは、TVは信用ならないということである。言うまでもないことだが、身長というあまりにも即物的かつ比較可能で、本来、誰の目にも明らかであって、誤魔化しようがないはずのことが、TVというフィルターを通すとカメラが映す角度や背景によって、実際のところがどうなのかよくわからないのである。だから要するにタレントの身長ですら、そのようにはっきりとしないのであるから、即物的な現実ではない、抽象的な物ごとの善悪であるとか、何らかの価値判断や正当性などについて、TV情報を拠り所としていては、社会や人生の最適解にたどり着ける訳がないのである。具体的に例を挙げれば、あまりにも程度が低くて言うのも憚られるが、衆院選前の各政党を毎日放送(MBSテレビ)が分類分けして、自民、維新、参政を「強くてこわい日本」とし、中道、国民民主、共産、れいわを「優しくて穏やかな日本」と報道したのである。今こうして書いていても笑ってしまいそうになるのであるが、私は最初にこの情報を知った時に、何かのTVのバラエティー番組でタレントが自分の印象を述べたものであろうと思って、それほどめくじらを立てるほどのことではないと考えていたが、何と信じ難いことに選挙の特集番組で述べられたということで本当に心底、呆れてしまった。小学生を相手に説明するような稚拙なレッテル貼りで、国民を馬鹿にするにも程があるのではないか、マスコミは一体、何を考えているのかと、何とも言えない不快な気持ちになったが、さすがに国民からの批判が集まって、それに対する毎日放送の言い訳が、こわい日本という表現は不適切であったが、正しくは手ごわい日本だと釈明したことということで、何だ、これは、やはりバラエティー番組だったのかと腹が立つ以前におかしくなってきたのであった。その言い訳ではっきりしたことは、マスコミは、いや毎日放送は国民を馬鹿にしているのではなくて、彼ら自体の政治に対する見立てがそもそもそのレベルなのであり、まさに小学生程度の幼児性とさほど距離感のあるものではないということである。いや、もう本当に言葉がない。小学生の描いた強くてこわい日本と優しくて穏やかな日本の図工の絵が幾通りも頭に浮かんできて離れてくれない。悲惨なのはテレビだけではない。多少の程度の差はあれど、新聞も同じである。これもまた腹が立つというよりも憂鬱になるほど稚拙な記事内容であるが、自らの精神の健全性を保つために無視することはできない。誰かが問題視して、言わなければならないことだ。2月16日(月)の朝日新聞朝刊に衆院選の結果を受けて朝日新聞社が世論調査を実施したところ、自民党が単独で定数議席の3分の2以上を獲得したことについて、「多すぎる」という見方が62%を占めたということであった。いやいや、こういう調査を皆さんはどのように感じられるであろうか。私は前にも述べた通り、自民党が素晴らしい政党などとは全く思っていないですよ。素晴らしいどころか、腐り切っているよ。しかしそれでも国民全体の民意を問うた、神聖かどうかはわからないが選挙結果に対して、多すぎるとか、ちょうどよい、少なすぎるなどというような選択肢の調査をすることに何の意味があるのか。何のための選挙なのか。国民の判断にケチをつけているだけではないか。自民の議席が多すぎるという解答が62%で、「国論を二分するような大胆な政策」を進めることについては「慎重に進めるほうがよい」が全体の63%であるということだ。この世論誘導は、毎日放送の強くてこわい日本のレッテル貼りと五十歩百歩だと思われないであろうか。といっても我々の身の回りはこのようなレベルの報道ばかりなので、それが当たり前のように、信号の赤、黄、緑のライトの如く日常化してしまっているので何を言っても、最早、如何ともし難いものではあるが。だがやはりこれだけ情報や報道の質が稚拙で、質が低いと国民の良心として声を挙げざるを得ない。民放だけでなくNHKも同様である。いや、NHKが最も悪質であるとも言える。一つ例を挙げれば、今からもう何年か前のことであるが、コロナ感染が原因とされる死者数とワクチン接種による死者数を合算して、その区別がつかないように報道したものである。確か私の記憶では放送倫理違反のBPO案件にもなっていたと思われるが、私が知るところではTVでその問題について報道されたことはなかったように思えるし、新聞ではごく小さな扱いで記事が載せられただけであった。何よりもその問題に対するNHK側の弁明がふるっていた。それは広義の意味においては、コロナ罹患もワクチン接種による被害も、コロナ感染症という括りにおいては同一なので、敢えて区別せずに合算したということであった。皆さんはどう思われますか。何だ、それはと憤りを感じられないであろうか。情報が、権威的な報道内容が幼児的なまでに劣化し、国民が日常を生きていく上での、国家を向上させていくことへの毒素にしかなっていないのである。我々日本人は、腐り切ったどろどろの水槽の水中を無意味に泳がされている金魚のようなものである。消費税云々だけではなく、それ以前の問題なのだ。息苦しくて当然なのだ。生き苦しいのだ。ああ、本当に耐え難い。誰か、誰か、助けてくれ。
(吉川 玲)
立憲民主党議員消滅の検証
ということで、終わってみれば一人でこっそりと祝杯を挙げたくなるような結果の選挙であった。いやいや、もちろん自民党が素晴らしい政党であるなどとは1mmも1gも思っていないし、むしろ腐り切っていると言えるものである。また高市総理もどれだけのことが任期中にできるか未知数ではあるが、それ以上に日本の不幸の根源であり、災厄をもたらす要因にしかなっていないにも関わらず、何の悪びれたところもなく、反省の意を全く示そうとしない立憲民主党に完膚なきまでに正義の鉄槌がくだされたことがあまりにも痛快とでもいうか、ちょっと大袈裟にいえばこれまで生きていて良かったと思えるほどであった。日本の国民は馬鹿ではないし、選挙の結果というものには、国民の声の集積という以上に、何かしら尊い人知を超えた審判が示されているようにすら感じられる。立憲民主党の議員には改悛の情もなけれえば、更生の見込みも全くないので、この調子で参議院も地方議員も徹底して駆除していくことこそが、日本の再生と独立に不可欠であると言えるであろう。ということで、今回の立憲民主党の選挙結果を数字で具体的に検証してみることにしよう。中道の獲得議席は49人で、その内28人が公明党で残りの21人が立憲民主党となる。公明党の28人は比例代表で候補者の全てが当選していて、前回選挙時の24人からむしろ4人増やしている。立憲民主の21人の内訳は、小選挙区が7人のみの当選で、残りの14人が比例復活当選である。中道に合流した立憲民主144人が21人になったのだから、8割減以上ということで、特に小選挙区が7人ということは、ほぼ全滅といってもいいような惨状である。何が言いたいのかと言えば、公明党は負けていないのである。私が以前にも予想していた通りの結果となったが、24人が49人へと倍増しているのだから、これは大躍進といってもいいものだ。中道とは政党名を変更した公明党であるのだからそういうことになる。公明党は本当にしたたかというのか、立憲民主がどうしようもないほどに間抜けというべきなのか。公明党の斉藤鉄夫代表は、テレビカメラの前では沈鬱な表情で自らの進退について腹を決めているなどと述べているが、カメラのないところではにこやかにほくそ笑んでいるように思えてならない。今回の選挙は公明党の作戦通りであると見れる。小選挙区の立憲民主党候補者に対して、創価学会が誰を当選させて、誰を落選させるかという生殺与奪の決定権を完全に掌握していたことが今回の選挙の特徴であった。前にも言ったことだが、立憲民主党系の議員が当選し過ぎるのも中道(公明)にとっては、喜ばしい事態ではないのだ。なぜなら公明党とは、これも前に述べたことだが二大政党制の一翼を担うことを目標とする政党ではないのである。陰でというと言葉が悪いかもしれないが、第三の勢力としてキャスティングボードを握り、政局をコントロールすることが日本の政界における役割であり、何でその位置づけに拘るのかと言えば、それはやはり背後に中国の存在があって、中国の日本に対する介入や侵食を国民の目に目立たないように静かに推し進める必要があるからだと考えられる。それで私が考えるにということであるが、立憲民主党はそもそも自民党から政権を奪取して、安定した日本の第一政党になり得る存在であると中国は考えていないし、罷り間違って2009年選挙の民主党政権のように、立憲民主党政権が誕生するような事態になると、公明党とは違って立憲民主党の議員は中国に対する態度を変えるのではないかと、つまり親中国の政治姿勢を権力を握った時点で転換させる可能性が高いと中国が考えているのであろう。要するに心の底から信用していないということである。立憲民主党の議員はわざわざ訪中して、何らかの覚書まで取り交したりしてきたようだが、中国の政治家も馬鹿ではないので、立憲民主党の連中は政権奪取のためには何でもありで、中国の反日圧力を利用して高市政権潰しをしているが、いざ与党になった時には必ずしも中国の言う通りにならないだけでなく、反目する存在になり得ることをよくわかっているのである。公明党と立憲民主党では大雑把に親中勢力といっても、その染まり具合の濃淡に大きな差があるであろうということだ。だから公明党は、いや創価学会は必要以上に立憲民主党を勝たせる訳にはいかないのである。1足す1が2になって、立憲民主の144人がそのまま横流しに中道で当選すると、数の論理で公明党が立憲民主に飲み込まれてしまうことになるし、背後の中国にとっても、信用できない連中に勝たせることは将来的な脅威の種となるからである。中国の思惑とすれば、あくまでも中国に都合の良い、操縦可能な日本の政党や政治家、そしてそれらを総合した政治力学を維持したいと考えているであろうということだ。立憲民主の有力議員であった、小沢一郎や岡田克也、枝野幸男、安住淳などが揃って落選したのも恐らくはそういうことで、創価学会としても中道を内側からかき乱す可能性のある人間には小選挙区で名前を書きたくないと考える人間が一定の割合で存在したのであろうし、またそういう事情でそこまで強く立憲民主党の候補者の名前を書くことを推奨されていた訳ではなかったと考えられる。代表の野田佳彦は辛うじて当選したが、それは彼が最も公明党の色合いに染まりやすいというか、創価学会の折伏にも素直に応じるような雰囲気を持っていたからではなかろうか。要するに中身がないということである。しかし政治生命を掛けるなどと言っていたのだから代表から外れるだけでなく、政治家を辞職すべきである。ここでもまた平気で嘘をつくのか。ということで中国はこれほど深く日本の政治に入り込んでしまっているのである。これは本当に恐ろしいことである。立憲民主党の連中は本当に愚かであり、自分たちのことしか考えていないから近視眼的で、日本の政治の全体像がよく見えていないのである。人間の愚かさとはどういうものかを1枚の絵にしたような立憲民主党の転落劇であった。一方で公明党、創価学会の選挙をコントロールする能力は凄いものであるが、今回の選挙結果で唯一の誤算は自民党が勝ち過ぎたことである。自民党が単独で3分の2も獲得してしまえば、もう中道は連立与党に戻る余地はなくなったということで、それは中国にとっても都合の悪いことである。さすがの選挙のプロ集団もそこまでは読めなかったということであろうか。
(吉川 玲)