龍のひげのブログ -6ページ目

何で鉛筆でなければならないのか。

ということで、身体全体が凍える寒い一日であったが、投票に行って来て、どうでもよいことであるが、いや全然、どうでもよくはないが、個人的な長年の選挙の投票に関する疑問を、ある行動でもって試してみることにした。それは何かと言えば、先ず疑問とは、何で投票用紙への記入が未だに鉛筆なのかということである。投票に行く全ての日本人は、当たり前のように投票所に用意されている鉛筆で何の疑問もなく書く。確かに鉛筆は、ボールペンよりも安い。コスト面だけを考えれば、安い方にすべきだという理屈は成り立つ。しかし果たしてそういう問題か。日本の政治や選挙に一体、いかほどの税金が投じられているというのか。その全体の規模から考えれば、鉛筆とボールペンの価格差など取るに足らないことではないのか。区役所や市役所に住民票などの申請用紙記入に用意されている筆記具は、鉛筆ではなくボールペンである。おかしいとは思わないであろうか。何も私は消しゴムで消して、書き換えの不正が行われていると主張するつもりはない。しかし、そうし得る可能性の余地があることは、鉛筆とボールペンの価格差など、民主主義の健全性を守るという観点とその価値から考えれば、無視すべき程度のことではないのか。仮に私が比例代表の政党名で共産党と記入して、それが自民党にカウントされたり、その反対であったりすることは、恐らくはないとは思われるが、100%絶対にないと言い切れるかと言えば、それをどう考えるかということが畢竟するところの、その国の政治のレベルだと思うのである。というよりもそれが全てではないかというような気もする。いつまでも純粋無垢な性善説に則って政治や日本の支配体制に向き合っていてよいものなのだろうか。たとえば警察官が嘘をつくはずがないとか、証拠を捏造するなど考えられないとか、学校の教師が生徒に対して劣情を催してわいせつ行為や盗撮などを行うことなど考えられないなどと言えればよいが、実際の現実はそうではない。司法判決の独立性についても同様である。何でこんな時代の投票用紙の記入が鉛筆であることに疑問を持つことが、根拠のない陰謀論者などと蔑まれて、排除されなければならないのか。アメリカにおける2020年の大統領選挙において、トランプ大統領が主張するように不正が行われたのかどうかについてはわからない。しかし仮にそうではなくとも、不正があったと、そう主張し続ける人間が、今のアメリカの大統領であること自体が、中国やロシアのような独裁政治ではない民主政治の価値を体現しているとも言えなくないのではないのか。ということで、今日、私はほんのささやかな勇気を振り絞って、自宅から愛用のボールペンを持参して投票に行ったのであった。それで投票所に入ってすぐに、係員の女性が、「案内状をお持ちですか」と聞いてきたので、私は「ちょっと聞きたいことがあるのですが、家からボールペンを持ってきたのですが、それで書いても有効ですか。」と聞いた。さて、考えてください。どんな返答がなされたと思いますか。答えは、驚くべきことに、「こちらでは鉛筆で書いてもらわなければならないことになっています。」と拒否されたのであった。面白くなってきた。私はその場で議論するつもりなど毛頭なかったが、「何でボールペンではダメなのですか。」と一応は聞いてみた。そうするとその女性は、ちょっとお待ちくださいと言って、その場を離れ、奥にいる誰かに聞きに行ったのであった。そうして間もなくすると、小走りで女性は私の元に戻ってきて、「すみません、ボールペンでも良いとのことです。」ということであった。そういうことで私は、生まれて初めて選挙の投票に全てボールペンで記入したのであった。さて皆さんは私のこのような行為についてどのように思われるであろうか。私は、アポロ11号のニール・アームストロング船長の言葉ではないが、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては、(日本の真の民主主義の実現のためには)、偉大な飛躍だ。」と自画自賛するものである。今日の選挙において、日本国内において数千万人の人間が投票所に行ったであろうが、果たしてその内の何人の人間が、投票所にある鉛筆ではなく、持参のボールペンで記入したのであろうか。下手をすると、私一人であるかも知れない。ということは私は数千万人の中の僅か一人というほどの、宝くじの一等の当選確率にも及ばないほどの希少、貴重な、それこそ偉大な飛躍を果たした人間であるということだ。もちろんこれは自慢しているのではなくて、嫌味を言っているのだ、それほどまでに日本の国民は、権威に対して従順というか盲目なのである。詐欺被害に遭う人間が多いのも当然である。寒い日に凍えながら投票所に赴いて、候補者名や政党名を書く以前の問題なのだ。そういうことなのだ。奴隷には奴隷に相応しい幸福しか用意されていないということである。何か文句、あるか。

(吉川 玲)

何で今、選挙なのか。

ということで、今、何で選挙なのかと批判するのも民主主義的な形式に沿った一つの主張なのかも知れないが、そもそもの事の発端は、何なのかということだ。大衆は忘れっぽいので、もう記憶が薄らいできている人もいるのであろうが、11月7日の衆院予算員会にて立憲民主党の岡田克也氏が高市早苗首相に対して、台湾有事における存立危機事態認定の具体的な要件について執拗に問いただし、それが元で中国政府の日本に対する過激な内政干渉や嫌がらせが相次いだ。今から僅か3か月前のことである。旧立憲民主党や岡田氏は認めないであろうが、誰が考えてもその一連のイベントは、日本にとって極めて重要な政策実施を行おうとする高市政権の姿勢を否定し、引きずり降ろすためのシナリオから発生したものであった。よって高市首相にとっては、岡田氏の質問に答えたもので、自らが積極的に主張したものではないのであるが、これほどまでに、日本に混乱と騒動を自身の発言で引き起こしたことは事実なのであるから、一つのけじめとして自身が日本の政治トップとして相応しいのかどうかを国民に問うことは政治の流れとしては当然である。つまり衆院解散選挙を実施せざるを得ない状況を作ったのは、なりふり構わず高市政権潰しに邁進した岡田克也氏と旧立憲民主党なのである。それが、自分たちで仕向けたことであるのに、いざ選挙となると旧立憲民主党はパニック状態に陥り、あたふたと悪あがきをして公明党の傘下に陥り、それだけではなく、日本に中国との対立機運を顕在化させたそもそもの原因である安全保障上の安保関連法についての解釈を変節させてしまったものである。いやいや、その主張を変更させてしまっては、選挙の実施も何も、中国の内政干渉も全ての出来事は、旧立憲民主党や岡田克也氏の一貫性のない倒錯した一人芝居で、日本全体が結果的に振り回されてしまっているということになるではないか。政治というものは、日本は専制政治ではなく一応は民主政治ということになっているのだから、そこまでの暴挙や整合性の無さというものが許容されるべきなのであろうか。岡田氏や旧立憲民主党は自民党を批判するよりもまずその点に対して国民に対してきちんと説明すべき責任があるのではないのか。何で最近は岡田克也氏がマスコミの表舞台に出てこなくなったのか。台湾有事に関して言えば、自国が直接、攻撃されていないにも関わらず、米国などの密接な関係にある外国を実力で守る集団的自衛権は、自衛のための最小限の範囲を超えているゆえに憲法違反であり、違憲だということが従来の立憲民主党の立場であった。その集団的自衛権の行使容認が、日本の存立危機事態における武力行使の要件拡大になるとの懸念から、岡田克也氏の高市首相に対する追求があって、それに呼応するかのように中国の日本に対する過激な反応が呼び起され、その流れで今、選挙を迎えているのである。その元々の発端となる事柄に対して、安保関連法が今更、合憲だ、違憲部分はないなどと言うのであれば、何で今、選挙なのかなどと泣き言を言う以前に、そういう政治的な道理も節操も完膚なきまでに一切ない、何でもありの旧立憲民主党のような集団が、日本の諸悪の根源であり、大本であることを先ず認めて、謝罪すべきことが、選挙に臨む筋道ではないのかと言わざるを得ない。こういうような旧立憲民主党の低劣な連中を見ていると、昔、子供のころに読んだある童話を思い出す。蛇が空腹のあまり、自分の尻尾の先を加えて食べ始めたのである。そして頭と尻尾の先が繋がった輪は、次第に小さくなっていって、ついには消えてしまったのである。今まで確かに存在していたはずの蛇は一体どこに消えてしまったのか。さあ岡田氏を初め、旧立憲民主党の皆さん、蛇の如き何でも飲み込むその貪欲な頭でよく考えてみてください。爬虫類相手には何を言っても無駄なのであろうが。

(吉川 玲)

中道改革連合結成の真の目的について

なるほど、そういうことか。これから述べることは、私の一推測ではあるが、日本の将来にとって非常に重要なことなので、心して熟考して頂きたいと思う。公明党の考えていることが見えてきた。公明党は中々したたかな政党である。恐らくは次の衆院選で、公明党は、いや中道改革連合は、大勝することを予想していないし、また望んでもいない。適正規模で勝つというか、適正規模の議席数を獲得することを考えているのである。どういうことかと言えば、現有議席数で見れば、立憲民主党が148で、公明党が24である。中道はいまさら説明するまでもなく、公明党が実質的に実権を掌握する、立憲民主党との合体新党であるが、仮に立憲民主の148と公明の24が中道にスライドするように当選するとどうなるかと言えば、単純に数の論理で公明色が薄まってしまうということと、立憲民主議員の反乱、謀反やそれらの予兆などで党の一体感や統制を維持することが難しくなるであろうことは目に見えているということだ。そもそも公明党は、宗教との関連だけではなくちょっと変わった政党で、共産党も同じなのかも知れないが、選挙ごとにどんどん議席数を増やしていって、最終的に単独での過半数越えの政権奪取を目指すようなことを考えていないし、そういう方向性の戦略での運営を採用していないということだ。つまり2大政党の一翼を担う政党になろうという目的を持っていないというか、端から放棄しているのである。それは公明が中道に変わっても同じだと私は思うのである。その点において立憲民主党の目的や戦略と大きくかけ離れている。立憲民主は言うまでもなく単独で過半数を取って、政権奪取することしか考えていない。それならば公明党の、そして新党中道の真の政治目的とは何なのかということである。お分かりであろうか。恐らく公明党は、打倒自民党を考えている訳ではない。目指していることは、打倒高市政権なのである。言い換えれば、打倒保守であり、打倒反中国なのである。立憲民主との連合は、その目的のための一時的な戦略なのであって、中道という新党を政界再編で自民党と拮抗する一大勢力にしていこうとしているわけではない。本当の目的は親中国のための、ふるい分けにより結集した新たな受け皿なのではないかと私は考える。立憲民主党の議員は総じて親中国なのかも知れないが、基本的には節操のない当選さえすればよいと何でもありの連中なので、当然ながら親中国といっても濃淡はある。だからそのための選挙を利用したふるい分けであって、現有の148人が何でもかんでもスライドして当選して、数の論理で中道内部をかき回されても困るということなのであろう。それでは適正規模とはどの程度の数なのかと言えば、よくわからないがせいぜい50から60ぐらいではないのか。公明党が現有の24から仮に中道で50になったとしても大躍進である。肝心なことはその50なら50議席が、濃度の濃い親中国であるということだ。残りの立憲民主党議員は切り捨てである。それでその次の戦略は、高市政権後に再度、自民党と中道(公明)が連立を組み、日本の政治から反中国の保守を排除して、これまで以上に日本を中国化させるシナリオだと考えられる。そう考えれば、高市内閣成立後に公明党が突如として連立離脱した不自然な流れも全て辻褄が合うということである。ということで言うまでもなく、公明党と中道改革連合の背後には中国共産党の思惑と指示がある。そういうことだ。

(吉川 玲)