日本を滅ぼす日本内部の敵
ということで、改めて岡田克也氏が国会で高市総理の存立危機事態に関する発言を問題視し、追究する姿勢が妥当で、適切なものであったのかどうか、本当に高市総理の説明が、一線を越えた「踏み込んだ」もので危険であったのかどうかについて考察したい。先ず多くの人に、一旦、憲法9条や集団的自衛権の定義から離れて、日本の現状を直視し、認識していただきたいと思う。言うまでもないことだが、日本は近隣国の中国やロシアから頻繁に領空、領海侵犯の挑発行為を受けている。立場が反対であれば、撃墜、撃沈されていてもおかしくないような状態が日常化しているものである。日本は中国やロシアが明確に一線を踏み越えるような軍事行為をしてきても全く手出しが出来ていないものである。民主党政権の時に発生した中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突させて拿捕することになった事件においても、日本は中国を刺激させずに穏便にことを収束させようとして、漁船の船長を早期に不起訴処分にして釈放し、帰国させている。誠に嘆かわしいことではあるが、日本は外的な脅威というものに対して一貫して弱腰で事なかれ主義なのである。そのような国が、台湾有事が発生した時に、自国の領土が侵攻された訳でもないのに、一夜にして変身して、勇ましく中国に軍事攻撃を仕掛けるようなことになり得るであろうかということである。どう考えてもあり得ないであろう。0%である。しかし近隣の地域が戦争状態になれば、日本はどのような形で戦争に巻き込まれることになるかもわからない。具体的、個別に日本の対応をシミュレーションとして想定することは不可能であるし、また意味がないと思われるものである。なぜなら日本が仮に独自に有事の軍事マニュアルのようなものを作成したとしても、その時になってみなければ、たとえば米軍の支援要請がどのようなものになるのかとか、アメリカと中国とのその時点における関係性や国連の反応や意向などに大きく影響されることになることは明らかであって、一口に台湾有事と言っても、日本が独自の判断で率先して、間違っても勇猛果敢に軍事攻撃できないであろうということは明白であるはずである。それが果たして正しいのか、間違っているかは別にしてである。しかし一国の安全保障上の危機管理の在り方とすれば、有事への巻き込まれ方によっては、日本の艦船が砲撃を受けたり、沖縄が侵攻されたりする可能性もある訳であるから、高市総理はケースによっては存立危機事態になり得ると答弁しているのであって、曖昧にして日本が武力行使し得る範囲を拡げていると批判する岡田克也氏の指摘は、全く的を射ていないし、転倒しているものである。岡田氏が要求する、日本の軍事攻撃が許容されるケースの「明確化」ということが無理難題なのであって、むしろ反対に明確化すべきではないのである。一旦明確化してしまえば、その時の事態や状況が事前の想定にそぐわないものになっていたとしても、その時の現実に対応できなくなってしまうからである。岡田氏の追及は日本が有事に柔軟に対応できないよう縛りを掛けるための悪質な難癖に過ぎないものである。そもそも憲法や法律というものは一言一句、杓子定規に厳密に運用されているものではない。解釈の余地を残すグレーゾーンというものが存在するのである。車のハンドルと同じで遊びの部分がなければ危険だからだ。グレーゾーンどころか、抵触しているものさえある。たとえば刑法訴訟法第475条においては死刑制度について、死刑が確定したものは法務大臣は確定後6か月以内に刑の執行を命令しなければならないことになっているが、実際にはそうはなっていない。法務省は6か月以内の執行は法的拘束力のない訓示規定だなどと都合よく法律の条文を解釈しているが、訓示と法律が併存していることが矛盾なのである。しかし国会議員の誰一人としてこの矛盾を指摘したり、批判する者はいない。本来であれば、法律を明確化させることが政治家の役割であるならば、法律の条文を変えるか、死刑制度を廃止させるべきである。しかし現状では日本の政治は、法令や運用に関して多く解釈の余地やグレーゾーンというものを意図的に残しているものである。それでは何で憲法9条だけが例外なのかといえば、それは憲法9条の規定は終戦直後にGHQによって押し付けられたものであるからである。他国を日本の軍事進撃から守るものであって、日本を他国から守るためのものではないということである。そういうような80年前の考えが未だに残っていることが大問題なのであるが、今日においてはその憲法を日本に押し付けた米国ではなくて、日本国内の立憲民主党のような政党や朝日新聞などの左派の言論がその時代錯誤の現実にそぐわない、180度転倒した論理で作為的に日本に混乱をもたらし、国難を作り出しているものである。日本の敵は日本の内側に存在しているのである。まずはそこからきちんと排除していかなければ、今後とも同じようなことは延々と繰り返されるのであろう。
(吉川 玲)