龍のひげのブログ -3ページ目

恫喝政治の中国と親交を図るべきなのか

ということで、最近私が読んだ本の『ウクライナ企業の死闘』(著者 松原美穂子 産経新聞出版)の内容について簡単に紹介すると、2022年2月のロシアによる軍事侵攻以降、ウクライナの電力・エネルギー、通信、金融、運輸など各分野の重要インフラ企業人たちがいかにその危機に立ち向かい、命懸けで国家的なレジリエンスを維持しているかについて具体的に書かれたものであるが、最終章が「ウクライナの教訓と台湾有事」となっていてその中に看過できない内容があったのだが、これは到底、自分の胸の中だけに治められないことであると、少しでも拡散して日本国民全体で考え、対処しなければならないと思い至ったという次第である。

台湾の抱える国防問題について述べられている229Pから引用する。

読売新聞と公益財団法人「国家基本問題研究所」が共同で衛星画像分析したところ、人民解放軍が所管する訓練場に台湾の模擬総統府が少なくとも2014年から存在していることが判明した。総統個人を標的として攻撃する斬首作戦の訓練に使われているとみられるにもかかわらず、総統府の警備担当に中国のスパイが浸透しているのは極めて憂慮すべき事態だ。

さてこの一文を読んで、私が言いたいことがお分かりであろうか。言うまでもないことだと思われるが、斬首作戦という文言である。高市総理の台湾有事が日本の「存立危機事態」になり得るという答弁に対して、中国の大阪総領事が「汚い首は斬ってやるしかない」とXに投稿した表現は、その場の適当な思い付きから発せられたものではなくて、実際に台湾総統に対する斬首作戦というものが存在していることから使われたものなのである。日本の総理が台湾有事について台湾側の立場に立って敵対的な発言をするのであれば、お前も台湾総統と同様に斬首作戦の対象にするぞと脅しているのであって、これは単なる一領事の言葉の問題ではない。中国という国家の軍事作戦から出てきているものなので非常に深刻で憂慮すべきことである。現実に将来的にその作戦が実施される可能性のある中国のその斬首作戦について、日本の政治家は、特に国会議員はどの程度、知っているのであろうか。いわゆる親中派と呼ばれる国会議員は何を考えているのであろうかということである。このように平気で恫喝してくる国と友好関係を目指すべきなのか、或いは本当に共存共栄の友好関係が可能だと思っているのかということである。高市総理が習近平国家主席との会談で述べていた「戦略的互恵関係」という言葉にすら、個人的には抵抗感を感じるし、軽々しく使わないで欲しいという気持ちである。現実を無視した共生とか交流重視という理念は、偽善、欺瞞であるとしか言えない。むしろ何としても友好関係を維持し共存共栄を目指さなければならないという心理的な縛りのようなものが、日本の国家的なリスクを増大させていると言えよう。はっきり言って、まともに話しが通じ合わない相手に対しては共生ではなくて、棲み分ける以外に方法がないものである。ロシア、中国、北朝鮮のような独裁共産主義政治と自由、民主主義を標榜する日本を始め西側の国家とは基本的な価値観や善悪の基準というものが異なっているので、政治的な話し合いや経済取引、人的交流などで真の友好を醸成できるという考えそのものが幻想であり、戦争の危機を増大させているものであると考えられる。山奥から人里に餌を求めて降りてくる熊の問題と同じである。小さな国土の日本であっても太古の昔から人間と熊は棲み分けることで営々と生きてきたのである。それがその棲み分けの区分が一旦、崩れて熊が人間の生活領域に侵入してくる事態になると、当たり前の話しではあるが話し合いや取引で解決することなど不可能である。どちらがどうだという訳ではないが、選挙も行われていない独裁的な共産主義と自由、民主主義国家は、最終的には人間と熊のように話し合って、分かりあえるものではないと思われる。無理に共生、交流しようとしてもどうしてもそこには駆除の思想から逃れることができないのであって、それが戦争や斬首作戦という状況を生み出しているのである。中国という国家は共産党一党独裁の元で全世界を中国化させようと長期的に目論んでいることは明白なのであって、日本はそういう国との距離の取り方や関係性というものを再考すべきである。今や日本の権力内部に中国の浸透工作がかなり進んできていると考えられるので、最早一刻の猶予もないと言えるであろう。

(吉川 玲)

立花孝志氏の逮捕について思うこと

ということで、どうでもいいことでもないが、N国党、党首の立花孝志氏が逮捕されたということで、名誉棄損容疑での身柄拘束をする逮捕という事態は異例のことのようにも感じられるが、個人的な立花氏に対する評価や、立花氏の活動に対する日本社会の動向、反応といったことを自分なりに分析して論評することにしようか。

先ず私は立花氏が世間でほとんど知られていない無名の頃からユーチューブの動画で活動を見ていたが、初期の頃はパチンコの打ち子を集めて、組織的に金儲けをしたり、パチンコの勝ち方の解説をしていたような内容のものもあったような気がするというか、さほど真剣には見ていなかったのでよくは覚えていないが、それからNHKの集金業務に激しく反対し、NHKを筆頭にマスコミの腐敗ぶりを解説し、攻撃する動画内容に移行していったものだが、全般的な印象で言えば、昔に比べて今や、議員数一人か二人程度の弱小政党とは言え国政政党の党首であるのだから、出世というか随分と偉くなったものだなとは思う。しかしそれと同時に最近、ここ1~2年の立花氏を見ていて感じていたことは、支持するものでも批判するのでもなく、あくまでも客観的な感想であるが、限界のようなものが見えてきていたように思われる。どういうところに限界があるように感じられたのかと言えば、立花氏は単独でのソロプレーヤーとしては頭が良くて、戦略的であり、桁外れの行動力があって見ていて面白くもあり、優秀だとも言えるのだと思われるが、最大の問題は組織作りが上手くないというか、横に拡がって日本社会に定着する、ある種の正当性のようなものを獲得するところまでには至らないのである。立花氏当人もそれを自覚しているからなのか自分が住んでもいない各地域の知事選挙や市長選挙に出馬して、話題を作り、注目を集めたりすることには、非常に長けてはいるのであるが、それが政治的にどこに向かっているのか有権者的にはよく分からない、分かり難い。「NHKをぶっ壊す」のは誠に結構なことではあるが、兵庫県の斎藤氏を知事に再選させるために、兵庫県知事選に出馬するようないわゆる2馬力選挙を展開するようなことは、その場限りの瞬発的なイベントとしては確かに社会全体に与えるインパクトが強くて、それなりに民主主義的な意義や価値があるといえるのかも知れないが、それは単発的な一夜限りの花火のようなものであり、継続して社会を変革、前進させていく力とは異質のものであるように感じられるということだ。そういう単発的な花火を打ち上げるような活動を繰り返していても、政治の流れも世相も変わらないのである。結局は本人の自己満足だけに終わってしまっているようにも見えるし、どこまで行っても色物、際物的な域から脱することが出来ないような、そういう限界が私には明瞭に見えていたということである。たとえ目立たなくとも、時間を掛けて、横に拡がり続けるような地道な活動による強固で安定した組織作りというものが出来なければ、どれほど筋道の通った正論を主張し続けても、またパフォーマンスを展開させても日本社会においてはマスコミ全体を敵に回して、警察や検察に目を付けられるだけの結果に収束していくのである。参政党との差、違いはそういうところにあるように私には思えるし、またそれが今回の立花氏の逮捕劇の最大の要因であると言えるであろう。まあ、そういうことだ。

(吉川 玲)

こんな夢を見た。

ということで、どうでもいいことだが、最近こんな夢を見た。私は真っ白なフェラーリを買ってどこかの道を運転している。でもその道はどこかの街中の細い路地で、その上に周りにたくさんの人間が歩いていて、今にも歩行者と接触しそうである。またフェラーリは車体が大きくて、運転席からの見通しが悪く、誰かにぶつけないようにゆっくりと走っていると運転し難いことこの上ない。周りを歩く人々が、私のフェラーリを見る眼差しも、羨望や賞賛の類のものではなくて、邪魔だとか、危険だなという声が聞こえてくるような雰囲気であった。それで私はこう思ったのであった。

何でこんな車を買ってしまったのであろうか。ああ、早く売り払ってしまおう、と。

私の見る夢は、自慢じゃないがこのようなものばかりである。スーパーマンのように空を爽快に飛ぶ夢だとか、速度無制限の高速道路で気持ちよくぶっ飛ばしているような夢は、見たことがない。道に迷っていたり、行きたい目的地に行けなかったり、夢の内容は日によって様々だが、共通していることは、不安や焦りの気持ちが映像化されたようなものばかりである。どうでもよいと言えば、どうでもいいことなのだが、これを心理学的に自己分析すると、私がストレスは不安傾向が強いことの現われであると考えれば確かにそうだとも思えるのであるが、それだけではないような気がする。フェラーリの夢で言えば、どこかの街中の細い路地とは、現代の日本社会そのものを現わしているのである。そこで車を運転することは、生きることそのものであり、またこのブログの記事のように自分の考えを主張したり、思いや感性を自由に表現することなのである。細い路地をぞろぞろと歩いている人々に接触しそうになる不安とは、自由に自分を表現したり、真実を追求することが、自分以外の人々を傷つけたり、或いは破壊してしまうことを意味していて、それは私にとって深層心理的にはとても恐ろしいことなのだ。でもそうせざるを得ないという自分なりの論理や衝動というものがある。それが私にとっての生きるという意味でもあるからだ。だから生きるということは本質的に私には、楽しいことや、気分が良いことではなくて、一口で言い表せば、不安であり、恐怖であるということだ。

またこういうことは言ってはいけないのかも知れないが、私の不安や恐怖は、自分の表現や思索を生み出す内燃のエンジンがフェラーリのそれのように、日本の世相や世論に適合していないというか、日本の道路事情を鑑みれば、300馬力で、時速200キロ出るような走行性能をもつものよりも、スズキの軽、アルトのように小回りが効いて燃費が良くて、細い道をすいすいと走り回る方が、不安がないし、危なくもないということになるのである。いや、なるというか少なくともそういう風に私の深層心理は考えているということである。何も馬鹿にするつもりはないが、今の日本の政治や言論は、狭い小道を混雑した人込みをすり抜けて走る軽自動車のようなものばかりではないか。それで適合しているというのならば、ある意味ではそれは一つの正解なのかも知れないが、本来の政治や言論の役割というか目的は、フェラーリのような車が気分よく豪快に走れるような高速道路なり、社会環境や風土というようなものを作ることではないのか。まあ何を言っても同じである。今、こうやって書いている時にもフェラーリのマニュアル車で細い道を周りの歩行者にぶつけないように、今にもエンストしそうになりながら時速10キロぐらいのスピードで走っているような気分になる。そして歩行者の人々は、私のことを邪魔だなとか、危険人物をして見做しているような気がする。私はどこにもたどり着けないし、どこに向かって走っているのか、何のためにそこに行こうとしているのかもよくわかっていないゆえに常に不安である。そういう現代日本の夢の中を私は今、生きている。

(吉川 玲)