龍のひげのブログ -3ページ目

炎上する外国人問題に我々は何を見るべきなのか

ということで今の時代の多くの人と同じように私もテレビはほとんど見ないが、ユーチューブはよく見る。それで最近の話題で興味を持ったものを挙げれば、芸人の千原せいじ氏とジョーカー議員こと埼玉県戸田市議会議員、河合ゆうすけ氏の外国人移民問題についての対談とバトルにおける千原せいじの暴言による炎上である。河合ゆうすけは近年の埼玉県内の川口市や蕨市、またその両市に隣接する戸田市の不法外国人問題を選挙でワンイシューとして訴え、戸田市議選、歴代最多得票数で当選したものである。千原せいじは河合ゆうすけとの対談の前に実際に西川口の現地に赴き、調査というか地元の人間と1時間ほど歩いて、さほど治安は悪くないし、国籍に関わらず、日本人であろうが外国人であろうと悪いことをする奴はするし、しない人間はしないという印象を持っていた。河合ゆうすけは千原せいじとの対談の前にタレントの田村淳氏ともABEMA.TVで同じ外国人問題の対談をしていて、どちらかと言うと外国人との共生志向が強い、河合ゆうすけの言うところの「左寄り」の田村淳を「ぼこぼこにしてやった」と、つまり徹底的に論破したと発言したことから、せいじの怒りのスイッチが入ってしまって大喧嘩に発展し、せいじが田村淳同様にぼこぼこに論破されそうになってしまったことから逆上したのか、事もあろうに言わなくてもいいような暴言を言ってしまった。その暴言とは「お前はいじめられっこやろ、いじめられっこのオーラが出てるわ」という外国人問題とは何の関係もない小学生の喧嘩のようなセリフであった。そしてそのせいじの暴言が大炎上することになったという、簡単に言うとそういうあらましである。但し、補足して述べれば田村淳は河合ゆうすけとの対談の直後に、実際に河合ゆうすけに指摘された西川口の場所を一人で視察に赴き、せいじのようにぶらぶらと歩いて街の風景を観察するだけではなく、現地の人間にインタビューし、外国人が多くなっていることで住みにくくなってきていることや、女性や子供が夜に一人で出歩くことに不安を感じているという生の声をユーチューブ上で公開している。

ということで私の率直な感想で言えば、せいじを批判するつもりも擁護するつもりもないが、せいじは時代の微妙な変化についていけなくなってきているような気がする。そしてそれが大炎上の原因というか内因なのではなかろうかと思うのだ。これが3年前なら私は炎上に発展していないようにも思える。どういうことかと言えば、まず最初にタレントの政治的な発言というものについて、その是非や価値をよく見極める必要性があるように感じられる。言うまでもないことだが、元来、タレントは様々な制約や差し障りがあって政治的な発言を忌避する人種であると言える。将来的に政治家志望であればともかくもそうでないのであれば、タレントが政治的な発言をしたところでリスクやデメリットしかないからだ。反感を買ったり、敵を作ったり、広告の仕事がなくなったり、所属事務所から注意されたり、最悪の場合は解雇される可能性もあるというようなことである。でもタレントも人間だから世の中に対して、特に今の日本のような腐り切った政治風土であれば、何か言いたくなることは自然と言うか当然なのである。しかしほとんどのタレントは下手な政治発言をすればメディアや経済界や政治を敵に回してしまって、干されるのがよくわかっているからそういう危険なことはしないのが普通なのだが、中には勇敢というか無謀にもそのようなリスクやデメリットを承知の上でそういう発言をする人物も少数ながら存在する。それが千原せいじや田村淳なのであって、お世辞を言うつもりはないが、ある意味では凄いというか、あっぱれと言うか、自分の保身しか考えられない政治家や官僚などよりもよほど立派であるとも言える。だから芸人やタレントとして希少性や社会的な価値があるとも見れるし、需要もあるということになる。大衆は一見、馬鹿のように見えるが、そういうこともよくわかっているので馬鹿ではないのである。ところが3年前ならその希少性だけである程度は、評価されて、受け入れられたり、許容されてきたものが、今日においてはシビアにその言論の中身が問われるように変化してきているように私には感じられる。その背景はやはり日本の国民生活の悪化や生き難さというものが3年前に比べてもより一層に進行していて、単にタレントの政治発言というだけで面白がったり、受け入れる心の余裕が大衆側になくなってきているからだと考えられる。それで田村淳は左寄りかどうかはともかくも、私の目には頭が良くて、そういう時代の微妙な変化も感受する鋭敏性というか、悪く言えばずる賢さを持っているように見える。一方で千原せいじはどうなのかと言えば、弟のジュニアの方は淳同様の鋭敏性とかある種の賢さを持っているように見えるが、兄貴の方は、馬鹿とは言わないが馬鹿正直と言うのか、思ったことを深く考えずに忖度なしにずけずけと言うことが芸風のようになっていて、元々から際どい紙一重のようなところで勝負している芸人であるように私には感じられる。その際どさが今の時代には裏目に出てしまうのである。たとえば何年か前のことであるが、せいじは日本に謝罪や保障ばかり要求し続ける韓国に対して断交すべきだと発言したことがあった。一人の芸人がそのようなことを言うということは痛快であるし、新鮮でもある。しかし今回のせいじと河合ゆうすけの大喧嘩の元になった対談のテーマが外国人問題であったから敢えて言うが、私が最近ちょくちょく行くバーがあるのだが、そのバーは50歳代の女性が経営していて、その女性は在日の人である。自分ではっきりと在日であることを公言していて、自分は在日だから選挙権がないと言う割には、日本の政治には関心を持っていて、石破総理の悪口ばかり言っている。先日、そのバーに飲みに行って、せいじの炎上の話しになったときにその女性はせいじの韓国との断交発言を持ち出して来て「自分が在日のくせに何を言うとんねん」と憤慨していたのであった。その女性が言うには、千原という姓は在日の名前だということである。私には千原という姓が本名かどうかも知らないし、在日であっても日本人であってもどうでもよいというか、それで見方が変わることはないが、仮にもし在日の人間であるとするならば、日本は韓国と断交すればよいなどと日本の立場で言えることに凄味を感じる。しかしその瞬間に思ったことや感じていることを何の計算や忖度もなくずばっと言うことが一つの芸であるとするならば、往年の横山やすしのような破滅型の天才性は芸人としてあるのかも知れないが、まあはっきり言って今の時代の雰囲気にそぐわないというか、少なくとも政治的な発言をするのであれば、それが左寄りであろうと右寄りであっても、それなりに考えて、それなりに勉強してから発言する方が本人の身を守るためにも、世の中のためにもなるというものである。

最後に私自身の外国人問題の見解を率直に述べるのであれば、以下の通りとなる。それは私が住んでいる大阪市においても、もう外国人だらけである。特に私が住んでいる家の数十メートル離れたところに、東南アジア系の何かの研修センターがあって、そこからぞろぞろと東南アジアの外国人が連れ立って歩いているのが日常的な風景である。それ以外にもどこの国の出身かわからないような、見たところインド人なのかとも思えるような人が自転車に乗っていたり、業務スーパーで買い物をしている姿もよく見かける。繁華街のミナミを歩いていても日本人よりも外国人の割合の方が多いように見受けられる。私は日本の国産腕時計が好きでよくビックカメラやヨドバシカメラの時計売り場を見に行くが、買いに来ている客だけではなくて最近は店員までが中国人になっている。もうまるでリドリー・スコットが描く映画『ブレードランナー2049』のような光景になってきている。但し正直な所、私はそれで治安の悪さとか住み難さというようなものはほとんど感じていない。その点はせいじが西川口を歩いた印象と通じるものがあるような気がする。せいじは正直だから自分が思ったことをそのままに伝えるのである。でもそこで話しが終わるのであれば何の苦労も問題もないということになるが、そういうことではないと思う。私は外国人の多さに治安の悪さや住み難さではなくて、ひたすらに違和感を感じる。問題はその違和感の正体が何なのかということである。大阪市に川口市のようなクルド人がいるのかどうかわからないが、仮にクルド人がいたとしても、或いはそれがベトナム人やミャンマー人であっても確かに生活上のゴミ出しのような問題はあるかも知れないし、外国人によるレイプ被害があるのであれば確かにそれは論外に許されることではない。しかしそれでもそういう問題ではないような気がするのである。はっきり言うが、こう言っては何だが、クルド人とかベトナム人とか何人か知らないがマナーの悪さや犯罪率の高さの問題はあるにしても金のない人間が多少増えたところでさほどの脅威にはならないと思うのである。本当の脅威とは何か、目を背けてはならない事実とは何かといえば、金のある中国人が日本の土地や家などの不動産、企業や山林などを買い漁ってその買収活動が中国共産党の政策と深くつながっている可能性があるということではないのか。そしてそういう事実を日本の国民に目立たないようにさせるために、敢えて日本の政策で中国以外のクルド人や東南アジア系の外国人を意図的に増やしているのではないかということである。まさかと思うかも知れないが、自民党は平気でそういうことをする政党なのである。いやそういうことしかしていない政党なのである。前回の記事が私が述べた自民党の唯一性とはそういうことなのである。私が言わんとしていることがお分かりであろうか。自民党の唯一性とは見掛けと建前はともかくも実質的には日本には自民党の政治一択しかないということだから、その政治体制というものは中国の共産党一党支配というものと極めて親和性が強いということなのである。それゆえに日本の政治が中国に徐々に侵食されていくということはある意味では必然的な帰結なのであって、その日本の中国化というものがグローバリズムというものと複雑に結びついて実態がより一層に見え難くなっている現実があるということである。目の前の現実は大切ではあるが、目の前の光景に騙されてはならない。はっきりと言うが、自民党は、自民党の唯一性は国民の目を暗ませることしか考えていない。そして日本の大衆はそういう政治のために日々一生懸命に働いて税金を納めているということで、自民党の議員など世襲の馬鹿ばかりなのに、哀れというか悲しいというか、何と言えばいいのか適切な言葉が見つからない。

(吉川 玲)

この国を蝕む自民党の唯一性について

ということで歳を取って来ると、別に何だっていいんだという気にもなってくるのだけれど、参議院選挙も終わって自公が過半数を割り、新興勢力の保守系政党が大幅に議席を増やしている状況にあるのだが、そもそも自民党とか政権与党という存在は基本的な存立の意義として本質的に「保守」であるべきではないのかとも思うのだが、

一体、日本の政治は、国家精神というべきものはどうなっているのかと嘆かざるを得ない。結局、日本の政治は何をどうごまかそうとも自民党の自民党的な政治一択しかないから、たとえばシーソーの両端に共和党と民主党が座ってぎっこんばっこんと浮いたり沈んだりのバランスが取れないというか、自民党という唯一性の大きな果実が瞬く間に腐ってゆくと目の前の食べれるものはそれしかないから、どんなに空腹であっても、餓死しそうになっても選びようがないのである。それが日本の政治空間である。石破総理が辞任するとかしないとかは、どうでもいいことであって石破氏が辞めたとしてもその後に誰がなったとしても自民党の唯一性は、消えないし、死なないし、不滅なのである。長嶋茂雄氏が引退するときに述べた「わが巨人軍は永遠に不滅です」のメッセージと同様に自民党もまた永遠に不滅なのである。日本の非日本的な一つの大きな塊として腐っていく一方なのである。そして自民党の唯一性だけが不滅であって、日本という国家は消失し滅亡していくのである。この根源的な宿痾に向き合わずして、一体日本の政治の何を語るというのか。何を見て、何に精神を向けるというのか。こんな馬鹿馬鹿しいことはもういい加減にやめにしてはどうなのかと言わざるを得ない。繰り返すが自民党の唯一性というものは、仮に自民党が立憲民主党に成り代わったとしても、それは表層的なことであって何も変わらないのである。石破総理が辞任して、高市早苗氏になったとしても自民党が保守に立ち返る訳ではないし、恐らくは何もできないであろう。小泉純一郎氏を真似て誰かが再度「自民党をぶっ壊す」などと高らかに叫んだところで、一つの見世物としてネタとして注目を集めることには成功するかもしれないが、自民党の唯一性は決してなくならないし、壊れないし、不滅なのである。何でそのような明白なことが多くの人々には理解できないのであろうか。見えないのか。あなたたちは誰もがまるでヘレン・ケラーの三重苦のように、見えず、聞こえず、語れないのであろうか。生きていく上で大切なことはという意味である。だったらどうすればいいと言うのか、日本人はどうすべきかと聞かれても困る。どうしようもないからである。どうしようもないのであるが、日本人の多くがこの自民党の唯一性の中で見えず、聞こえず、語れないという状況を腹の底からよく理解するということ、そして冷たい水に手を触れて、それを両手に受けて飲み込み、世界に向けて一言「ウォーター」と言う第一歩を踏み出せるかどうかが全てではないかという気がする。その一言が言えた時に日本人は、自民党の唯一性という暗闇から抜け出して、新たな世界を手探りで構築していくことになるような気がしないではない。抽象的過ぎてよくわからないと言うのであれば、具体的に言うことにしよう。日本の政治空間は今に始まったことではないが、実質的に自民党の一択しかないから選びようがないし、民主主義ではないし、元々の根底において保守も革新もないということである。保守的なものや革新的なものはあるのであろうが、それらも含めてそれがたとえ共産党であっても、日本の統治という大きな枠組みの中においては自民党の唯一性の中に内包されているということである。もっとわかりやすく言えば、政治全体が政党やイデオロギーの違いに関係なく結託して、国民に嘘をつき騙している状況が常態化しているということである。そしてその日本の政治の大きな塊は世界の潮流の中で、民意や世論や選挙結果とはほぼ無関係に腐敗し、堕落し、濁流のような大きな圧力に飲み込まれていく。その背景の元凶がいわゆるグローバリズムである。今回の選挙の争点となったものや、今の日本の問題とされているものは全てそこに行きつくものである。たとえば関税一つにしても石破総理は日本の国益のためだといいながら80兆円もの投資資金(税金)を米国に供与する約束をして、引き下げに躍起になっていたが、正しく言えば国益(国民)のためではなくて、一部の大企業の利益を守るためでしかないことは明らかではないか。そしてそのしわ寄せを国民に引き受けさせようとしているのである。そもそもグローバリズムというものは世界中に支社や工場や研究施設等を擁する大企業だけが極限まで売り上げを伸ばし続ける仕組みであったり、それを正当化する考え方であるということである。確かにトランプ大統領の関税政策は無理筋であると言えるものである。日本で米国車が売れないのは、政治に問題があるのではなくて末端の大衆が米国車を購入しようと思わないからである。その消費動向を変えるためには米国のフォードなどの自動車メーカーはもっと日本の市場を研究して、日本人が買いたくなるような車を作り、安心できるような購入後のサービス体制を構築する必要性がある。しかしトランプ大統領が世界中を相手にして交渉し、闘っていることの根本は、そういう個別のことではなくて一部の大企業のみが国民全体の本当の国益を犠牲にしてまでも勢力と政治的な影響力を拡大し続ける仕組みに対してである。ロシアとウクライナの戦争を停止させようとしているのも同じでトランプ大統領は人命尊重の人道主義的な観点から戦争を止めさせようとしているのではなくて、恐らくはその戦争での金儲けのために少しでも長引かせようと企んでいる武器商人や利権集団の存在が面白くないということが一番の理由だと考えられる。だから戦争や戦闘が国家的に本当に必要だと判断されればイランをミサイル攻撃するようなことも躊躇わないのであろう。不法移民や外国人問題も最近、日本でも注目度が大きくなっているが、グルーバリズムの観点から見れば、ある国の労働力や消費者がその国の国民でなければならないという考え方は、言って見れば参入障壁にしかならないということである。その国のネイティブの国民の生活レベルの低下や治安の悪化などは、大企業の利益追求のためにはどうでもいいということにならざるを得ないということとなる。特に日本のように人口の減少の流れが食い止めることが難しいのであれば、政治的には生活保護や奨学金を拠出してでも外国人を補填して、本来の国民の利益や生活レベル、治安を犠牲にしてまでも一部の企業の利益を維持する流れとなっていくのであって、これらのことは全て日本の政治が、言い換えれば自民党の唯一性が完全にグローバリズムに飲み込まれていることから必然的に発生している現象なのである。消費税も同様である。社会保障のために消費税が必要なのではない。大企業の研究開発費控除などの優遇税制を補填するために消費税が必要なのであって、結局、日本の政治は端から内需拡大による景気回復など1ミリたりとも考えていないということだ。考えられていることは大企業からの政治献金や選挙協力、官僚の定年後の天下り受け入れのことだけであろう。オールドメディアが喧伝する人権とか交流とか倫理を受け入れる前に、まず日本人は日本の無条件にグローバリズムに飲み込まれる自民党の唯一性や政治風土というものをよく咀嚼して自分なりの言葉を発するべきである。それが日本人全体にとってのヘレン・ケラーが発した「ウオーター」に相当する未来に向けた第一声となるであろう。

(吉川 玲)

予言と現実について

ということでXデーが目前に迫ってきた。日本が滅亡するほどのカタストロフィが発生すると言われている2025年の7月5日のことである。隕石や地震による大津波で未曽有の被害がもたらされるということらしい。

これはいわゆる予言である。ところで皆さんに聞きたいが、予言には2種類が存在するがそれが何かお分かりであろうか。答えは簡単なことで、的中する予言と的中しない予言である。それではさらに聞くが、的中する予言と的中しない予言の違いは何なのかということである。予言者の能力によるのだろうか、それともたまたま当たったりするのだろうか、そもそも予言などというものは全ていい加減なものでまともに論評するに値しないものなのであろうか。そういうことも正しいのかも知れないし、人それぞれに考えはあるであろうが、私に言わせればそうではない。多くの人に注目されている予言は当たらないし、注目されていない予言は全てではないが当たったりするのである。漫画家のたつき諒さんが表紙に書いていた2011年3月大災害の予言も誰にも注目されていなかったから当たってしまったのである。ノストラダムスの予言集においても16世紀のフランス国王アンリ2世の妹と娘がそれぞれ結婚することを祝う宴で行われた馬上槍試合でアンリ2世は対戦相手の貴族の槍が右目に刺さって致命傷を負いその10日後ぐらいに死亡してしまったことを予言詩で見事に的中させているのだが、それもそういう出来事が発生してから予言が的中していたことが後からわかったことであって、事前に予言が注目されていたことではないのである。ということでノストラダムスの1999年7の月人類滅亡の大予言も多くの人々が注目しているゆえに外れたのである。では何で予言は誰にも知られていない埋もれたようなものは的中するのに、多くの人々に注目されるような事態となると外れるのかということであるが、そもそも予言というものの性質や真贋についてよりも、我々がよく見極めなければならないことは、その予言が当たったり外れたりするところのこの目の前の現実とは何なのかということなのである。よく知られているように量子論的に考察すれば現実というものに実体性はないのである。ミクロの量子は観察者の視線を意識したように出現したり、消失したりするということである。ということは我々が日ごろの生活の中で当たり前のようにその存在を絶対的に感受している物質の集合としての現実は、ミクロ世界の量子レベルにおいては観察者の意識が映し出している映像かホログラムのようなものであると言えるのである。ここにおいて重要な認識は我々一個人の意識と映し出された映像、ホログラムとしての現実は、1対1の関係性で均衡が保たれているということである。よって誰にも知られていないような予言は、分かり難いかも知れないが、その予言者にとっての個人的な固有の現実であるということである。その個人的で固有の現実が多くの人の目に晒され、注目されるようになると意識と宇宙の1対1の関係性が壊れてしまうこととなるので、その通りには、つまりは予言された通りにならないということである。現実という言葉を使うから分かり難いのかも知れないが、現実とは夢のようなものなのである。夢とはどこまでいってもプライベートで個人的なものであって、多数の人間が同じ夢を見る(生きる)ことはできないのである。また当然のことであるが一人一人が自分の夢を見ているので、夢としての現実は一つではなくて無限に存在するということとなる。我々人間は自分の固有の夢を見ているだけなのに、それを唯一の現実として錯覚し、執着しながら生きているだけなのであろう。しかしそういうことを言うと、次のような反論が出てくるであろうと思われる。それは現実が夢であろうが幻であろうが、いざ実際に天変地異の大災害が発生すれば、多くの人々が否定しようのない悲惨な同じ現実の中に陥って、死や多大な苦しみを被ることとなるではないかと。確かにその通りである。現実がプライベートで個人的な夢であったとしても、我々の人生は他者とまったく別個で無関係の夢を見ている訳ではない。物質世界の堅固な基盤を共有しながら、その全体性のストーリーの中で、他者と類似した夢を見ているということである。だから大切なことは我々の身体も物質であるのであるし、その物質の物質性を否定したり、神秘主義や信仰に救いを求めるのではなくて、これまた分かり難い提言になるかも知れないが、自分が無慈悲で悲惨な現実の夢を選択することに同意しないということだと思われる。無意識なのか超意識なのか、何と呼ぶべきかはわからないが、日常意識とは別のところで同意しているか、或いは同意させられていることの内容によって同一現実世界の、同一時空間においても生と死の、そして悲惨と安泰の違いが生じるのではないかと考えられる。そしてそれは政治的に見れば日本全体の凋落や貧困と深く関連しているように考えられる。予言ではないが、連日のようにTVや新聞のマスコミが南海トラフ地震が数十年以内に確実に発生し、数百万人の人間が死亡し、1千兆円規模の被害が生じるなどと報道されていることの真意がお分かりであろうか。それは時間を掛けてそういう現実に遭遇することを多くの日本人が無意識に同意するように仕向けるための工作活動のようなものなのである。何でそういう工作活動をしているのかと言えば、そうするように命じている存在がいるからであろう。日本の政治やマスコミなどは会社で言えば、中間管理職のようなもので命じられた通りに動いているだけなのである。それで時に不規則的にこれまでの筋書きと異なるトランプ大統領のような人物が登場すると日本の政治やマスコミはどのように対応してよいのか分からなくなってしまって混乱するのである。それが今の自民党の姿である。ともかくも今の日本は全体として悪夢を見ることに同意させる力が強く働いていることは事実だと思われる。現実が夢だとしても、周りの多くの人が不幸で悲しい夢の中で苦しんでいる中で、自分一人だけが楽しい夢を見ることは難しいのである。あなたは今、どのような夢の中で、何を想って生きているのであろうか。

(吉川 玲)