力の根源
軍事力を背景にした言葉の強さがなければ、外交交渉力を持ち得ないという意味で言ったのではない。
昔読んだアルビン・トフラーの『パワーシフト』だったかと思うが、力(パワー)の要素は暴力と金と知識であると書かれていたことを覚えている。これは国家間だけでなく個人レベルの人間関係で見てもあてはまる原則であろう。
すなわち力の原則に従えば、日本が今後とも平和国家として憲法9条を堅持し続けるか、それとも改憲するかという選択は国力を底辺で条件付ける三つの要素の内の一つに過ぎないということも出来るのである。
もちろん直接、戦争や徴兵制ということに関連してくる法案なので国民一人一人にとって最も重要な問題であることはよくわかるし、誰にとっても戦争よりも平和の方が望ましいのは当然である。
それなら暴力(軍隊)を排除するのであれば、金と知識の力で世界と伍してゆかなければならない。事実、戦後日本の急激な成長は、経済力と国民の知的水準の高さによって成し遂げられたものである。つまり日本の平和とは金の力と、国民一人一人の世界的な賢さで保たれてきたものなのである。
今日の日本は、その金と知識の力が急激に低下してきている。要するにパワーの全要素を喪失して国力がはっきりと衰退しているのである。そのような状況下において憲法9条改正の動きが出てきているのである。
何が言いたいのかというと、日本が自国内だけでも平和を維持し続けたいのであれば、それに見合った総合的な国力が無ければどうしても不可能であることを先ず第一に認めるべきではないかということである。
そのような本質的な部分を見ようとせずに、一部の政党や知識人たちが未だに冷戦下の二項対立的な議論や闘争ばかり繰り広げていることに嫌悪を通り越して憎しみに近いものを私は感じる。
憲法9条や平和の大切さを論ずる輪に参加さえしていれば正当な民主主義に加わっているかのような幻想が教育やメディアを通して日本の精神を曇らせてきた。それでいつの間にか日本人は根本的に自分の頭で真相を見極める思考力を放棄し、大勢に流されるだけの集合体になってしまった。道徳は荒廃し人心は乱れ、経済力や知的能力の高さを誇れるような国でも既になくなってしまっている。
そして皮肉なことに、どんどんと戦争に近い状態へと追い込まれていっているのである。
はっきり言うが我々に今必要なのは理念ではなく力である。力を取り戻さなければ、“無力”が国家的な暴力を生み出すであろう。
特に若い人々に言いたいことであるが、誰かの設問に答えてはならない。なぜならあなたの答えではなく設問そのものが日本を作ってきたからだ。だから答えた時点で負けである。反対に設問者に考えさせ、答えさせなければならない。
もう一つは権威的なものの威光に惑わされてはならないということである。相手がたとえノーベル賞受賞者であろうと臆することはない。なぜなら世界のパラダイムが変化するときに、“権威”は時代遅れとなって社会変化の足枷となるからだ。
自分の頭で考えることが一番尊いのである。そして、それが力の根源であると私は思う。
政治家の言葉
福田首相は竹島問題についての質問に答えて曰く、「双方の立場というものがありますからね」と言った。
ご当人は言葉を選んだ上で当たり障りの無い無難な回答をしていたつもりなのだろう。一般多数の大衆には通用するのかも知れないが、人よりも少しだけ言葉に敏感な私は納得しない。そもそも私は“あの人”の距離を置いたような言い回しに知性も強さもまったく感じない。双方に立場があるのは当たり前のことである。そういうのはいわば言わずもがなのことである。
言わずもがなのことを言うことが政治家の仕事なのか。それでは政治家の言葉とは一体何なのかということになる。
あえて言わずもがなに隠された本音を探るとこういうことになるのではないか。「我々にも国家としての面子や建前があるのですから、一応形だけでも領有権は主張せざるを得ないのです。そこの所をよくわかってくださいよ。実質的に竹島はあなたがたが支配しているのですから、日本は教科書等であくまで形式的に主張するということにさせてください。だから難しいことを言わないで、まあお互い仲良くしましょうよ。」
こういう言い方をするとご当人や自民党議員たちは烈火のごとく怒って否定するかもしれないが、日本の権力は元々そのような性質が強いのではないのか。本質的には国民不在のごまかしであると言える。また国内ではいつもそれで通用してきたのだ。問題を曖昧にし玉虫色の解決で現状を維持しようとする方法である。
しかし韓国は、「何を言っているんだ、そんなこと信用できるわけがないではないか。そういう二枚舌な態度は我々を見下しているのと同じではないのか。馬鹿にするのもいい加減にしろ。」ということになる。それで阿吽の呼吸ともいうべきような見事な協調で韓国の民間人は各地で日の丸国旗を燃やしたり、時には宗教家まで集結して(させられて)抗議声明を高々と唱えることとなる。
私はナショナリストであるから韓国のそのような官民一体となった激烈な行動に多くの日本人が嫌悪感を抱く気持ちはよくわかるのであるが、一歩踏み込んで考えて見ると韓国の民主主義は日本より遅れているのかも知れないけれど一面、健全であるとも言えないだろうか。日本のように言葉(形式、建前)と身体(実質、本音)が分離していないからである。民主主義の成熟に言葉と身体の不一致が必要不可欠なのかといえば必ずしもそうではなくてあくまで日本的なものだと思われる。
日本と韓国の問題は当然、歴史的な遺恨が根深く残っていて解消されていないことが主な原因であろうが、実質、実利を重んじる大陸的な感性と奇麗事の建前で問題を曖昧にして棚上げしようとする日本的な思考様式の対立という側面が大きいのではないかと私は考える。
日本が相手国と同じようにとことん実質、実利を重視した外交を展開すれば対立は益々深まって軍事的な緊張感が高まるではないかという意見もあるであろう。しかし本来領土問題とはそのような性質のものではないのか。
日本は外部に開かれた言葉(論理)を持っていないがゆえに全てを国内問題として対処しようとする。しかしそれでは対話のスタートラインにすら立てていないのである。日本人はもっと“言葉”の性質について鋭敏な感性を養わなければならない。
言葉と身体
日本の道徳規範というものを考えるときに、裁判官や警察、学校の教師などがストーカーや痴漢、盗撮などの破廉恥罪で日々相次いで逮捕されているような今日的な状況は一体どのように社会分析されるべきなのか。
言うまでもなく本来、裁判官、警察、教師などは正義や道徳の要であり国民の模範足るべき存在である。この国のそれら管理者的な位置付けにある人々の堕落ぶりがあまりにも目立っているのはどうしてか。
私はそこに社会支配の本音と建前、見掛けと実質の不一致を見てしまう。日本的といえばそれまでかも知れないが、それらの乖離が一定の社会的な許容限度を超えたときに縦割り的な権力の末端現場で働いている人々の精神が知らず知らずの内に蝕まれ真っ先に崩壊してゆくのではないだろうか。
このような不一致の問題を“言葉と身体”をテーマにして自分なりに考えてみたい。
やくざの親分を仮に想定してみる。仁侠映画ではないが舎弟たちが親分の“言葉”に命を捨てようと腹をくくるのは、親分の言っていることが論理的に正しいからではない。また含蓄のある内容に心を打たれるからでもないであろう。そうではなくて、たとえ親分の言葉が反社会的であっても人格の中心から発せられた強い言葉であるから魅力が生ずるのだと思う。言葉と身体が一致しているから説得力があるとも言える。言葉とは単に記号が浮遊したものではなく、身体性が内在されているのである。身体には魂や霊魂が宿っているから、言葉には霊が宿るとも言えるが言葉と霊の間には身体が媒介している。よって言葉とはどこまでも生者のものである。死者には思いはあるかも知れないが言葉はない。
言葉について極端な例で説明するとファシズムだとかヒットラーとかを持ち出されて政治的に批判されそうでげんなりした気分になりそうであるが、そういうことではない。私は単に“言葉”の階層性や構造を分解することで、言葉が社会に与える影響というものを考えているだけである。
それで今日の日本の裁判官や教師などの“権威的な言葉”はあまりに記号化され過ぎていて身体性が希薄になっているのではないかと私は勝手に想像し危惧する。わかりやすくいうと世の中全体が本質を見ようとしない右へならえ式の誘導や欺瞞ばかりになっているということである。裁判官の書く判決文にしろ、校長先生の訓示にしろ表面的な道徳感覚をなぞったり一定のパターンを踏襲しているだけで人格の中心に触れていない遊離した言葉が多いのではないのか。
社会統制における記号的な言葉は、複雑雑多な紛争や権利関係を分類したり系統的かつ効率的に処理してゆくために必要不可欠な手段である。しかし身体性や生活の匂いがしない記号が一人歩きして人間の精神を支配してゆくことはとても危険なことでもある。また時代とともに社会意識が変化していかなければならない時に、ある言葉の性質が特定の記号として強固に固定化され柔軟性を失ってしまうと社会矛盾や軋轢が見えなくなってしまって結局のところ社会全体の生産性や活力が低下するだけなのである。それが今の日本の実相であると私は思う。要はバランス次第だとも言えるのであろうが、そのバランスを見極めるにはかなり高度な知性と感性が要求されるのかも知れない。しかし、そのような視点で社会の行く末を本気で心配している人間自体が日本に如何ほど存在するのであろうか。目の前にある利権だけ見るなと言いたい。
次回は政治家の言葉というものについて具体的に考察してみたい。