龍のひげのブログ -536ページ目

地方分権と教育改革

世界的な金融危機の影響で日本の景気は益々悪化しているように思われるが、そもそもアメリカの金融破綻以前から既に日本の経済状態は最悪の状態にあったのだから真相をごまかしてはならない。

日本の不景気は構造的な問題が大きい。ここ数年大企業だけは業績が良かったものの、円高と中国、インドなど新興国の急速な景気減速の影響で、トヨタを初めとして日本の屋台骨を支えていた輸出依存型の少数優良企業までもが赤字に転落した。政府はこれまで世界的な競争力を有した大企業が海外に流出、移転することを恐れて税制において優遇し、圧倒的多数の中小、零細企業を実質的に見捨ててきたつけが回ってきているのである。

今頃になって「定額給付金」で1万円ほどの金を国民にばら撒くなど、あまりに馬鹿げている。国民多数の家計は火の車である。山火事を立ち小便で鎮火させるかのような政策は単に無駄遣いのパフォーマンスに過ぎない。

言うまでもないが海外の状況は日本国内でコントロール出来ない。コントロール出来ないもの(輸出)に依存しているから今日のような最悪の状態を招くのである。日本が少しでも経済的に立ち直るためには、内需を活性化させるべく全力を注ぐ方向性をもっと前から打ち出しているべきであった。日本の政治は予測や見通しが甘いというか、基本的に欠落しているので全てが後手の対応である。内需の活性化には構造的な問題が立ちはだかる。国内は全体的に消費が低迷しているが地方の窮状が甚だしい。日本の景気がアメリカに振り回されるのと同じように、地方の景気は中央(東京)に強く影響される。地方は大都市の景気が上向き、金や物の動きが活発化することによって、余波として2次的に潤う。東京の景気がすこぶる悪いのに九州や東北だけが元気がいいという状況は考えられない。権力と経済の首都圏への一極集中、霞ヶ関からの中央統制、大都市から地方への金や情報の流れなどが日本型システムの根幹を成している。景気がよい時にはそれなりに安定した秩序と繁栄をもたらす、それら日本のシステムは、今日のように世界的な大きな時代の転換期には国全体が機能不全に陥ってしまって再生が利かなくなる。なぜなら一元的に管理化された一方通行の社会だから地方や国民など末端部分から、植物が親木が枯れても挿し木で復元するような機構になっていないからである。単に自民党か、民主党かという政治上の二者択一の問題ではなく国民全体の“国家意識”から変わってゆかなければならない必要性に迫られていると思われる。

しかし自分の頭で考えることが苦手で、誘導ばかりされてきた日本人は“国を想って”その次に“自分を立てる”という思考回路がない。それは国家とは絶えず戦争をしようと企む“悪”であるから、悪を排除して全体的な利益より自分のことだけを考えておけばよいのだという利己(保守)的なイデオロギーによって導かれてきた結果であるとも言えるのではないか。先日もあるTV番組を見ていると、田母神氏をゲストに招いて自衛隊について話しをしている場面で、ある有名司会者が小泉元首相であればその気になれば戦争を起こすことも出来たと発言していた。冗談ではなく、本気でそのように考えているようであった。なぜなら田母神氏が「そんなことはないと思いますよ。」とごく当たり前のコメントを返しているのに「いや、小泉さんほどの才能のある政治家だったら一気に戦争の状態までもって行くこともできたはずだ。」と繰り返していたからである。私は正直なところ、その司会者は頭がおかしいか視聴者を馬鹿にしているのではないかと感じた。同局で昨年末に放映された、北野武が東条英機役で出演していた長編ドラマ『あの戦争は何だったのか』を見たが、全体主義的な思想が深く蔓延していたあの当時でさえ日本は開戦を決断するまでに実際のところはかなり大きな抵抗があったのである。満州の利権や石油資源などどうしても手放せなかった国家の生命線と世界的な政治力学の中で日本は、ほとんど自殺をするような悲壮な覚悟で戦争へと追いやられていった。1941年の11月末まであれほど逡巡、しり込みしていながら12月8日には一転、勇猛果敢に真珠湾攻撃へとよくも踏み切れたものだと感心したほどである。ともかく日本は元々、好戦的な国ではない。ましてや今の時代に国民へのパフォーマンス能力の優れた政治家が戦争を引き起こすことなど考えられない。そのように考える人間は国民の良識をあまりに低く見積もり過ぎている。また単に戦争に巻き込まれないということであれば本質的には日米関係の外交問題であって、自衛隊や国内世論とは無関係のはずだ。100年先のことはわからないが、少なくとも10年や20年は日本が自衛隊を使って戦争をする可能性は0である。しかしそのTV司会者と同じように、明日に大地震が起きるかも知れないというレベルで1年後に太平洋戦争に突入したような状況が繰り返される可能性が少なからずあると考えている人々が日本にはたくさん存在している。そのような人々の精神構造は基本的に戦争への危機に“依存”している。だから認知が歪んでいる。平和は万人に共通の願いであるが、認知が歪んでいる人間と一緒にされたくはない。日本は、“戦争への危機”があらゆる洗脳や誘導と結びつきながら、一部の人々の利権や権威を維持している点において特殊な国家であると言えるのではないのか。

国が豊かであれば利己的な人間こそ競争原理の中で勝者や勇者になれるであろう。弱者もまたそれなりに生きていけるであろう。しかし弱者が最低限の生活すら保障されない状況になっているのであれば国の仕組みを根本的に変えてゆかなければならないはずだ。そもそも自由競争主義か福祉国家かという二者択一の問いかけそのものがナンセンスだ。小泉元首相以降に国内経済が決定的に悪くなったという人は多い。アメリカ型の競争原理主義信奉者であった小泉氏には大局的な時代の移り変わりと適切な処方が見えていなかったのである。欧米先進国をモデルとして物真似するような明治、大正時代の意識が日本の支配者層にはいまだに残っているのではないだろうか。日本は時代に即した日本に固有で最適のシステムを絶えず検証し、追及していかなければならないはずだ。

今日、その“最適”を国民自らが考えなければならない。なぜなら政治やメディア、司法など日本社会の支配者としてマスの意識すなわち常識や良識に深く関わっているエリート層は自家薬籠中の主義主張をこね回すばかりで牽強付会の節義から離れることが出来ず、真の意味で“全体”を考えることが出来ないからである。はっきり言うが、今日的な全ての思想は“目先”の金儲けの論理である。金儲けが悪いとは言わないが、全体像をきちんと見通す視点がなければ資本主義社会は自然にごく一部の金持ち以外は奴隷のような世の中になっていくのである。

それではどうすればよいのか。私の説は以下の通りである。

地方を活性化し地方分権を推し進め、多極的な日本を作っていくためには中、長期的に地方人口を増やしてゆく方策を講じる必要性がある。地方で生まれ育った人間がその土地で働いて結婚し、子供を生み、一生暮らしていけるような環境を作ってゆかなければならない。もちろん、そう簡単に出来ることではない。しかし10年ぐらいかければ実現不可能ではないと思う。日本にはこれまで中期、長期の計画がなく、目先の政局運営ばかりに捉われているからこのような深刻な事態になっているのだ。自民党政権がこれだけ続いてきたのに、中期的な方向性すら混濁としている状態は国家として異常である。中国のような一党独裁国家の方が政治的に優れているように見えるぐらいであるから、やはり日本の民主政治はどこかに重大な欠陥があると言わざるを得ない。

日本のような小さな国で人口が1億3千万人もいてGDPが世界第2位であるにも関わらず、医師不足で救急患者が病院をたらい回しにされた挙句、死亡するなどという事態は日本のこれまでの権力構造が金儲けの論理と深く結びついていたことの証拠でもある。人間中心の社会ではなかったということだ。ホームレスの人々が見捨てられ、年間3万人もの自殺者がいて、死刑執行の数が増加していることも全ては底辺で繋がっている。日本は人命尊重、平和主義の建前とは反対に人間が完全に“物化”している。出生数が減少するのは当然である。このような状況を打破していくために、中央による一つの考え一つの方針を改めて、地方分権への推進を活力を生み出す多層的な社会への変革と位置づけるべきである。地方に道路を作ったところで、それを利用する人間や活用する企業が不在であれば無用の長物だ。立派な道路があるに越したことはないが、道路が地方を栄えさせるわけではない。地域経済の基本は公共事業や設備投資などではなく人間の出生と定着である。また地方が企業を誘致するために重要な条件は社会資本ではなく、教育(人材)であるべきだ。優秀な学生が地元に本社のある企業に就職することを条件に、その都道府県が学資を援助するような仕組みを作ることが望ましい。職業選択の自由や中途で他府県の企業に転職する場合はどうなるかなどの法律的な契約上の問題が生じるかも知れないが、そこは生まれ故郷の地方を豊かにしてゆくことが、地域住民全ての幸福ひいては日本全体の繁栄につながるという理解を共有すればそれほど障壁にはならないと思われる。プロ野球のスカウト合戦のようになると抵抗感を感じる人もいるかも知れないが、競争原理の有効活用とは今日の日本においては個人ではなく、地方間で行われるべきである。

それと関連して地方独自の教育を実現させるために文部科学省は今や、不要であると私は主張する。過激なことを言うなと叱られるかもしれないが、日本は識字率も100%ある上に、全国ネットのTVや新聞等で日々同じ情報を共有しているのである。公立の小、中学校が同じ教科書を使って、国家統制された均質な教育が必要であるだろうか。地方がそれぞれの教育スタイルを考案して、その地域発展のための人材を育成していくべきである。各都道府県が新しい教育の“実験場”となるべきだ。そして教育方法、人材、地元企業の三つの要素によって地方は各企業や定住者を募るべきである。人間中心の多極的な社会システムとは以上のようなものが相応しいと私は考える。均質な情報、教育は横並び、右へ倣えの思考しか生み出さない。大量生産、大量消費によって右肩上がりに経済成長してきた時代には、“均質”が有効に機能してきたのであろうが、これからの日本は“差異”を生産性に結びつけるような社会モデルに転換しないと生き残れないであろう。差異が日本を活性化し、明るくしてゆくのである。

また国家的な教科書検定がなくなれば、歴史認識において韓国や中国に内政干渉されることもなくなるであろう。国の統一見解などどうでもよいのである。

地方がそして個々人が自由に物事を考え、一人一人の差異が新しい日本を創ってゆく原動力となるような社会は素晴らしいとは思わないか。


貧しき人々

ある日のこと、息子と話しをしていると“フミン”がどうのこうのと言うので“府民”かと思い、小学校2年生で大阪府民としての行政に目覚めたのかと感心して聞いていると、どうも本人は“富民”のつもりで話しをしているらしいことがわかった。それで、私は“富民”じゃなくて“富豪”ではないのかと言うと、「そうや富豪や。ほんならパパ、富豪の反対は何?」と聞くので

「富豪の反対は貧民や。貧しい人のことや。」と答えて、息子は“富豪”と“貧民”を混同して“フミン”と言っていたのだとわかった。

「貧民の上は何?」とまた聞いてくるので、経済階級のことを知りたがっているのかと思い、一瞬、中流やと答えそうになって止めた。子供に対して“中流”という言葉はどこか生々しい感じがするし、そもそも日本に中流階級は消滅しつつある。それでちょっと迷ったが、

「貧民の上は、平民や。」と答えた。

すると、また「平民の上は?」と聞くから

「まあ、平民の上が富豪やな。」と言っておいた。

「富豪の上は?」

「大富豪や。」

「大富豪の上は?」

もうちょっと考えるのが面倒くさくなってきた私は

「一番上は億万長者や。」と適当に答えておいた。

すると息子は

「ほんならパパ、“家来”はどこに入るの?」と突拍子もないことを言うので笑ってしまった。私が“平民”と言ったのが悪かったのかも知れない。

しかし、後になって考えてみると子供の素朴な疑問というものは絶えず、その時代の核心に触れているのである。日本人の精神構造は戦後の急激な経済発展の中で、他者との目に見えない差異意識によって安定が保たれてきた部分が大きいと思われる。日本にはインドのカースト制度のような身分制度はなく、法の下の平等が保障されている国家である。しかし法律と社会意識は別である。制度として意識化されているか、暗黙裡の共有コードとして無意識に内在されているかの違いだと思われる。大衆とは自分という存在を自己の内部からではなく、他者との社会的な差異意識によって自己認識し、成り立たせている集合意識であるとも言い得る。日本人の特徴は差異が差異として表立って主張するのではなく、呑み込まれ心理的に構造化されてしまっているのである。当然、国籍や住んでいる地域などによる差別もそれらの無意識的な差異意識に含まれている。たとえば新興宗教に走る人間は、心のどこかで霊的な差異を求めているのである。教祖とは求められているものをよく理解して、求める者に与えているだけのことである。

土台となる階級構造が壊れる時に精神が不安定になり、危機に晒される人々が多く発生する。日本はこれまで上流、中流、下流といった経済的な階層区分が多くの人々のアイデンティティーに深く結びついていた。よってそれらの階級構造が崩壊している今日、うつ病や人格障害などの精神的な病となって現れているように私には見える。

時代は大きく変わりつつある。世界的なパラダイム・シフトに従った考え方のチェンジが要求されているのだ。なら日本人は今後、生きてゆく上で自分を成り立たしめるために他者との間にどのような差異を求めてゆくことになるのであろうか。確かなことは出自や物質的な差異感覚を拠り所にしている人々が多く存在する限り、日本という国は決して救われないであろうということである。要するに日本人は今後、一体何の家来になるのか、一人一人がきちんと心に思い定めなければならないということではないのか。

私は市民の品性や知性の差異によって精神的に区画(階層)化された社会を志向しない限り、この国は滅びてしまうのではないかと危惧している。


小説『八日目の蝉』


龍のひげのブログ

おいおい、黙って人様の赤ん坊を連れ去るとは何たる事や。

一体どないな神経しとるねん。

子供の親がどれだけ心配し、嘆き悲しんでるかわからんのか、この馬鹿女。

そもそも住民票も戸籍もない子供を自分で勝手に名前を付けて、どないして育てていくつもりや。学校にも行かされへんやないか。

と、フィクションだとわかっていても腹が立ち、いらいらする。小説『八日目の蝉』(著者 角田光代、中央公論新社)の話である。

主人公の野々宮希和子は不倫相手の家に侵入し女の赤ちゃんを誘拐する。薫(カオル)という名前を付けて子育てをしながら逃避行の旅を続ける。そういう内容の小説である。全体の構成は大きく二部に分けることができる。前半は誘拐犯、希和子の視点で語られる。身元がばれそうになる度に、住む場所を移し変えてゆく。そのような危うく不安定な生活でありながら誘拐された薫の描写がやたらと可愛くて読む者の心を揺す振る。3年半の逃亡生活の後、ついに希和子が逮捕される場面で前半が終わる。

そして後半は何と17年後、誘拐された子である薫(本名、秋山恵理菜)の視点に変わる。誘拐犯の希和子を恵理菜は「あの人」と呼ぶ。この前半から後半へ、ぱっと主体が切り替わる手法が目がくらむような鮮やかさで小説世界のリアリティーに読者を引き込んでゆく。

一読してうーんと唸ってしまった。心の中で “なるほどなー” と何度も呟く。どこかやられた、という感じが残る。前半で誘拐犯、希和子の愚かさに対する嫌悪がかき立てられる。しかし後半で成長した恵理菜の独白に変わった時点で読む者の感情が不覚にも塗り替えられてしまうのである。最近、私はテーブルゲームのオセロに凝っていて定石や勝ち方を研究しているが、オセロに例えると前半部分で希和子に対する嫌悪で黒々と染まった心が、後半の最後にさあーっと白くひっくり返されてゆくような敗北感覚がちょっと悔しい。

確かにそうなのである。犯罪加害者が醜悪でなければならず、被害者は被害者というだけで必ずしも美化されなければならない理由はない。『八日目の蝉』は被害者である秋山夫妻(恵理菜の両親)の弱さや醜さを描くことによって虚構世界に真実の感覚と事件後の必然性を示している。そして加害者(希和子)の愚かさが、あまりに愚かなゆえに美しく輝く可能性があることも認めなければならない。

身勝手な犯罪を嫌悪する社会常識、道徳観念と歪んだ母性本能への寛恕がこの小説のテーマであるというと作者は嫌がるかも知れないが私にはそのように感じられた。愚かさの中に美しさを見つける大衆小説である。そして読者の心理がオセロゲームの白石と黒石のようにどのように移り変わってゆくかを読む力は女性作者ならではのものである。『八日目の蝉』はまさに女の小説である。女の目で見た世界ではなく女の世界そのものを描いている。もちろん男も登場するが男は皆、無力である。かつての希和子の不倫相手であり恵理菜の父親である秋山丈博は、恵理菜が戻ってきてからも家の中で置物のように動かず酒ばかり飲んでいる。恵理菜が子供を身ごもる不倫相手である岸田も恵理菜の父同様に存在感が薄い。何ていうか、この小説に出てくる男たちは女をものにすることが出来ても女の世界(論理)に立ち向かえないでいる。いや正確に言うと小説世界だけでなく、全ての男が女の論理に立ち向かうことなど考えもしない。・・・私以外は。

一口に女の世界と言っても濃淡がある。希和子が逃亡中の一時、身を寄せていた“エンジェルホーム”は女が最も濃い場所である。流産や堕胎の経験がある女ばかりを集めた共産主義的なコミューンであり、敷地内で栽培した野菜や加工食品を通信販売や車で近隣住民に販売して暮らしを立てている組織である。そこでは性差や財産所有、名前などの一切が否定され全ての執着を捨てることを要求される。また男が排除された女だけの世界でもある。

著者の角田光代さんがなぜこのような組織を小説の中に登場させたのか、その意図はよくわからない。しかし現代社会の“女”を表現するためには旧来の方法である男世界との対比ではなく、女の濃淡を描く他なかったのではないかという気がする。それで作品に陰影を持たせるためには最も女が濃い場所を書かなければならない必然性があったのではないか。しかし当たり前のことだが、女だからと言って女が濃い場所を好むとは限らない。むしろこの小説においてエンジェルホームは楽園などではなく、子供時代に理由があってその施設内で育てられた経験がある女性にとっては忌まわしい記憶以外の何物でもないものとして描かれている。因みに私が言うところの女の濃淡とは、女性一般の社会進出や地位とは無関係である。単に女性的な感性や女性優位思想の濃さに過ぎない。日本は先進国において女性の社会進出や政治意識が遅れているにも関わらず、女性的な感性ばかりを優遇して根本的な欠陥をごまかそうとするから世の中がおかしくなっているのだと思われる。女性は結婚することも子供を生むこともためらい、かと言って一人で生きてゆくことも難しい。女性の制度を悪用したり、極端に自己中心的な女性が増えて家庭が崩壊してゆく。当然、子供も不幸になる。この小説のように結婚しないで不倫に走る女性も多いであろう。また女性のモラル欠如を注意できるような社会土壌は皆無である。なぜなら女性感覚は商業ベースに強く結びついていて批判することはタブーだからである。

言っても無駄だとは思うが結局は政治が悪いのである。政治が悪いということは自民党が悪いということと同義である。なぜなら日本には自民党の政治しかないからだ。

現実世界にも子供を誘拐しないまでも希和子のようなタイプの女はたくさん存在する。共通した特徴は自分だけの原理原則、自分が思い描いた物語から離れることができないということである。社会性が欠如しているとも言えるが徹底して“自己肯定”である。希和子の場合は自分の原理原則や物語が社会的肯定の象徴である“母性”と結びついているから悪いことをしているという感覚がまるでない。私は前回の記事で日本人のマナーは基本的に“自己否定”であり、“恥じらい”や“控えめ”などの自己否定が失われた時にマナーは途端に悪くなる、と書いた。希和子の誘拐は自己肯定の極致であるとも言える。著者が希和子という人物像をよく理解できていると感心した点があるが、それは彼女のような人間の内面には自己否定の機能が失われているから基本的に反省がないのである。作品中における裁判の中で、被告人希和子は裁判官から「具体的に謝罪したいことはあるか」と聞かれて、「四年間、子育てと言う喜びを味わわせてもらったことを感謝したい気持ちだ」という場違いなことを言っている。謝罪は自己否定であるが、感謝とは自己肯定である。もう一つは希和子が不倫相手である秋山丈博の妻、恵津子からいやがらせ電話で言われた“がらんどう”という言葉に深く傷ついたということである。がらんどうとは空っぽという意味だ。希和子は秋山丈博との間にできた子供を堕胎しており、それが赤ちゃん誘拐の原因になっている。

あんたなんか、空っぽのがらんどうじゃないの。

あなた、自分の子どもを殺したんでしょう。信じられない。あんたが空っぽのがらんどうになったのはその罰じゃないの。殺された子どもが怒ってんだよ。ざまあみろ。

女の言葉はいつも相手の急所を射抜く。恵津子の言う“がらんどう”とは子供を産めない体という意味があるのかも知れないがそれだけではないと思う。もっと根本的な実在感覚に訴える言葉だったのではないか。(実際には希和子は病院で子宮内腔癒着と診断されたが手術を受ければ妊娠できる可能性があると説明を受けていた。)がらんどうとは中身がないということである。自己否定の機能がない人間にとって“中身”とは初めから無条件になければならない。わたしに中身がないなんて考えられない、希和子もそう思っていたに違いない。

ところがいきなり同性から、「あんたはがらんどうだ」と指摘されると自分という存在が揺らいでしまうのである。

私は希和子は人格障害者だと思う。この小説ではっきりさせておかなければならないことがある。子供を誘拐された被害者である秋山夫妻にも人間的に問題があると言えるかも知れないが、それでも彼らは正常である。しかし希和子はどこか異常だ。しかしその異常性が見えにくいのである。読者の中にも希和子の人格に病理を感じた人は少ないのではないだろうか。著者の角田光代さんは希和子が人格障害者の傾向が高いことを意識しながらこの小説を書き進めたのではないかと思う。現代社会はうつ病患者が急増しているが、人格障害者はうつ病以上に多いのではないだろうか。しかし人格障害とは平均からの乖離であるから、人格障害者があまりにも増えすぎると回りの環境に埋もれるように病理が一見、正常に見えてしまうのである。そのように考えると『八日目の蝉』のテーマは正常と異常の境界とも言えるのである。法律的には人格障害者であるからといって責任能力がないとはみなされないが、この日常生活に蔓延するプチ異常をきちんと見つめていかないと心神耗弱や心神喪失適用の問題は永遠に曖昧なままのような気がする。

作者はそのような社会的に微妙な問題には触れることなく、徹頭徹尾、人間そのものに温かな眼差しを注いでいる。それが女性的な優しさであるとするならば、われわれ男たちはもっと勇気を持ってタブーを恐れず発言していかなければならない時期にあるのではないか。

と、言っても無駄であることはわかっているが。

無駄ついでに書いておく。ああ年末ジャンボは当たらないものか。

有馬記念で一発勝負はどうや。