龍のひげのブログ -534ページ目

同窓会なるもの 2

それで同窓会の話しに戻るが、ある女性が私に話しかけてきてくれた。私はその女性のことをまったく覚えていなかった。それで正直に「申し訳ないけれど、私は覚えていないのです、ごめんなさい」と謝った。するとその女性は「一度もクラスが一緒になったことはないのだから無理もないね。でも私はものすごく、あなたのことを覚えているの。なぜならあなたは私にとっての初恋の人だから。」と言った。世間一般的には、同窓会ではありがちな退屈な話しである。しかし私には正直なところ天と地が引っくり返るほどの驚きであった。まさに驚天動地の告白である。中学時代に私に恋していた女性がいたとは考えられないのである。そんなことはこれまでの人生でただの一度も想像だにしたことがなかった。男は顔ではないが、私は女性に初恋の相手として選ばれるような端正な顔立ちをしていない。どちらかと言えば不細工である。小学校2年生になる私の息子はこの頃口が悪くなってきて私が何か注意すると、「何言うてんねん、不細工な顔してるくせに」と口答えする始末である。しかし、その女性は冗談を言っている訳ではなかった。なぜなら中学時代の私のことを、本人である私以上に覚えていてくれていることが話しをしていてわかったからである。私は野球部に入っていた。と言っても中学2年生の途中で止めてしまったのだけれど。その女性は野球部の練習場所が見渡せるという理由だけでわざわざテニス部に入って、いつも私を見ていたと言う。私が当時もっとも親しくしていた男友達の名前も覚えていた。週に1回ぐらいは私の家を見に来ていたと言っていた。家の表札がどのようになっていたとか私が全然知らないことまで彼女は覚えていた。私が中学2年生の時に書いた生活体験文の『とかげ』も覚えてくれていて、「“その日の晩御飯に出たおかずのきゅうりがバッタに見えてたべられなかった”でしょう。」と最後の一節を暗誦した。私は心底、驚いてしまった。確かに私はそのように書いたのである。普段、蜥蜴にゴキブリを食わせて喜んでいた私はバッタが食べられる光景にショックを受けて、その日きゅうりがバッタに見えて食べられなかったのである。当時いかにその文章が同級生たちに受けたからといっても30年前の話しである。クラス代表と学年代表で2回皆の前で発表しただけで文集のような形で残っているわけではないのだ。私の手元にさえ原稿はとうの昔に紛失してしまっている。“記憶”が全てであり、私のつたない表現は30年の時を超えて彼女の心の中で鮮明に生きていた。私は魂の中心にあるしこりが慰撫され、解きほぐされてゆくかのような静かな感動を味わった。

正直に言えば40代も半ばになればどのような女性であれ容貌や色香は衰えてゆくものであるから、そのようなロマンティックな告白は20年前にして欲しかったというのが本音であるが、もちろんそんな余計なことは口にしなかった。それで私は、自分は決して女性にもてるようなタイプではなかったはずなのに一体どこが良かったのかとくだらない質問をした。女性はどことなく雰囲気がよかったからだと答えた。私はその“雰囲気”なるものがどういうものだったのかもっと詳しく聞いて当時の自分を知りたかったのであるがそれ以上は聞けなかった。ただその女性は「他にもあなたのことが好きだった子がいたのよ」と言って二人ほどの名前を挙げたが、それらの名前に関しても私はまったく記憶がなかった。思えば私には元々冷淡なところがあったのかも知れない。

その女性の近況を聞いてまたまた仰天した。何とこれまでに4回も離婚していて今の相手とは5度目の結婚だそうである。双方の連れ子たちと新しい家族として一緒に生活しているとのことだった。3度目か、4度目の離婚の時には自分が慰謝料を支払ったと言っていた。聞いている内に私は脱力して座っている椅子からずり落ちそうになった。私はたった1度の離婚が出来ずに、どこかの夜店で買われて来て一夏過ごしたかぶと虫のように日に日に弱っている。まあ私の場合相手が応じないからであるが。もちろん離婚と結婚を繰り返すのが偉いというわけでもないだろうが、彼女の人生に対する貪欲さというかそのエネルギーには降参してしまいそうな気分を感じた。そんなパワフルな女性に30年前の一時期とはいえ初恋の相手に選ばれ思いを寄せられていたとは嬉しくもあり、また今日の我が身が不甲斐なく思えて居たたまれなくもあった。しかし、げに女とは恐ろしい生きものである。

小学校から中学まで一緒だった、大手TV局の子会社に勤めている男は信じられないことに私が小学校2年生の時に書いて校内放送で発表させられた作文を覚えてくれていた。その男に言われて初めて思い出した。そう、母の実家がある徳島に行くためにフェリー船に乗ったのである。そのことについての作文であった。私はその“フェリー”を変な発音で読んで教室で放送を聞いていたクラスメイトたちは爆笑に包まれたのだという。小学2年生といえば息子の年齢だ。当時の作文が誰かに覚えられているとは本当に信じられなくもあり、時空を超越したような感慨だった。その男が言うには私はめっちゃ作文が上手くて目立っていたのだそうだ。私という人間がそのように見られていたとは今回、同窓会に参加して初めて知ったことである。私は文章で誰かの記憶に深く残っている人間であった。私は生まれつきそういう人間だったのかも知れない。

いくつになっても自分自身を深く知ることは困難な道であり、驚きの連続でもある。

それでその日の同窓会は当初ほんの少しだけ顔を出すつもりであったのが気分が少し高揚していたためか、私が初恋の相手だったと告白してくれた女性も一緒に3次会にまで参加してカラオケで下手くそな歌を熱唱してしまった。

何ていうかその日は本当に白犬のように幸福な一日であった。

同窓会なるもの 1

今年の5月に中学時代の同窓会があった。ほぼ30年ぶりでの旧友たちとの再会であった。そしてそれは私にとって単に懐かしいというだけでは済ませない、自分自身の原点を探る回帰をも意味していた。

会場に立ち入ると当時の面影を残す顔も、見知らぬ人間に変身してしまったような顔もあった。しかし面白く思ったのはその人なりの身体の微妙な動かし方やしぐさ、佇まいが30年経った今も全然変わっていない事実を発見したことである。人間、顔は変わっても身体は変わらないのである。おそらく顔は社会性の反映であり、身体の動きがその人の終生変わらぬ本質なのであろう。

私はどのように記憶されていたのか。驚いたことに私は何と作文で皆に覚えられていた。私は今でこそ本に囲まれたような生活をしているが、高校卒業ぐらいまでは教科書以外の小説などは、ほとんど一冊たりとも読み通したことがなかった。しかしどういうわけか幼少より学校で作文を書くと先生に褒められたり、選ばれたりして皆の前で発表させられることが多かったのである。中学時代は夏休みの宿題で生活体験文というものを書かされた。私は中学一年生の時に“朝は眠たい”という奇妙なタイトルの文章を書いた。これがクラス代表に選ばれて体育館で発表させられることになった。一学年は8クラスあって8人の代表が全一年生生徒の前で次々と朗読し、その後生徒の投票で学年代表が選出されるのである。私は7~8割位の圧倒的な集票率で学年代表に選ばれた。詳しい内容は私自身が忘れてしまっているが、“朝の眠たさ”というものをさながら選挙演説のように、あるいは刑の軽減を情状酌量にて請い求める罪人のように切々と訴えたものであった。「夜は眠たいし、昼も眠たい。しかし朝はもっともっと眠たい」と締めくくると体育館が揺れるようにどよめいた。

現在、大阪市役所で企業誘致をしている男は、あれは中学一年生の時ではなくて大人の今に書かれたものであっても名作だと思うと言ってくれた。

中学2年生の生活体験文では“とかげ”という作文を書いた。当時、私はデパートで買ったちょっと珍しい蜥蜴を飼っていた。日本の蜥蜴のようにぬめっとした肌ではなく、鎧のように固くごつごつした茶褐色の皮膚で全身が覆われていて、その戦闘的な姿が格好良かったのである。餌は釣りに使うゴカイのような生き物が小さなパックで販売されていたが、私は自分で捕獲した別の生き物を同時に与えていた。それは何と“ゴキブリ”であった。初めに蜥蜴にゴキブリを与えたのは私の父であった。以後その光景を気に入った私が引き続きゴキブリを与えることになった。今では無くなってしまったが、当時透明のプラスティックで出来たゴキブリ捕獲器があった。餌におびき寄せられて、その容器に侵入すると出れなくなってしまのである。“一方通行、出口無し”というキャッチフレーズであった。その捕獲器にゴキブリが掛かると、蜥蜴を飼っていた水槽の容器に投げ入れた。そこからがちょっとした見ものであった。ガラス容器の中で蜥蜴とゴキブリの動きが一瞬止まるのである。獲物を襲う前の静かな緊張が漂う。そして次の瞬間に蜥蜴は電光石火の速さで跳びかかり、哀れなゴキブリは夜のような黒々とした羽を広げながら、むしゃむしゃと食べられてゆくのである。今思い返すとグロテスク極まりないが、当時の私はその光景を見て楽しんでいたのである。それである日の事である。私は自宅の近くで一匹のバッタをつかまえた。その時に何気なく蜥蜴の餌にしてやろうと思いついた。たまたま近くにいた妹にそのことを話すと、妹は「可哀想やからやめとき」と言った。私は、「かまへん」と無視してバッタを蜥蜴を飼育している水槽に入れた。いつものように蜥蜴は一瞬の静止の後にバッタを噛みくわえて食べ始めた。私はバッタが食べられてゆく光景を見て、ゴキブリでは感じなかったショックを受けた。何故かはわからないが弱肉強食の世界の不条理を見たように思い、バッタを餌にしてしまった自分の行為に罪の意識を深く感じて心が痛んだのである。ゴキブリの場合には強者の蜥蜴を格好よく思い、バッタだとナイーブな道徳感情が働くというのは単に正直なのか、子供らしいだけなのか、感受性として分かりやすいのか分かりにくいのか今もってよくわからない。しかし当時の私はどこか天才だったのである。それで私はその話しを作文に書き前年に引き続いてクラス代表として体育館で発表すると、割れんばかりの大歓声と笑いに包まれて、またしても圧倒的多数で学年代表に選ばれたのであった。因みに中学3年生の夏休みは、高校受験やら何やらで私の心の余裕はなくなっていて生活体験文は結局書かなかった。


テレサ・テンの声




昔からテレサ・テンの声が好きだった。彼女が歌う日本語の響きはどこか異邦人の美しさがあった。

内部の外部とでもいうべきであろうか。あるいはそこに留まりつつも通過してゆく矛盾の相克が結晶化しているかのような声だった。彼女が切々と女の恋心を歌い上げる時に我々はその言葉の深さを通じて日本的なるものの深層に触れていたのだと思う。テレサの美声は国境を越えているがゆえに図らずもナショナリズムの本質を現していた。歌ではなく、テレサの声そのものに私は偉大さを感じる。歌手の声とはその人の魂そのものでもあるのであろう。そしてテレサ・テンという存在はその声の偉大さゆえに政治に翻弄されることを運命付けられていたのかも知れない。

1995年5月、テレサ・テン(本名、鄧麗筠テン・リジュン)はタイのチェンマイで死亡した。噂ではテレサは台湾国民党の諜報活動を行っていて、1989年の天安門事件後、中国の民主化運動に傾倒し過ぎたために中国共産党によって暗殺されたという説がある。

もう一つの説はテレサの死は偽装であって現在も生存しているというものである。どちらもゴシップ的な流言蜚語の域を出ない情報なのかも知れないので真偽のほどは定かではないが、私は決して荒唐無稽のあり得ない話しではないと思う。また個人的には、後者の方が可能性が高いように考える。

中国共産党から命を狙われていたテレサはタイ、チェンマイのホテルに3ヶ月以上も滞在し変わり身の死体と自らが別人となるために整形外科医を準備していたのだという。その後、偽造パスポートでフランスに渡った可能性があるというのだ。テレサは1995年5月8日、恋人のフランス人カメラマンとタイ・チェンマイのホテルに滞在していた時に気管支喘息が原因で急死したとされている。(ミリオン出版『死の真相』文、片岡“幻”亮)

もし真実であれば映画を地でいくような話しではあるが、私は個人的な希望としてテレサには今もどこかで生きていてくれればと心より願う。

そしていつの日かテレサが歌うあの偉大な声をもう一度聞いてみたいものである。そのようなことを考えながらテレサの声に秘められた国境を越える力の根源を探るようにして、私は何度も彼女のCDを聞き返している。

私もテレサの声のように力のある詩を書いてみたいと思う。



泣き出してしまいそう 痛いほど好きだから
どこへも行かないで 息を止めてそばにいて
身体からこの心 取り出してくれるなら
あなたに見せたいの この胸の思いを
『別れの予感』 (作詞 荒木とよひさ)