龍のひげのブログ -533ページ目

彼岸花

何ゆえに紅く燃えるか彼岸花


紅く、紅く真理のように


鮮血の悲しみ色に染まるは


我が心の空、青さのゆえか

野生の哲学 2

仏陀にしても“野性的”という表現は似つかわしいものではない。仏陀は論理の人であった。著者は、「肉体を通じてこそ肉体を超える思想を獲得することができる」と述べるがパトス(情念)とは肉体の付属物に過ぎない。そもそも人間誰もが生きている限りにおいて肉体から離れることが出来ないのであるから、本来、生者はすべからく肉体主義者であると言えるはずである。健康の維持や追求以上に哲学的な領域において肉体を強調することは単にライフスタイルや趣味の問題に過ぎないと思う。私は“野生”や“パトス(情念)”という言葉自体に何ら偏見があるものではないが、宇宙の本質はやはりどこまでも“ロゴス(論理)”であると思う。西欧かぶれしていると言われるかも知れないが、これはとても大切な認識であると私は考える。

何かに憑かれたような踊り念仏や、地を転げるようにして霊の言葉を伝える巫女は、肉体的ではあるが宗教という名の“俗なる生”の一断面であって明瞭かつ玲瓏な“悟り”からは程遠いものであるように私には思える。

それでは身体というものについて、あるいは身体と精神の一致や不一致についてどのように考えるべきなのであろうか。私はそこに“社会性”が深く関係してくるように思えるのである。身体と精神の底流には社会性つまり制度が影響している。要するに身体と精神の調和はその地域や社会に独自なものであって、普遍的かつ超越的に論じれるものではないということである。

筆者は、インドの聖地ベナレスで沐浴場で舟に乗っているとき、船べりに半ば白骨化した死体がプカプカと浮いているにもかかわらず、その横でみんな嬉々としてガンジスの水を飲んだり、うがいをしている光景を見てインド人のすさまじい免疫力に羨望の念を抱いたと述べている。

一方で日本については、

「体を泥んこにして動物と戯れあったり、野山を駆けずり回ったりした経験もなく、抗菌グッズがもてはやされる清潔な社会に育つ若者の生命感覚が、根本から損なわれているのである。決して不衛生な生活環境を推奨しているわけではないが、社会があまりにも潔癖であろうとすれば、不可解な行動をとる病的人間は、増加の一途をたどることになるにちがいない。なぜなら、バイオロジカルな雑菌を毛嫌いし、それを抹殺しようとする社会は、生命の多様な存在形態を受け入れるだけの寛容性をもたない社会でもあるからだ。」

と憂慮している。

これらについても“野生”というものを社会制度の中でどのように考えるかという問題である。筆者の主張はよくわかるのであるが、日本で生きてゆく者として現実的に考えればあまり意味のある意見だとも思えないのである。

都会のマンションの一室で暮らす家族は、どうしようもなく“自然という野生”から隔離された感覚しか持ち得ない。しかし、その“潔癖”自体が問題なのであろうか。無理に“野生”を都会生活の中に取り入れようとして、たとえばマンションの浴槽に泥を入れて子供を遊ばせるようなことに意味があるのか。現実的には、そんな馬鹿なことをすれば配管が詰まって大変なことになる。

あるいは母親が子育てをネグレクトして子供に清潔な衣服を与えていなかったり、ろくに食事の後片付けもせずに蝿や蛆がたかるような不衛生な部屋に幼児を長期間、放置するようなことが日本の今日的な問題なのである。まさか、そのような“野性的な環境”の方が免疫力が高まるから子供の為だ、などというような論理は成り立たないであろう。

私が言っている事は屁理屈かも知れない。筆者が言う通り「人間が自然現象そのもの」であり、「自然には切れ目がない」ということは禅的な真理であろう。

しかし人間存在を自然との有機的なつながりにおいて考察するときに、その国の社会環境やシステムを飛び越えて結び付けてしまうことは、本当の問題の原因を見誤ってしまうという点において危険だといえるのではないだろうか。

日本とインドを比べることは無意味なのである。日本ではガンジス川に浮かぶ死体はおろか、車に撥ねられた犬や猫の死体すら役所に電話すればすぐに回収してもらえる。私はそれでいいのだと思う。アスファルトの路上で犬や猫の死体がいつまでも放置されて蛆を湧かせているのは“自然”ではない。山奥の小屋で馬の出産シーンを見て感動するのとは根本的に異なると思う。

筆者の言う“野生”の意味はよくわかるし刺激的で面白いのでもあるが、日本の社会問題について言及するのであれば、“野生を取り戻す”というような茫漠とした考えは見当外れであるだけでなく、ますます世の中がおかしくなるような気がする。これからの日本の再生のために必要な、“日本の野生”というものをよく吟味した上で、それをどのように社会制度に取り込んでいくかも研究してゆく必要があると思われる。但し私は、日本の世界的な自殺率の高さや、うつ病や人格障害などの急激な増加、原因のはっきりしない猟奇的な犯罪は筆者が主張するような肉体を重んじる野生主義では決して解決しないように感じられる。単に個人レベルで肉体と精神が一致すれば、日本社会全体が健全化に向かうなどというような牧歌的な状況ではない。筆者は日本を離れている期間が長かったゆえ、日本の深刻さが今一よく見えていないのではないかとも思った。

日本の問題は、やはりきわめて政治的なところにあるのだと私には思われる。

最終的には民衆は社会環境に適合するしかないのである。自殺や精神障害も一種の適合だと思われる。政治家には何よりも問題の本質と将来を見通す能力が必要だと思われるが、日本の状態はあまりに悲惨である。

下級役人と何ら変わらないような考え方しか出来ない人物が首相になれば、間違いなく国民は不幸になる。

次回は日本が不幸を脱却する具体的な方向性について私見を述べたい。

野生の哲学 1


本は買って棚に飾って置くものではなく読まなければならない。

『「野生」の哲学―生きぬく力を取り戻す』(町田宗鳳著、ちくま新書)は、書店で私に買われてから5年程経ってようやく読まれることとなった。書評を書くには遅きに失した感があるが、私には常に読むべき価値のあるものを選択する能力はあるであろうことを確認できたと言っておく。

本書のテーマは「野生を取り戻す」ことであり、「自己の本然的生命力としての<野生>を回復し、より深い次元からの「生の明るさ」を獲得するには、どうすればよいのか、」を考えることにある。

ニーチェの哲学にもつながるような内容は刺激的であると同時に、いかにも閉塞感の漂う現代日本に相応しいものであるとも言える。しかし私は著者の考えに必ずしも全面的に賛成できるものではない。あえて同書の内容に私なりの批判を加えることによって、「野生」についての思考を深めることを試みてみたい。

まず著者の経歴が際立っていることを述べなければならない。幼い頃に家を飛び出して20年間も禅寺で肉体労働である作務に明け暮れた後、30歳をゆうに越えてからアメリカ東部に渡り、掃除夫や運転手の仕事をしながら学究生活を送るようになった。そしてアメリカ東部の大学で14年間過ごした後、シンガポールに移って2年半教鞭をとり、日本には2000年の暮れに帰国した。海外の一人旅が趣味でもあるらしい。著者のこれまでの半生はまさに“野生的”である。また自ら“肉体主義者”であることを自負しておられるだけあって、頭の中で考えられた机上の空論ではない説得力がある。

しかし同書の内容を総括して言えることは、著者の「野生」という言葉に対する使い方や定義が曖昧なまま広範囲に用いられており、軽く読む程度には気にならないのであろうが、少し深く考えて見るとどうもしっくりと来ない部分があるのである。かいつまんで例示する。

たとえば著者は、根源的自然としての<狂い>について言及している。

「人間性の最奥に潜む生命感情を<狂い>と呼び、それに何らかの形で触れることが、宗教体験の本質にほかならないと論じた。」

著者の別の著作である『<狂い>と信仰―狂わなければ救われない』(PHP新書)を引用しながら「悟り」と「狂い」は紙一重であり、「狂い」の体験なしには「救い」もまた存在しないと説く。著者の論ずる<野生>はこの<狂い>と強いつながりをもつものであるということである。

「<狂い>には無意識の闇の中に姿なくわだかまる怪物のような不気味さが漂うが、その得体の知れない代物が、ある程度、意識の光を浴びるところまで浮上してきて、もっと直接的にわれわれの人格やライフスタイルに関わりをもち始めれば、それが<野生>となる。つまり混沌とした根源的生命が顕在化あるいは意識化したものが、私のいう<野生>なのである。」

またロゴス(理知)とパトス(情念)の関係についての考察においては、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の言葉の背後には、感情や感覚など身体的な要素を、理知的思惟や精神の自立を妨げるものとして、極力排除しようとした基本思想があり、それはロゴス(理知)の過大評価であり、生命活動としての身体性の役割がまったく無視されていると批判する。

デカルトは、「ロゴスを偏重するあまり、人間という自然現象が必然的に抱える曖昧な要素が、ばっさりと切り捨てられているのである。人間性の<狂い>や<野生>が抹殺されたところに、果たして全人的な人格が成立するのか、私としては大いに疑問とするところである。」

「情念としてのパトスが疎外されてしまうと、合理的な思考を支えているロゴスも活力を失ってしまうわけである。」

「いわばロゴスとパトスは夫婦関係にあるといってもよい。~(略)~いささかロゴスの亭主関白気味であった文明社会に、押さえ込まれていたパトスが失地回復をして、ロゴスとの間に健全なバランスを築きあげることが不可欠なのである。そしてロゴスとパトスが激しくぶつかり合うところに、<野生>という新しい知のパラダイムが止揚してくるわけである。」

言わんとするところは良くわかるのであるが、はたしてそうであろうか。たとえは悪いかもしれないが、麻原彰晃が逮捕前のTV出演時に語った言葉で私の記憶に残っているものがある。

麻原は「ある程度の思考力がなければ悟れない」と言ったのである。私はそのセリフを聞いたときに、この人は“わかっている”んだなと思ってしまった。“悟り”とは思考力で成就されるものではないが、思考が出発点となるためにある程度の思考力がなければ始まらないのである。それで思考を通じて日常的思考を支配する論理を突き抜けたところにある世界とは、より高次な論理構造なのだと私は思う。そのプロセスはあまりに困難で深い苦悩に満ちている。道を歩む者は必ず魔境に陥り悪魔と出会うことになる。よって精神だけでなく生身の肉体の力をも総動員させて立ち向かわなければ、まさに“狂って”しまうのだ。

オウム真理教と言えば、ヨガの厳しい修行などで身体性を重視する体育会系的なイメージが一般的にはあったのかも知れないが、肉体と精神を対等なパートナーとして見るような視座はなかったのではないかと私は考える。少なくとも宗教的な視点で見る限り、肉体とは道具なのではないか。