死刑制度について思うこと
子供殺しの畠山鈴香被告が減刑を求めて最高裁に上告した。死刑を求めていた検察が上告断念を表明し、畠山被告の死刑が回避されることが確定した上での上告である。
もちろん被告の権利であるから、控訴審の判決が出る前に言っていたこと(上告しない)と違うと非難することは誰にもできない。しかし何の理由もなく愛する我が子を無残に殺害され、その後きちんとした反省の色すら見せられることもなく、ただ自己権利としての減刑を求める被告の態度に遺族が感じるであろう憤りややるせなさを想像すると、私の胸中は怒りで赤々と燃え上りそうである。畠山被告の弁護人は、被告は反省の気持ちがないのではなく、反省の仕方がわからないだけだ、などと愚にも付かぬ詭弁を弄していたことも本当に腹立たしい。
私の目に畠山鈴香という女は、女と男の違いはあっても大阪教育大付属小学校、児童殺害事件の宅間守と重なって見えてしまう。子供殺しであるということ、決して反省しないこと、きわめて自己中心的な性格であることなどの共通点を考えると、もし神が人間の魂を昆虫標本のように分類すれば、まさに畠山鈴香と宅間守の中身は同じモノである。
イギリスの作家コリン・ウィルソンは人間は神と動物の間で宙吊りになった不安定な生き物であると書いていたが、私の定義では人間とは人間の皮を被った何物かである。人間とは“仮の姿”である。よって人間の本性というものはない。獅子や象、鳩など動物の世界はそれぞれの種の本性に基づいてほぼ正確に生が営まれている。ところが人間には個々の本性しかない。だから人間世界は予測不能でいつも混乱しているように見える。人間は共通した本性を持ち得るまでには進化していないとも言える。悠久の動物進化の記憶から完全に抜け出せていないから、雑然とした生の多様性を人類は本質的に孕んでいるのかも知れない。おそらく高度な進化を遂げた地球外生命の宇宙人は共通の利他的知性と利他的本能を有しているであろう。そうでなければそれまでに、その星の文明や人類は滅んでしまっていたであろうからである。ともかく現在の地球上では理由もなく罪のない子供を殺し、反省する心の働きがまったくないような本性の持ち主も人間の一部として認めなければならない。そのような人間に対してどのように考え相対するか、これは社会制度の問題である。ということで“死刑”について考えてみることにした。
先ず初めに、日本において死刑制度存続の賛否についてアンケートを取れば、80%以上の人々が賛成し、国内において死刑はほぼ当たり前のことと受け止められているという事実がある。しかし世界的に見れば、ヨーロッパでは死刑廃止をEU加盟への条件としていることもあって全面的に廃止、あるいは執行されていないなど、少なくとも先進国においては死刑制度を存続している国(日本とアメリカ)は例外的なのである。私も基本的には、現段階の日本において死刑制度が存在していることの必要性や妥当性を全面的に否定することは出来ないので消極的に賛成であるが、方向性としては世界の潮流に従うように徐々に廃止へと向かってゆくべきであると考える。必ずしもアメリカが世界の潮流の源ではない。よって近年の日本における死刑執行の増加に私は反対である。以下、具体的に死刑廃止へと向かうべき理由について述べる。
第一に、基本的に“死”が刑罰足り得るのかという思いが私にはある。言うまでもなく、生命あるものは必ず死を迎える。天寿を全うする人だけではなく、毎年、事故や病気、災害等で亡くなるたくさんの人々が存在する。また死は全ての人間にとって不可避性の観点からだけではなく、善悪をも超えて公平であると考えるべきだ。悪人が死ねば地獄にいくと信じている人がいるが、もしそうであれば刑罰としての死刑など必要ないはずである。悪人が死んでも本当に地獄にいくかどうかわからないから死刑は必要だという理屈になる。よって厳密に言えば死そのものが罰なのではなく、不自然な形で強制的に生命を剥奪される死刑執行までの“生ける”恐怖に死刑の刑罰としての本質があると見ることができる。因みに鳩山邦夫元法務相は当時、死刑執行に関する新聞社のインタビューに「死刑囚は死後、地獄にいくことになる。私が死ねば天国にいく。」と答えていたように記憶している。死刑執行を命令する立場の重責と重圧から出た自己肯定の言葉であることはわかるが、本当にそのような考えで次々と執行命令を出していたのであれば正に“死神”ではないのか。東大主席卒業か、何か知らないが、あの人物の奇異な発言は一体どのような思想背景から生まれるものであろうか。
第二に、第一と関連したことではあるが“死”で罪が贖えるのか、という命題である。「死によって償う」思想は武士道における切腹から連綿と日本人の精神に深く刻まれ、受け継がれてきた。切腹や特攻隊の美学と、現代の死刑制度は日本人の死生観において深く関係しているように思える。西洋的な原罪の考えでは、死んで罪が贖えるものではない。死のうが、生きようが永遠に人間の罪は残るのである。ところが日本的な死生観では、死んで償うとは言いながら本質的には“けじめ”を付けているところに重要な意味がある。贖罪とは無関係にけじめの儀式として日本の死刑は執り行われる。もちろんそのような日本的な死刑が必ずしも間違っているということは出来ない。死のけじめは社会全体に、生き続ける者の日常に、再生と活力をもたらす力を持つ。また被害者遺族の悲しみも少しは和らげるであろう。
しかし死刑囚の死そのものが罰にならず、罪を贖うものでもないという前提で考えるならば、やはり死刑囚が死の恐怖に向かい続けることの苦悩から生まれる人間らしい反省や悔悟の心情を何よりも重視すべきであると私は考える。何故あえてこのようなことを言うかといえば、前述の宅間守は自ら死刑判決の控訴を取り下げて死刑を確定させ、6ヶ月以内に執行せよとの法律を根拠に最後まで反省する気持ちを持とうとしなかったからである。彼にとっては死そのものよりも、拘束された環境で長期間、死を通じて自分自身に相対させられることの方が恐ろしかったのではないであろうか。それでさっさと死刑を執行させて死んでしまったが、これでは実質的に自殺である。私が上記で述べた死刑における死の無意味さを、宅間は社会に対して挑発的に証明するようにして極刑に身を投げ出した。これでは殺害された子供たちも浮かばれない。畠山鈴香の態度にも宅間に近いものを私は感じるのであるが、彼らが我々に教える教訓とは一体何であろうか。
日本の死刑制度のあり方について結論を言えば、私は死刑判決は原則、死刑でよいと思う。たとえば死刑確定囚であっても、いずれかの時点で無期懲役に減刑する機会を設けてもよいのではないか。この方が死刑判決を出すほうも出しやすいであろうし、囚人の自己反省も自ずと深くなるであろう。もちろん死刑と無期懲役の差はあまりに大きいので囚人の気持ちがいつまでも安定せずに返って残酷だという指摘もあるであろう。しかし確定囚の執行も少なくしていき、死刑制度そのものを形骸化させてゆく方向を日本は将来的に辿ってゆくべきだ。もちろん私自身が殺人被害者の遺族となれば話しは別で、一時間でも早く死刑執行を願うようになるかも知れないが、それはそれである。遺族感情と社会的正義のあり方は分けて考えるべきである。
私は日本が死刑廃止へ向かうことが、健全な国家になってゆく先駆けとなるような気が強くするのである。何はともあれ今の日本はあまりに病んでいる。
春と魂
ただ何気なく
辺りの光景を眺めている時にふと
肉体とは別の魂の感覚に気づく。
子供たちの笑い声、
小風にそよぐ色とりどりの、のぼり旗、
目の前を通り過ぎる人々の一瞬の表情、
駅前で売られているカンパニュラの花の透き通る青紫が
今、確かに私が生きていることを証明するかのように
五感に沁み入る。
いつの間にやらすっかり春めいて
私は雑多な街角にただ一人
茫洋と佇んでいる。
生者の身体と
死者の心で。
幸福の条件
TVの“やらせ”や“捏造”体質が放送業界内だけの問題だと考える人は社会全体の仕組みが見えていない。マスコミは第四の権力と言われる通り、裁判や警察、政治などと表面的には独立しているが水面下では同じ問題の構造を共有しており、時に同調的に動く。それら各管理者的組織の同調(結託)構造が、国民の幸福や利益を収奪していることを理解できる人間は意外と少ない。私が述べていることは抽象的な理想論ではなく、身近な生活感覚に根ざした具体的な話しなのである。やらせ報道は、冤罪や癒着を生む社会構造の欺瞞的象徴である。
前回の記事に書いた「真相報道バンキシャ!」虚偽報道問題をわかりやすく分析し、以下具体的に例示する。
1、 日本テレビは、謝礼要求がなかったことを信じるに足る理由であったと説明した。謝礼要求の有無は本来、情報の真偽と根本的にまったく無関係のはずである。無関係の要因を適当に結びつけて警察や裁判所が恣意的に判断すれば間違いなく冤罪が発生する。皮相的な尤もらしさの感覚で社会全体が同調することの危険性において日本は遥かに限度を超えている。女性の訴えだからというだけの理由で痴漢やDVを全面的に認めることなどがその典型例である。
2、 岐阜県庁は番組の虚偽報道によって無実を確認するために通常の業務を妨げられ、職員の手間や労力などにおいて損失を被った。それら損失は元をただせば岐阜県民や国民全体の税金に負っているものである。よって筋論で言えば、岐阜県は日本テレビに対して損害賠償請求すべきである。日本テレビは損害賠償すべき道義的責任があり、またその経済的能力も有している。ところが岐阜県は絶大な社会的影響力を有しているマスコミ資本と関係が悪化することを恐れて筋を通すことができない。これは地方格差に基づく不平等な癒着の構造である。
3、 仮に岐阜県ではなく東京都や大阪府のような大都市であれば、今回の虚偽報道に対して敢然と日本テレビに対して損害賠償請求したかも知れない。裏返せば岐阜県は、“裏金”に対して前科のある力の無い地方だから、日本テレビサイドに甘く見られてターゲットにされた可能性もないとは言えない。単に岐阜県が被疑者不詳で刑事告発するような行動に出ることが想定外であったから、このような事態を招いたのであろう。これは正に冤罪発生の常道パターンであり、弱いもの苛めの縮図であるとも言える。
4、 常識的に考えれば日本テレビのような圧倒的な力を持つ大組織が、僅か1~2万円の謝礼金目当ての男に騙されたと考えるのは不自然である。むしろ逮捕された男が僅か1~2万円のはした金で、日本テレビに利用された見る方が自然である。しかし警察は日本テレビに刑事責任が及ぶような取調べを逮捕された男に対してはしないであろう。これは警察組織とマスコミの癒着関係を示すものである。
5、 現に警察や検察組織の“裏金”摘発はタブーであり、大手マスコミが決して触れようとしない領域である。また下手に内部告発しようとするものなら、三井環氏のように別件逮捕されることになるから恐ろしい。これは、冤罪についても同じである。警察組織との関係を重視しようとするマスコミは、大都市管轄の冤罪摘発は明らかに避けている。TVドラマや映画などの興行における道路利用の許認可や、身辺警護などにおいて世話になることが多いので、大都市警察を敵に回すことは出来ないからだと思われる。見せかけの“正義”概念を共有しつつ大衆を支配、管理している点も警察と大手マスコミは共通点が多く、組織としての性質がよく似ている。たまにテレビ朝日が警察の冤罪問題を取り上げるが、いつも高知県などの地方都市が舞台となっている。
6、 「バンキシャ!」虚偽報道問題の報道を見てもわかる通り、マスコミ各社は業界全体に累を及ぼすような危険性のある問題に際しては、互恵的におざなりな報道しかしないものである。「バンキシャ!」に関して言えば、日本テレビはあくまで被害者であり、日本テレビの責任は一人の男に騙された被害者側の責任範囲に留まるものであるという誘導報道に終始するということである。これはマスコミ内部の癒着であるとは言えないか。
前回の記事を書いてから、私の眠りは浅くなった。日本という国は外交的に弱腰すぎると言って批判されることが多いが、国内的には結構恐ろしい国なのである。外形的には共産主義や社会主義国家ではないから、よく注意してじっくり考えないと見せかけの正義に騙されてしまうことが多い。我々の市民生活は悪魔の鋭い鉤爪によって、癒着と冤罪発生のシステムで裏側から強力に束ねられ、抑圧されているのである。長引く景気の低迷も本当は目に見えない日本の悪魔的な管理システムに原因があるのであって、一部の資本や権力とは無縁の我々一市民がもっと賢くなれば、物質的にも精神的にもはるかに豊かな生活を享受できるはずなのである。と言っても日本の民主主義的な洗脳に慣らされた人々に何を訴えても空しいだけである。
空しいだけでなく、正直なところ私は恐ろしい。
生きることが、書くことが。