龍のひげのブログ -530ページ目

布団の中で考える私

布団に入って体が温まってくると

私は、だんだんと夜の底に溶けてゆく。

ミルクのように白々しい私の意識は、コーヒー色の夜空に

攪拌されて消えてゆく。

ああ、私を手放すとは何と気持ちがいいことであろうか。

死ぬ瞬間にも人はこのような

宇宙と一体になる甘美な感覚を味わうのであろうか。

しかし夢の中の私は幸福とは言えない。

いつも見知らぬ町で道に迷い、焦っている私がいる。

虚構の世界で何故私は迷うのだ。

そもそも私とは一体何だ。

死んだ後にも夢のように私は存在するのか。

あの世が本当にあると誰か言うのか。

それならよく考えていただきたい。

肉体がなく、名前もない私の意識が

どうやって死後、私であり続けることが出来るのだ。

我と彼の区別がない世界で

私に何の意味がある。

私という“こだわり”は物資世界にしかあり得ないはずである。

死んでしまえば恐らくは虚無だ。

いや、ちょっと待て。そのような非情な考えは間違っているし許されない。

大人はいいが、幼くして亡くなった子供たちの私はどうなるのだ。

あのような無垢で清浄なる魂が霧散してしまうことなど、全能なる神がお認めになるはずがない。

よってあの世が存在する可能性は高い。そうであるべきだ。

そしてあの世とは全体と部分、融合と個別の可逆なる世界である。

忘却の中で、いつでも私が私自身に立ち返れる世界でもある。

やっぱりナンセンスだ。あまりに通俗的過ぎる。

だからこの世に霊能者や預言者がはびこるのである。

ああ私は迷っている。あの世でも私は夢の中のようにさ迷い続けることになるのか。

それだけは、いやだな。ああ、それだけは勘弁してくれ、と

あれこれ考えながら

あの世があろうと、なかろうと

夜に溶け、眠りの中へ消えてゆく私は、

温かい布団の中にいる。

携帯文化の弊害

最近の新聞記事で特に気になったものについて感想を書くことにする。

11月22日、読売新聞朝刊に『ネット殺人予告 別人逮捕 三重県警他人の携帯悪用見抜けず』の見出しで掲載された事件である。あらましは以下の通りである。

今年の7月17日にインターネットの掲示板「2ちゃんねる」に殺人予告の書き込みがあった。内容は三重県桑名市の遊園地「ナガシマスパーランド」で「水着女を刺し殺します」という内容であった。桑名署は8月27日、使用された携帯電話の所有者で飲食店店員K氏(39)を逮捕した。K氏は否認し、書き込みの当日、勤務先の店に携帯電話を置き忘れていたことが判明する。K氏は17日間拘置された後、処分保留で釈放された。その後の捜査で当時、同店の入るビルで警備員をしていた会社員の男(24)が実際に書き込みをしたとして威力業務妨害容疑で21日に逮捕された。その男は7月7日にも鈴鹿サーキットの遊園地で無差別殺人をすると同掲示板に書き込みをした疑いで11月6日に逮捕されていた。

この小さな新聞記事を他人事だと流し読みにしてはいけない。17日間も拘留されるということは大変なことである。バカンスで海外旅行して過ごす17日間はあっという間であるが、拘置所の17日間は地獄である。無実の罪による拘束であれば尚更のことである。K氏は単に運が悪かっただけなのであろうか。あるいは携帯電話の管理が悪かったということで自己責任になるのか。言うまでもなくこのような事件は誰にでも起こる可能性がある。そもそも携帯電話とは置き忘れたり、失くしたりするものである。携帯電話を使い始めたばかりの高齢者の方には、若者たちのように携帯電話が体の一部であるかのような密着感覚はないので特に危険性が高い。またいくら注意していても実際には身体の一部ではないのだから24時間肌身離さず持っている事は出来ない。風呂に入っている時や寝ている時はどうなるのだということになる。このような悪質ないたずらで無実の人間が17日間も拘束されるような社会は間違っていると思う。

しかし秋葉原殺傷事件のようなケースがあるので警察は強権的に動かざるを得ない。本当に殺害予言が実行されてしまったときに責任が問われてしまうからだ。また今回の新聞記事見出しは“他人の携帯悪用見抜けず”と警察の捜査ミスを批判するかのような文言であるが、現実にはいくら警察でも見抜けるものではない。殺害予告があって、証拠物件としての携帯電話があればその所有者が逮捕されるのは当然だとも言える。携帯電話の供給企業側にできる具体的な予防策は、書き込み時の本人認証を義務付けるということである。簡単に誰でも気安く書けるようなものから、携帯電話の所有者本人にしか書けないように(ネットに接続できないように)制限することは今や技術的にさほど難しくはないであろう。

しかし私が考えることは、そこまでして携帯電話から掲示板への書き込みは必要なのかということである。落書きやいたずらを誘発するとまでは言えないかも知れないが、それに近い要素はあるのではないのか。

証券会社と取引がある人ならわかると思うが、ここ一年くらいで証券会社営業マンによる投資信託などのリスク説明がやたらとしつこくなった。私はグローバルソブリンなどの高利回り配当商品を元本変動のリスクを抑えるため毎月、小口で分散して買い増している。何年も前から電話で口数を伝えるだけで買い続けてきた。それが最近は購入するごとにわかりきった説明を長々と聞かされなければならないので鬱陶しくてならない。その社会的な背景は携帯電話からネットに接続して、簡単に株や投信などの金融商品を購入し大きな損をする若者層が増えたので、法律改正がなされ証券会社による顧客へのリスク説明義務が厳しくなっているのである。それこそ自己責任の問題だと思うのだが、携帯電話の多機能化が世の中を振り回している現実は随所に見出される。

数年前に携帯電話の機種変更をした時のことであるが、当時私が使っていた携帯電話メーカーが他メーカーと統合するので、その統合先メーカーのものに機種変更して下さいと言われ、仕方なく近くの携帯販売店へ手続きをしに行った。

私は写真撮影などの余計な機能は一切いらないと言うのに、販売員はその電話会社の機種には写真撮影機能がついているものしかありませんと言う。それで仕方なくその中の一つに決めて機種変更したのだが、未だに一度も携帯電話で写真撮影したことがない。大体私は携帯電話で写真撮影する時の、あの“ガシャ”という仰々しく下品な音が気に入らないのである。盗撮防止か何か知らないが、元々必要がないものを押し付けられているだけなのに何であのような不快な音を聞かされなければならないのか。間違って誰かに盗撮犯扱いされて警察に突き出され、愚かにも真実を訴えて否認し続ければ3週間拘束されることになる。そのような“危険な機能”を搭載する“必要性”は一体どこにあるのか。そういう事にまったく無警戒な大多数の人々の感覚が私にはわからない。

機能を顧客が選択するのではなく、無理強いされることは資本主義社会の一側面である。そこには多機能や高性能が誰にとっても善であるという思い込みがある。そして、そのような常識が社会を牽引する推進力になっており、今の時代においては家電製品や自動車よりも携帯電話が経済を支える進化的な役割を担っている。よって携帯電話とは生活の手段でありながら、その物自体がひとつの思想性を帯びてくる。代表となるキーワードが、宣伝コピーにあるような“つながっている”という安心感や癒しなのであろう。そこにある基本的な考えは簡単に言うと、“孤独ではいけない。常に誰かと結びついている必要がある。”というものである。この考えの訴求力は若者たちに対して強大で支持されやすいものである。しかし一方でそのような連帯気分から脱落した人間たちの疎外感や焦燥感を増幅させてしまう側面がある。秋葉原殺傷事件の犯人や殺害予告を書き込むような人間は、大衆的な“つながり思想”の負の側面を象徴しているように思われる。

しかし時代は微妙に変わりつつある。2~3年前には、メールの着信内容を気にして駅や路上など公共の場所で半ば神経症的なまでの熱心さで携帯画面を見つめている人々の光景が多く見られた。自転車を乗りながら、あるいは車を運転している信号待ちの時に携帯を操作している人間も多かった。赤ん坊を連れた母親がメールに心を奪われている場面を見ると他人事ながら心配になったりもした。しかしこの頃はそのような携帯執着的な気配が少なくなってきたような気がする。マナーの問題というよりも、また国民が携帯に飽きてきたからでもなく何となく世の中の空気が変わってきて携帯電話が本来の生活手段としての地位にゆっくりと戻ってきているように私には感じられる。もちろん最近、新発売されている携帯電話はユビキタス化への一途であるが私にはどこか時代感覚に逆行しているように感じられるので爆発的なヒット商品は生まれ難いのではないかと考える。

因みに私の携帯電話は上品な性質で、新しい季節の訪れを知らせてくれるかのように1シーズンに1回ぐらいしか鳴ったり光ったりしない。よって沈黙が常態だから、たまにけたたましく電子音を鳴り響かせると私は家の中に飾ってある人形がいきなり口を利いたかのようにぎょっとして驚くことがある。その程度の使い方でしかないが日常生活に不自由は感じないし、負け惜しみでもないがあまり寂しいとも思わない。資本主義経済は幻想を生み、幻想の中で自己増殖する。その増殖システムから外れてしまった人間は本来ペナルティーとして孤独や疎外感を感じなければならない。しかし万人がそのようなゲームに参加しなければならない理由は特にないのである。ゲームのルールや勝者は時代によっても変化してゆく。常時、誰かとメールでつながっているという状態は幻想の中で育まれた一時の人生ゲームである。幻想を幻想と知って自らの内なる感覚で生きてゆくことが出来れば、他者を傷つけたり他者に傷つけられることなく自然と調和が保たれる社会が成り立つのだと私は信じる。

普通に真面目に生きている人間がいきなり逮捕され17日間も拘束されるようなことは絶対にあってはならないことだ。しかし我々の日常生活はそのような目に見えない地雷がいたる所に埋め込まれている社会にある。いつ悪意という名の地雷を踏んでしまうかわからない。だから我々は自分のことだけを考えるのではなく、社会の原理原則やしくみを深く理解する必要がある。そうでなければ、いざという時に誰も救ってくれないであろう。

我々は既に経済至上の幻想によって逮捕され、拘束されているのである。

在日的感性と日本の問題

酒飲みにとってバーとは酔いながら知見を磨く社交場である。

私がよく行く馴染みの店は、場所的に在日の人が多い地域である。よって客も在日が多いようだ。在日の人々は地域で独自のネットワークを持っていて皆、事情通である。彼らは独特の感性を有していて話していて飽きない。また私が知る限り真面目な人間が多い。だから私は基本的に在日の人々が好きである。というよりも相性がいい。それで自然とそのような店に足が向くのであろう。

偶然ではあるが、私が現在離婚問題で世話になっている弁護士も在日である。最初にその弁護士に相談してから1年以上経つが、それ以前にも何人かの弁護士に依頼や相談をしていた時期があった。何らかのトラブルで弁護士に相談した経験がある人ならわかるかと思うが、大体において弁護士の態度は高圧的で偉そうである。時間を切売りしている職業だから仕方ない部分はあるが、少し話しを聞いただけで頭ごなしに一方的な法律解釈を押し付けてきたり、それを理由に断ってくる。ビジネスライクというよりは日本の司法全般における権威主義的ないやな臭いがする。よって現実には誰かの紹介なしに弁護士を見つけることは非常に難しい。だから私は橋下知事のようにTVに出演してふざけているタレント弁護士が嫌いなのである。現在依頼している在日弁護士先生にはそのような権威主義の臭いがない。ごく自然に対等な目線で話せるのである。プライベートな付き合いはないが、それこそいつでも飲みに誘えそうな気安さがある。

私はその弁護士先生は帰化しているものだとばかり思っていた。帰化していながら日本人名ではなく韓国人名を使っているのだと考えていたのである。世間話をしていた時の雰囲気から何となくそのように感じていただけであるが。ところがある日、その馴染みのバーで店主相手に在日の帰化について話しをしていた時のことであるが、わたしが弁護士の名前を口にすると店主はその姓なら恐らく帰化していないと思います、と言うのである。どういうことかと言うと、日本に帰化して使える韓国人名、朝鮮人名というのはいくつかに限られていてその弁護士の名前はそれらに該当しないというのである。弁護士資格の国籍条項が撤廃されていることは知っていたが、帰化して使える帰化以前の本名に制限があることは初めて知った。バーでの会話は馬鹿にならないものである。いや、結構勉強になる。

その店主は20代後半くらいの若者であるが、父親が日本人で母親が帰化していない韓国籍であるということのようだ。従兄弟が朝鮮系の学校に通っているということだから、あるいは母親は朝鮮国籍であるかも知れない。このあたりの問題はかなり複雑で微妙なようである。両親の国籍が異なる子供は確か、21歳か22歳の時点でどちらかの国籍を選択することになっている。店主は日本国籍を取得したようだ。しかし店主が付き合っている彼女は近くの焼肉屋の娘で韓国籍のようである。こういう話しを聞いているのは中々面白いものである。

店内で客同士が「帰化しはったら、よろしいやんか。前科はないんですやろ。前科あったらあかんけど、なかったら簡単でっせ。」

などと言っている話しを聞くと、そうか前科があると帰化出来ないのかと初めて知ることとなる。なるほど国の立場でならそういう制度にならざるを得ない意図はよくわかる。単純に不良外国人がたくさん日本人になられたら困るということであろう。しかし既に長年にわたって日本人と同じように日本に住んでいるのであれば、前科の有る無しは帰化を認めるかどうかとは無関係ではないかという気がしないではない。

酒場で小耳に挟む程度の話しであるから深いところまではわからないが、私が受ける印象ではほとんどの在日の人々は日本国内で政治とは無関係に生きている。特に今時の在日や日本に帰化した若者たちは全然すれていない。もちろん私が出会った人々がたまたまそうであっただけのことかも知れないが、国籍や自己のアイデンティティなどの重い十字架を引きずって生きているようには見えないのである。また日本の政治や歴史に対しても恨みや鬱屈とした暗い感情を抱いているようにも感じられない。むしろどちらかと言えばナショナリストを自任する私の方がその傾向にある。井筒和幸監督作品の『パッチギ』という在日高校生たちの青春を描いた映画があったが、あの若者たちのようなギラギラしたハングリー精神も今やどことなく古臭いのである。私も知っている、ある在日の女子大学院生がラブホテルを研究した本を書いて出版したが、本を出版した動機が“日本人を見返すため”というものであった。美人女子大学生によるラブホテル研究本ということでちょっとした話題を呼んでスポーツ新聞などでも取り上げられていたが、在日同胞たちにはあまり評判がよろしくないのである。

ある人は「日本人を見返すて、アホちゃうか。」と言っていた。私にもよくわからないが、在日の人間がそういう動機で何かをしたり、そういう思いを放言することは今日日の在日感覚ではみっともないことのようである。しかしその女性は、数年前の新潟県における大地震の時に被災者への募金運動を路上で行う許可を得るため警察署へ何度も足を運んでいた。少し変わったところのある子ではあるが、どこか一本筋が通っているのである。そのあたりが日本人にはない美質なので私は基本的には彼女の在日的な感性が好きである。

しかし“在日的な感性”も日本とともに移り変わってゆく。良い変化は昔に比べ、就職差別や結婚差別などが少なくなったところが時代背景となっているように思われる。しかしまったくなくなったわけではない。在日の人々に対する偏見は、全体としては少なくなったものの一部には依然として根強く残っている。インターネットの掲示板などにおけるネット右翼と呼ばれる人々の韓国や在日の人々への批判、中傷が夥しくまた激しい。このような傾向をどのように分析するべきであろうか。 “社会の右傾化”という言葉で説明されることも多いが果たして本当にそうであろうか。私はそうではないと思う。行き過ぎた日本の戦争責任追及や言論の抑圧が土台になっているように思える。時と場合に応じて言葉(思想)は選ばなければならないが、言葉(思想)そのものを殺してしまってはいけない。

私は在日の人々が多く住んでいる大阪の人間であるから、近場で飲み食いするだけで何となく在日的な感性の在り様を理解することが出来る。在日には、やくざなどのアウトサイダーが多く存在することは事実だが、飲食店を経営するような一般的な人々はきわめて真っ当かつ真面目に生きている。そして彼らは社会のボーダーに位置する人々であるがゆえに物事の本質がよく見える人種でもある。右翼であれ左翼であれ、政治的なイデオロギーが彼らの生活に何の関係もないことをよくわかっている。よって敢えてそのような話しをしたがらない。国家的な論理と市民生活の違いを実感としてよくわかっているからである。あるいはその二つの領域を軽々と行き来しながら生きているとも言える。ところが多くの日本人、特に若者たちは国家的な論理と市民生活を一体化されたものとして捉えているから、日本の戦争責任を強調する歴史教育や反戦思想に染まるか、激しく反発するかの二極に分かれてしまうのである。そして抑圧された思想が暗渠を流れる下水のようにネット掲示板に溢れるのである。

権力に裏付けられた国家的な思想統制が一方で差別を生み出す。そもそも物事の見方を中央集権的かつ一元的に強制したり統制することに無理がある。最も重要なことは個々人で考えるということ、そして市民レベルで歴史について忌憚なく意見を述べ合えるような雰囲気作りである。戦争に負けたからといって歴史に対して一面的な見方を全ての国民が強制されなければならない理由にはならないはずだ。日本は民主主義国家なのであるから主権在民であり、歴史に対しても様々な見方があって当然である。私は“戦争”に対して戦勝国の論理や思考を一方的に押し付けられなければならないという、何よりもその一点において“反戦主義者”である。自由に物事を考えるということは生命と同様に、あるいはそれ以上に大切なことである。それが人間の条件だと私は思う。しかしどうして国家権力と市民生活はこうも分離し、あるいは虚構として重なるのであろうか。分離するところに市民階級の意識と地位の低さがあり、虚構として重なる部分は全体主義へ流れるナショナリズムの問題がある。

日本の権力は明らかに程度が低いが、我々市民はもっと馬鹿である。権力の性質や権力構造に対する問題意識が希薄である。だから簡単に誘導され、洗脳されてしまうのであろう。在日的な感性は社会の辺境に位置するがゆえに、比較的日本の一元的な洗脳から免れ活性化しているように見える。純日本的なものが停滞し沈殿している。

洗脳とは決してカルト宗教だけのものではない。日常生活のあらゆるところに洗脳は存在する。たとえばマルチ販売や自己改革セミナー、DV法、行き過ぎた反戦教育、ジェンダーフリー、占い、霊視、予言これらは皆、多分に洗脳的な要素を持っている。日本のように閉塞的な精神風土の土壌においてそれらの洗脳はウイルスのようにはびこる。しかし本当は何かに洗脳される方が幸福だとも言える。なぜなら自分の頭で考えることは人生において最もコストが高く採算に合わないことであるからだ。だから私も本心では何かに洗脳されたいと考えている。

どこかに私を洗脳してくれる美女はいないだろうか。

いないことはわかっている。だから私は書いているのだ。