龍のひげのブログ -528ページ目

メイド・イン・ジャパン志向

この頃、私は意識的に“日本製”にこだわるようにしている。スーパーに買い物に行けばわかるように我々の身の回りは中国製商品に溢れている。

しかし、たとえば靴下や下着などの繊維製品などにしても丈夫さや耐久性という点で見れば日本製の方が明らかに優れている。靴下や靴ほど品質の違いが歴然と実感されるものはない。2~3回洗濯しただけでゴムが伸びてしまう靴下や、半年持たないような靴はほとんどが中国製だ。だから私は安物買いの銭失いにならないように、ブランドなどまったく無視して小さく印字された日本製という文字をひたすら探し求める。

しかし売り場は絶望的なほどに中国製の山である。苦労して探しても日本製は1点あるか、ないかである。ところがその数少ない日本製商品の値段は圧倒的多数の中国製に対抗するためなのかほとんど同じで特に高くはないのである。だから日本製にはますます希少価値があると言える。使い捨ての消耗品だから中国製で十分だという考え方もあるであろう。しかし下着や靴下だけでなくパソコンやTVなどの電気製品、高額なものでは自動車、家にいたるまで物はすべてそれぞれのスパンにおいて消耗品である。日本の自動車が国際的な競争力を有しているのは丈夫で故障しにくいからであるが、大体において今の時代の“物”は靴下から家にいたるまで長持ちするものがほとんどなくなってきているのではないだろうか。身の回りの物の質が明らかに劣化しているのである。

中国製だからモノが悪いとは一概には言えない。“ユニクロ”などは安くて品質の良い物を中国で作らせて成功した一例である。おそらく品質管理が徹底しているからであろうと思われる。しかし大体において中国製の物に厳密な品質管理は期待できない。人件費などのコスト低減化だけで、物作りにこだわりや思想性がないので雑な作りのものが非常に多い。それにタグには中国製としか明記されておらず、中国の工場名までは書かれていないから消費者にすれば中国製は中国製でしかあり得ないのである。

今日、食の安全がさかんに叫ばれているが、中国野菜にはどんな農薬がどれほど使われているのかまったくわからない。2回や3回食べただけでは健康被害はないであろうが、10年後の癌発現率などにおいてどのような悪影響を被ることになるのかわかったものではない。

世界の工場か何か知らないが、日本の国連常任理事国入りに反対し、たくさんの粗悪品を作り続けて年率10%の経済成長をしているような国と日本は経済的にも一定の距離を保つべきではないのだろうか。そのためには私のようにスーパーやデパートなどでひたすら“日本製”にこだわって買い物をする人間が増えればよいのである。今こそ日本は“品質向上”と“安全性重視”を経済再生への第一方針とすべきである。消費者が日本製を求めるだけで、国内産業の空洞化や雇用問題の何割かは自然と解消へと向かうのである。保護主義だと批判する人もいるかも知れないが保護主義で何が悪い。安物買いは銭を失うだけではなく、時に命までも危険に晒しているのである。あらゆる小売店舗で日本製商品の売り場を分かりやすく表示、陳列していただきたいものだ。

私は提言する。日本はメイド・イン・ジャパン志向へと回帰すべきである。


地方分権と教育改革

世界的な金融危機の影響で日本の景気は益々悪化しているように思われるが、そもそもアメリカの金融破綻以前から既に日本の経済状態は最悪の状態にあったのだから真相をごまかしてはならない。

日本の不景気は構造的な問題が大きい。ここ数年大企業だけは業績が良かったものの、円高と中国、インドなど新興国の急速な景気減速の影響で、トヨタを初めとして日本の屋台骨を支えていた輸出依存型の少数優良企業までもが赤字に転落した。政府はこれまで世界的な競争力を有した大企業が海外に流出、移転することを恐れて税制において優遇し、圧倒的多数の中小、零細企業を実質的に見捨ててきたつけが回ってきているのである。

今頃になって「定額給付金」で1万円ほどの金を国民にばら撒くなど、あまりに馬鹿げている。国民多数の家計は火の車である。山火事を立ち小便で鎮火させるかのような政策は単に無駄遣いのパフォーマンスに過ぎない。

言うまでもないが海外の状況は日本国内でコントロール出来ない。コントロール出来ないもの(輸出)に依存しているから今日のような最悪の状態を招くのである。日本が少しでも経済的に立ち直るためには、内需を活性化させるべく全力を注ぐ方向性をもっと前から打ち出しているべきであった。日本の政治は予測や見通しが甘いというか、基本的に欠落しているので全てが後手の対応である。内需の活性化には構造的な問題が立ちはだかる。国内は全体的に消費が低迷しているが地方の窮状が甚だしい。日本の景気がアメリカに振り回されるのと同じように、地方の景気は中央(東京)に強く影響される。地方は大都市の景気が上向き、金や物の動きが活発化することによって、余波として2次的に潤う。東京の景気がすこぶる悪いのに九州や東北だけが元気がいいという状況は考えられない。権力と経済の首都圏への一極集中、霞ヶ関からの中央統制、大都市から地方への金や情報の流れなどが日本型システムの根幹を成している。景気がよい時にはそれなりに安定した秩序と繁栄をもたらす、それら日本のシステムは、今日のように世界的な大きな時代の転換期には国全体が機能不全に陥ってしまって再生が利かなくなる。なぜなら一元的に管理化された一方通行の社会だから地方や国民など末端部分から、植物が親木が枯れても挿し木で復元するような機構になっていないからである。単に自民党か、民主党かという政治上の二者択一の問題ではなく国民全体の“国家意識”から変わってゆかなければならない必要性に迫られていると思われる。

しかし自分の頭で考えることが苦手で、誘導ばかりされてきた日本人は“国を想って”その次に“自分を立てる”という思考回路がない。それは国家とは絶えず戦争をしようと企む“悪”であるから、悪を排除して全体的な利益より自分のことだけを考えておけばよいのだという利己(保守)的なイデオロギーによって導かれてきた結果であるとも言えるのではないか。先日もあるTV番組を見ていると、田母神氏をゲストに招いて自衛隊について話しをしている場面で、ある有名司会者が小泉元首相であればその気になれば戦争を起こすことも出来たと発言していた。冗談ではなく、本気でそのように考えているようであった。なぜなら田母神氏が「そんなことはないと思いますよ。」とごく当たり前のコメントを返しているのに「いや、小泉さんほどの才能のある政治家だったら一気に戦争の状態までもって行くこともできたはずだ。」と繰り返していたからである。私は正直なところ、その司会者は頭がおかしいか視聴者を馬鹿にしているのではないかと感じた。同局で昨年末に放映された、北野武が東条英機役で出演していた長編ドラマ『あの戦争は何だったのか』を見たが、全体主義的な思想が深く蔓延していたあの当時でさえ日本は開戦を決断するまでに実際のところはかなり大きな抵抗があったのである。満州の利権や石油資源などどうしても手放せなかった国家の生命線と世界的な政治力学の中で日本は、ほとんど自殺をするような悲壮な覚悟で戦争へと追いやられていった。1941年の11月末まであれほど逡巡、しり込みしていながら12月8日には一転、勇猛果敢に真珠湾攻撃へとよくも踏み切れたものだと感心したほどである。ともかく日本は元々、好戦的な国ではない。ましてや今の時代に国民へのパフォーマンス能力の優れた政治家が戦争を引き起こすことなど考えられない。そのように考える人間は国民の良識をあまりに低く見積もり過ぎている。また単に戦争に巻き込まれないということであれば本質的には日米関係の外交問題であって、自衛隊や国内世論とは無関係のはずだ。100年先のことはわからないが、少なくとも10年や20年は日本が自衛隊を使って戦争をする可能性は0である。しかしそのTV司会者と同じように、明日に大地震が起きるかも知れないというレベルで1年後に太平洋戦争に突入したような状況が繰り返される可能性が少なからずあると考えている人々が日本にはたくさん存在している。そのような人々の精神構造は基本的に戦争への危機に“依存”している。だから認知が歪んでいる。平和は万人に共通の願いであるが、認知が歪んでいる人間と一緒にされたくはない。日本は、“戦争への危機”があらゆる洗脳や誘導と結びつきながら、一部の人々の利権や権威を維持している点において特殊な国家であると言えるのではないのか。

国が豊かであれば利己的な人間こそ競争原理の中で勝者や勇者になれるであろう。弱者もまたそれなりに生きていけるであろう。しかし弱者が最低限の生活すら保障されない状況になっているのであれば国の仕組みを根本的に変えてゆかなければならないはずだ。そもそも自由競争主義か福祉国家かという二者択一の問いかけそのものがナンセンスだ。小泉元首相以降に国内経済が決定的に悪くなったという人は多い。アメリカ型の競争原理主義信奉者であった小泉氏には大局的な時代の移り変わりと適切な処方が見えていなかったのである。欧米先進国をモデルとして物真似するような明治、大正時代の意識が日本の支配者層にはいまだに残っているのではないだろうか。日本は時代に即した日本に固有で最適のシステムを絶えず検証し、追及していかなければならないはずだ。

今日、その“最適”を国民自らが考えなければならない。なぜなら政治やメディア、司法など日本社会の支配者としてマスの意識すなわち常識や良識に深く関わっているエリート層は自家薬籠中の主義主張をこね回すばかりで牽強付会の節義から離れることが出来ず、真の意味で“全体”を考えることが出来ないからである。はっきり言うが、今日的な全ての思想は“目先”の金儲けの論理である。金儲けが悪いとは言わないが、全体像をきちんと見通す視点がなければ資本主義社会は自然にごく一部の金持ち以外は奴隷のような世の中になっていくのである。

それではどうすればよいのか。私の説は以下の通りである。

地方を活性化し地方分権を推し進め、多極的な日本を作っていくためには中、長期的に地方人口を増やしてゆく方策を講じる必要性がある。地方で生まれ育った人間がその土地で働いて結婚し、子供を生み、一生暮らしていけるような環境を作ってゆかなければならない。もちろん、そう簡単に出来ることではない。しかし10年ぐらいかければ実現不可能ではないと思う。日本にはこれまで中期、長期の計画がなく、目先の政局運営ばかりに捉われているからこのような深刻な事態になっているのだ。自民党政権がこれだけ続いてきたのに、中期的な方向性すら混濁としている状態は国家として異常である。中国のような一党独裁国家の方が政治的に優れているように見えるぐらいであるから、やはり日本の民主政治はどこかに重大な欠陥があると言わざるを得ない。

日本のような小さな国で人口が1億3千万人もいてGDPが世界第2位であるにも関わらず、医師不足で救急患者が病院をたらい回しにされた挙句、死亡するなどという事態は日本のこれまでの権力構造が金儲けの論理と深く結びついていたことの証拠でもある。人間中心の社会ではなかったということだ。ホームレスの人々が見捨てられ、年間3万人もの自殺者がいて、死刑執行の数が増加していることも全ては底辺で繋がっている。日本は人命尊重、平和主義の建前とは反対に人間が完全に“物化”している。出生数が減少するのは当然である。このような状況を打破していくために、中央による一つの考え一つの方針を改めて、地方分権への推進を活力を生み出す多層的な社会への変革と位置づけるべきである。地方に道路を作ったところで、それを利用する人間や活用する企業が不在であれば無用の長物だ。立派な道路があるに越したことはないが、道路が地方を栄えさせるわけではない。地域経済の基本は公共事業や設備投資などではなく人間の出生と定着である。また地方が企業を誘致するために重要な条件は社会資本ではなく、教育(人材)であるべきだ。優秀な学生が地元に本社のある企業に就職することを条件に、その都道府県が学資を援助するような仕組みを作ることが望ましい。職業選択の自由や中途で他府県の企業に転職する場合はどうなるかなどの法律的な契約上の問題が生じるかも知れないが、そこは生まれ故郷の地方を豊かにしてゆくことが、地域住民全ての幸福ひいては日本全体の繁栄につながるという理解を共有すればそれほど障壁にはならないと思われる。プロ野球のスカウト合戦のようになると抵抗感を感じる人もいるかも知れないが、競争原理の有効活用とは今日の日本においては個人ではなく、地方間で行われるべきである。

それと関連して地方独自の教育を実現させるために文部科学省は今や、不要であると私は主張する。過激なことを言うなと叱られるかもしれないが、日本は識字率も100%ある上に、全国ネットのTVや新聞等で日々同じ情報を共有しているのである。公立の小、中学校が同じ教科書を使って、国家統制された均質な教育が必要であるだろうか。地方がそれぞれの教育スタイルを考案して、その地域発展のための人材を育成していくべきである。各都道府県が新しい教育の“実験場”となるべきだ。そして教育方法、人材、地元企業の三つの要素によって地方は各企業や定住者を募るべきである。人間中心の多極的な社会システムとは以上のようなものが相応しいと私は考える。均質な情報、教育は横並び、右へ倣えの思考しか生み出さない。大量生産、大量消費によって右肩上がりに経済成長してきた時代には、“均質”が有効に機能してきたのであろうが、これからの日本は“差異”を生産性に結びつけるような社会モデルに転換しないと生き残れないであろう。差異が日本を活性化し、明るくしてゆくのである。

また国家的な教科書検定がなくなれば、歴史認識において韓国や中国に内政干渉されることもなくなるであろう。国の統一見解などどうでもよいのである。

地方がそして個々人が自由に物事を考え、一人一人の差異が新しい日本を創ってゆく原動力となるような社会は素晴らしいとは思わないか。


貧しき人々

ある日のこと、息子と話しをしていると“フミン”がどうのこうのと言うので“府民”かと思い、小学校2年生で大阪府民としての行政に目覚めたのかと感心して聞いていると、どうも本人は“富民”のつもりで話しをしているらしいことがわかった。それで、私は“富民”じゃなくて“富豪”ではないのかと言うと、「そうや富豪や。ほんならパパ、富豪の反対は何?」と聞くので

「富豪の反対は貧民や。貧しい人のことや。」と答えて、息子は“富豪”と“貧民”を混同して“フミン”と言っていたのだとわかった。

「貧民の上は何?」とまた聞いてくるので、経済階級のことを知りたがっているのかと思い、一瞬、中流やと答えそうになって止めた。子供に対して“中流”という言葉はどこか生々しい感じがするし、そもそも日本に中流階級は消滅しつつある。それでちょっと迷ったが、

「貧民の上は、平民や。」と答えた。

すると、また「平民の上は?」と聞くから

「まあ、平民の上が富豪やな。」と言っておいた。

「富豪の上は?」

「大富豪や。」

「大富豪の上は?」

もうちょっと考えるのが面倒くさくなってきた私は

「一番上は億万長者や。」と適当に答えておいた。

すると息子は

「ほんならパパ、“家来”はどこに入るの?」と突拍子もないことを言うので笑ってしまった。私が“平民”と言ったのが悪かったのかも知れない。

しかし、後になって考えてみると子供の素朴な疑問というものは絶えず、その時代の核心に触れているのである。日本人の精神構造は戦後の急激な経済発展の中で、他者との目に見えない差異意識によって安定が保たれてきた部分が大きいと思われる。日本にはインドのカースト制度のような身分制度はなく、法の下の平等が保障されている国家である。しかし法律と社会意識は別である。制度として意識化されているか、暗黙裡の共有コードとして無意識に内在されているかの違いだと思われる。大衆とは自分という存在を自己の内部からではなく、他者との社会的な差異意識によって自己認識し、成り立たせている集合意識であるとも言い得る。日本人の特徴は差異が差異として表立って主張するのではなく、呑み込まれ心理的に構造化されてしまっているのである。当然、国籍や住んでいる地域などによる差別もそれらの無意識的な差異意識に含まれている。たとえば新興宗教に走る人間は、心のどこかで霊的な差異を求めているのである。教祖とは求められているものをよく理解して、求める者に与えているだけのことである。

土台となる階級構造が壊れる時に精神が不安定になり、危機に晒される人々が多く発生する。日本はこれまで上流、中流、下流といった経済的な階層区分が多くの人々のアイデンティティーに深く結びついていた。よってそれらの階級構造が崩壊している今日、うつ病や人格障害などの精神的な病となって現れているように私には見える。

時代は大きく変わりつつある。世界的なパラダイム・シフトに従った考え方のチェンジが要求されているのだ。なら日本人は今後、生きてゆく上で自分を成り立たしめるために他者との間にどのような差異を求めてゆくことになるのであろうか。確かなことは出自や物質的な差異感覚を拠り所にしている人々が多く存在する限り、日本という国は決して救われないであろうということである。要するに日本人は今後、一体何の家来になるのか、一人一人がきちんと心に思い定めなければならないということではないのか。

私は市民の品性や知性の差異によって精神的に区画(階層)化された社会を志向しない限り、この国は滅びてしまうのではないかと危惧している。