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映画『チェンジリング』


龍のひげのブログ

事実というものは時に残酷なまでに奇妙である。

9歳の息子がある日突然、行方不明になる。5ヵ月後、警察の捜査で母親の元に連れ戻された子供は明らかに別人である。しかし何故か少年は頑なに自分のママだと主張する。母親が自分の子供を見間違える訳がないのに……。

クリント・イーストウッド監督作品の『チェンジリング』を見た。信じられないことではあるが1928年、ロサンゼルスで起こった実話であるという。

この少年は私の子供ではない。私の子は今もどこかで生きているはずだ。

手遅れにならない内に早く私の本当の子供を見つけ出して欲しい。

母親として、当然の要求のはずなのだが次第に狂人扱いされるようになる。そしてついに警察の手によって精神病棟に送り込まれる。

この映画を見て痛切に感じたことは、権力が病院やメディアなどの組織と暗黙裡に結託していると、我々市民はとんでもない暗黒社会に閉じ込めらた状況下に置かれるということである。警察が見つけ出してきた少年は、実際の子供より7センチも身長が低かったにも関わらず、誰かに連れ去られていた期間のストレスで背骨が収縮したのだと説明される。非常に珍しいことではあるが、有り得ないことではないのですよと。あなたの記憶の中の息子さんと違うだけなのです。この年齢の子供は短期間で急激に変化することがあります。あなたは今、混乱しているだけなのです。要するに説明の仕方はどうであれ、母親が実の子供かどうかを見分ける確かさよりも、権力が真実を歪めて押し付ける強制力の方が強いとこのような不条理が発生するのである。警察が努力して子供を発見し、せっかく母親の元に帰らせてあげることが出来たのに、当の母親は自分の子供であることを認めようとせずに警察の批判ばかりしている。子育てをするのがいやになったから嘘をついているのだろう。この母親は異常を来たしているから精神病院で療養してもらったほうが本人の為である。

有り得る話しである。今から80年も前にアメリカで起こった事件なのだから我々の日常生活とは無関係だと考える人は間違っている。その時代や国に応じて内容は異なれど、真実とは必ず権力と資本の結託によって巧妙に操作され歪められるものなのである。

前回、私は裁判官の痴漢事件について書いた。ある程度、予想できたことではあるがその後まったく報道が消えてしまった。当局からの報道規制が掛かったのか、あるいはメディア自体が自粛に転じたのか、恐らくはその両方であると思われる。私は、前回の記事内容通り冤罪の可能性があると思うので裁判官の名誉のために名前は出さないことにする。しかし、問題はそういうことではないはずだ。裁判官は実際に痴漢行為をしたかも知れないし、女性が嘘をついている可能性もある。真相は本当は藪の中なのであるが、行き着くところ真実などどうでもよいはずである。真実に価値を置くのではなく、真実をどのように考えるかが問題なのだ。痴漢の場合、女性が被害を訴えて現行犯で私人逮捕したのであるからその時点で容疑者は等しく犯人扱いされなければならない。もちろん可能性としては、女性が示談金目当てで嘘をつくケースや心を病んでいて被害妄想に陥っていることもあるであろう。しかしそういうことは逮捕された容疑者が裁判で立証していかなければならないことなのである。なぜなら痴漢やDVなどに関する条例や法律は女性が嘘をつかないという前提条件で作られているので容疑者が無罪を勝ち取るためには、女性が嘘をついていることを論理的に証明しなければならないのだ。証明できなければ容疑者は痴漢をしたことになる。これが法律であり、裁判である。現実には周防正行監督の映画『それでもボクはやってない』のように99.7%は有罪となる。こういうことは裁判官なら信号の赤が止まれで、青が進めであること以上に当たり前のことである。だから私は裁判官が弾劾裁判で訴追される危険性を犯してまで素面で痴漢行為をするようなことはちょっと考えられないのであるが、かと言って裁判官だからという理由で特別扱いされることは法の下の平等原則において法そのものの欠陥以上に許されないことである。よって痴漢容疑で逮捕された裁判官は、被害者女性と証言が食い違えばきちんと起訴されて裁判で争わなければならないはずだ。お茶を濁すように証拠不十分で不起訴にしてはならない。『それボク』の主人公のように膨大な時間と手間をかけて無罪を立証するための無駄な努力を容疑者裁判官はするべきである。痴漢容疑者の家族たちは人目を避けるように世を儚んで生きなければならない。容疑者や家族たちが自殺を考えたり、実際に自殺をしたとしてもそれはそれで止むを得ないことである。その上でこれまでの判例に従って99.7%の確立で裁判官は有罪にならなければならないはずだ。たとえ実際には痴漢行為を働いていなくてもである。

真実などどうでもいいではないか。何よりも権威と安定した秩序から生み出される全体的な利益が一義的に守られなければならないのである。全体的な利益と言っても実際には一部の資本家のものに過ぎないのだが。

と、こういう事を書かれると困るから権力と利害が一致した時にメディアは情報を報道した翌日に抹殺へと走るのである。裁判官の痴漢容疑での逮捕が冤罪を生む構造の象徴として取り上げられると、今後今まで同様に強圧的な取締りがしにくくなるからである。だから裁判官だけは例外としてうやむや(不起訴)にしようということにもなりかねない。しかし、何で私がリスクを冒してまでこのような危険なことを述べなければならないのだ。私も本当は利己的に自分のことだけを考えて全体の流れに従った穏健な意見を述べているほうが気が楽なのだ。これは正直な私の気持ちである。だが警察や検察のような硬直化した巨大組織が腐敗し始めると捜査能力が低下し、真実を見極める力が弱くなる。そうすると威信と権威を保つために証拠を捏造、隠滅したり、無理やり自白させるようなことがごく当たり前のように行われることとなる。また痴漢やDVなどの微罪を、偏ったイデオロギーに迎合するかのように真実を無視して一方的に取り締まり検挙率を引き上げようとする。可能性の問題ではなく権力は組織内部の腐敗や能力低下を隠すために、大衆意識の低さに付け込んで不可避的にそのような社会へと改変を重ねてゆくのである。私は80年前のロサンゼルスについて語っているのではない。映画『チェンジリング』をしっかりと考えながら鑑賞すれば、私の言わんとすることは理解していただけることであろうと思う。

最後に映画について苦言を呈すれば、主演女優のアンジェリーナ・ジョリーはどう考えてもミスキャストであった。我が子が行方不明になった母親があのような、けばい化粧をするか。毒々しいというか、挑発的な色の口紅を見せられていると彼女を精神病棟へ送り込んだロス市警の判断は正しかったのではないかと思わず苦笑してしまった。せっかくのいい映画なのにもったいない。アンジェリーナ・ジョリーは痛い女である。映画タイトルの『チェンジリング』には「取り換えられた子供」の意味があるようだが、どちらかと言うと主演女優であるアンジェリーナ・ジョリーをチェンジリングして欲しかった。


裁判官の劣情

現職の裁判官が痴漢するなどということが本当に有り得るのであろうか。

嫌味で言っているのではない。私には正直なところ、ちょっと信じられないのだ。ストーカー行為ならまだわかる。所詮、男と女の間のことだからプライドや嫉妬心が絡んでくると、たとえ裁判官と言えども一人の人間として時に節度を外れた突飛な行動を起こしたとしても第三者的にはまだしも理解できるのである。

しかし裁判官が痴漢をするであろうか。別に私は裁判官の肩を持つつもりはない。また裁判官という肩書きだけで人間としての品性を信用するつもりもまったくない。むしろどちらかと言えば私の見方は世間一般とは反対である。だが冷静に考えてみれば誰もが納得できると思うが、裁判官は“法律”という知性と“理性”という自己抑制のプロである。そのようなプロが痴漢(準強制わいせつ容疑)で逮捕されたとなると、私の知性と理性が混乱するのである。将棋の羽生喜治名人が素人の私と平で真剣対戦して負けることは絶対に有り得ない。でももし私が羽生名人に勝ってしまったら、私は現実をどのように考えればよいのかわからなくなってしまうであろう。たとえは適切でないかもしれないが、現職裁判官の痴漢容疑での逮捕(さらに付け加えれば酒を飲んでいた訳でもないという状況)は、私が将棋で羽生に勝ってしまうのと同じ位に世界を動揺させる事件だと言えるのだ。

だから私は自らの精神を正常に保つためにも以下のように想像する。くどいようであるが、私は嫌味や皮肉でこのようなレトリックを弄しているわけではない。“裁かれる側の者”として純粋にショックであるだけなのだ。

裁判官には冤罪の可能性がある。事件そのものが仕組まれたものであるかも知れない。被害者は、あるいはその背後にいる人間は痴漢冤罪に深い恨みを持っていた。だから裁判官に復讐しようと考えて、あるいは痴漢冤罪をなくするために現職裁判官をターゲットにしてこのような事件を仕組んだのである。

私個人の妄想を離れれば、現実的には有り得ないことである。そのような手の込んだ馬鹿げたことを計画する組織や個人が現在の日本に存在するとは到底、思えないからである。しかし100%ないと言い切れるであろうか。もしかすれば、警察は容疑者が現職裁判官であるという理由で私と同じように考えるかもしれない。その場合は被害者の身元や背後関係が警察に隠密に調査されるであろう。あるいは一般人容疑者の場合と同様に裁判官は拘置所で締め上げられるだけかも知れない。そのあたりの状況は私にはわからないが、興味深いところでもある。なぜなら裁判官は一般に民間人と警察の証言が食い違えば、無条件に警察の証言を採用するからだ。逆もまた如何ほどに真であるかということだ。

男は男であるという理由だけで、すべからくわいせつ犯の容疑者である。男は男というだけで女に暴力を振るう生き物である。だから女の親告で一旦、男が容疑者となれば逃れる術はない。それはそれで一つの社会論理である。そのように考えておけば、社会は平和で最低限の秩序が保たれるからである。しかし、そのような論理は本当は底流で大衆の精神までも貪欲に搾取せんとする資本家の見当違いな啓蒙に結びついているだけなのである。

人を裁くということがどういうことなのか、人を肉体的にあるいは精神的に殺すことがどういうことなのか、人を罪人へと認定することがどういうことなのか、司法だけでなくメディアや国民の一人一人が問われているのである。

もし本当に現職裁判官が素面で痴漢行為を働いたのであれば日本の権力中枢は信じられないほどに腐っているということである。私のように市民生活の末端で日々、生活に追われているような階級の人間は痴漢をしたり、ストーカーになるようなことは絶対に有り得ない。社会上層部でエリートとして社会道徳や秩序を捏ねているような人種が余裕に飽かせて破廉恥行為を働くのである。それが現在の日本の大きな特徴である。

夢の世界

神秘学者シュタイナーの本を読むようになってから、妙に印象深い夢を見るようになった。今朝見た夢を忘れないうちに書いておくことにしよう。

私はどこか山上の寺院の空を飛んでいる。肉体はない。魂の状態で飛翔しているという浮遊感覚よりも、夢を見ている私の視線が空から地上を見下ろしている感じである。寺院の建物や仏像に興味を持った私は、この機会によく見ておこうと思って寺院の内部にまで飛び進んでゆく。その内に私は広い場所に出る。大きな競技場の観客席にたくさんの中国人と日本人が分かれて座っているのが見える。中国人はどうしたことか全員が米粒のような姿をしている。不思議に思った私はよく見てその理由がわかった。中国人は皆、白くて米粒のような形のシェラフをすっぽりと被っているのである。

その内に日本人の一団が起立して国歌、君が代を斉唱し始める。そうすると中国人たちは君が代に敬意を表して全員が米粒のシェラフを脱ぎ身体を現す。次に中国人の国歌斉唱の番である。ところが中国人の一団は皆、手に手を取って踊りながら『こんにちは、赤ちゃん』の大合唱を始めるので私は驚いた。

場面は変わって、空の彼方に飛行船が現れる。私はその飛行船を見てなぜか危険を感じた。案の定、飛行船は空中で大爆発を起こして炎上し始めた。

地面には、なぜか歌手の岩崎宏美さんが倒れている。彼女の夫か恋人が私の元に駆け寄ってきて、岩崎宏美さんは心臓の病気なので薬局にまで薬を買ってきて欲しいと頼む。私が薬局の場所を尋ねると、山々を越えて行かなければならないとても遠い場所にある。私は空を飛んで薬を買いに行こうかとも思うのだが、今一薬局の場所がわからない。薬局まできちんとたどり着けるかどうか心配だ。もう一度場所を聞き直そうかと考えているうちに目が覚めた。

夢の世界は支離滅裂である。

しかし夢の支離滅裂さが、現実世界の一貫的な論理整合性を支えているのではないかと思えることもある。