龍のひげのブログ -525ページ目

跳躍 2/2

その桜文鳥を妻は入院に際して病室に連れてゆくことは当然出来ない。妹の家に持って行かせようかとも思ったのだが、小鳥とは言っても水を交換したり鳥かごの糞を掃除したりと結構手間が掛かるのである。また小鳥は習性としてえさの殻を撒き散らすので部屋が汚れる。何度も掃除機をかけなければならないことになる。そういうことを考えると必要以上に妹家族たちに迷惑をかけてはならないと思い、仕方ないので私が世話をすることを息子を引き取る二日ほど前に妻に電話で伝えた。ところが妻は私に小鳥を預けることを躊躇しているようなのである。理由はよくわからないが、どうも息子が大変心配していると言う。それで息子に代わってもらい話しを聞くと、息子はこう言ったのである。

「心配やねん。亀、死んだやろ。」

息子は覚えていた。実は1年ほど前にこれも息子のために近くのホームセンターで小さな緑亀を買って実家で飼っていたのである。週末に息子が遊びに来たときに見せていた。有名デパートではなくホームセンターで買ったからという下らない理由で差別などしないで、忙しいながらも大切に育てていたのである。日中はベランダに出して日光浴をさせていた。夜になると部屋の中に取り入れた。4日に一度ぐらいは水を替えて水槽の底に敷いた砂利も洗っていた。ところが去年の5月にものすごく気温が上昇した一日があって、その時に水温が上昇しすぎて酸素不足になったのであろうか、外に出している間に可哀想に死なせてしまったのである。息子はそのことをよく覚えていて、私は小動物飼育者失格の烙印を押されてしまったようである。そういえばどこかで買ってきたカブトムシもすぐに死んでしまったが…。

しかしそれでも私は息子にこう言った。

「パパは本当は生き物を飼うのは上手なんやで。亀の時はちょっと油断しただけや。心配せんでも大丈夫や。」

「もう、油断せえへん?」

「大丈夫、大丈夫。大体、小鳥なんかはな、部屋の中で水と餌やってたら死ぬわけがないねん。心配せんでもええからまかしとき。」

その後、もう一度妻に電話が代わると息子だけでなく妻までが心配しているような口調である。それで私がちょっと嫌味気味に「えらいまた、大事にしてんねんな。」と言ってやると妻は、「だって家族同然やから。」と答えた。

その瞬間にわかった。私がマンションを出てから、私の代わりに桜文鳥のプチがどうも家族に昇格していたようであった。私はもう家族ではないのである。その翌日にマンション前まで息子とプチを迎えに行った時のことである。妻から聞いた話しでは、当日になって息子がまた急にプチの身を心配しだしてさっきまで号泣していたというのである。それでペットショップに預けるかどうか迷っていたらしい。私は話を聞いていてほとほと馬鹿らしくなってきた。私の目から見れば、本当に心配しているのは息子ではなく妻のほうなのである。妻は、私が私の代わりに家族に昇格したプチを恨んで殺してしまうとでも思ったのであろうか。息子は妻のそのような感情に一時的に連帯というか同調しているだけなのである。

息子を妹に預けている期間中、何度か私は妹の家に行ったが息子はプチのことなどもうすっかり忘れてしまっているようであった。私にプチの様子を聞くことすらしない。子供とはそんなものである。

しかし今改めて思うことであるが、息子は妻とプチの三人(二人と一羽)で一家族として暮らしている方が幸せではないのか。あるいはそうではないのかも知れないが私には正直なところよくわからないのだ。家族というものが。

家族の概念だけではなく、私はこの地上に居場所のない人間であるような気すらする。それは私が大人になりきれていないからかも知れないし、元々私という人間は孤独という森の奥深くに帰っていかなければならない宿命を背負っているようにも感じられる。マーチン・ルーサー・キングは「私には夢がある」と言った。対して私の場合はこういうことになる。

私には夢も、希望もない。

そればかりか私には居場所すらない。

しかし私には道がある。

曲がりくねっていようと

暗くとも、明るくとも

私には歩むべき道がある。

昨月6月にやっと妻との離婚が成立した。調停を申し立ててから不調になり、家裁での判決、高裁での和解まで2年かかった。それ以前の親族間の紛争も含めると5年間、双方弁護士を立てて争ってきたのである。そのような泥沼の状況の最中にあっても私は息子との接触を保ち続けてこれたし、妻とも連絡を取り続けた。結果当初から私が要求してきた通り、共同親権の代替となる親権と監護権を分離する方法が採択され、私が親権者となった。妻と息子は、息子が18歳になるまで私が所有するマンションに住み続け、私は養育費とは別にマンションのローン代や管理費も負担し続けることになる。

ここまでたどりつくのに何とも大変だったのである。特に親権については私の代理人弁護士でさえ無理だと言い続けてきた。しかし私は諦めなかった。私が親権者になる方が、息子の利益になることが明らかであるからだ。

本当に大変ではあったが何とか筋を通すことができた。最終的に私が親権者となることを認めてくれた妻にも感謝しなければならないのかも知れない。これからも互いの協力関係の下、共同で子育てしてゆきたいと思う。

しかし結婚だけはもう御免だ。婚姻という悪魔の館には二度と戻りたくない。

それもこれも元を質せば政治が腐っているからだ。程度の低い政治家や役人がグルになって、稚拙な善意や良心で国民生活を支配しようとするところに我々の生活の不幸が生まれる原因の一端は確かにあるのである。たとえ育ちの良い二世、三世の世襲議員であろうと、学業成績の優秀なエリート官僚であろうと、志のない人間が目先の安易な論理や手段に訴えることの弊害が我々の生活の隅々にまで及んでいる。具体的には次回書くことにしよう。

書くことが私にとっての唯一の復讐の手段であり、歩むべき道である。

兎にも角にも私は離婚したことによって、解き放たれた。

私は跳躍したのである。

私自身が、巣箱から飛び立った小鳥のようなものである。

跳躍 1/2

書くべきことはたくさんあるのだが、日常生活の雑事にかまけているとついつい書くことから遠のいてしまう。書く、文章を作るという行為は私にとって日常の延長に位置するものではなく、日常からの跳躍である。世間一般の常識的な観点から見れば、日常からの跳躍とは現実離れした夢想世界へ遊離することを意味するのかも知れないが、私にとっては自分自身への跳躍である。

跳躍にはエネルギーが必要である。鳥が枝から空へ向かってはばたくような瞬発力が要求される。日常という重力はあまりにも強力であるので、止まり木に留まっているほうが楽ではある。

自らの怠惰を正当化するつもりはないが、私の表現は路傍に咲く誰も名前の知らない雑草の花のようなものである。雑草は自然に勝手に生えてくるものであり、権力や圧力によって早く成長しろとか枯れろなどと命ずることはできない。雑草の花は愛でられることも慈しまれることもないが、ただ純粋に生命の発現として予期せぬように姿を現すのである。ハウスで栽培されるバラや蘭のような人工的に手を加えられた美しさはないが、生命とは本来規格化されるべきものではないはずだ。雑草は生命に忠実であるがゆえに、ただそれだけの理由で高価なバラや蘭に優越できることを知っている。なぜなら純粋な生命力に支えられた表現こそが枠組みを超えて芸術として昇華され、大地だけでなく天界にもその根を伸ばしてゆくからだ。

そう言えば以前に司馬遼太郎さんの邸宅に出入りしていた造園業者の人から話しを聞いたことがあるが、司馬さんは自然な状態の庭を愛されていて出来るだけ手を加えないようにといつも言っておられたとの事であった。司馬さんは人工的な予定調和の美しさよりも、形態の背後にある雑然とした生命力そのものを大切にされていたのではないだろうか。スケールの大きな人はそもそも視点が違うのである。目の前の物しか見ていない人間には、その物に限定付けられた程度の生命力しか持ち得ないであろう。

さてそれでは本題だ。私という雑草を、退屈で今にも踏み潰されそうでありながら大いなる生命力に至らんとするけなげな開花のような日常の一断面をあなた方にお見せすることにしよう。

今年の3月中旬ごろのことである。息子は春休みを間近に控えていて4月になれば小学校3年生に進級するという時期であった。別居している妻から私の携帯に電話が掛かってきた。詳しいことはよくわからないが、妻が言うには鼻がどないやらなって手術するから一週間ほど入院しなければならないという。それでその間、子供の面倒を看ることが出来ないので児童相談所の施設で預かってもらう予約を取ってあると言った。本来そのような理由で子供を預かってもらうことはできないのだが、事情を話して特別に許可してもらったそうである。唐突なことで私は大変驚いた。一応念のために言っておくが妻は嘘をついていたわけではない。嘘をついてまで一時的にせよ、子供の養育を放棄するようなことはしない。それまで私は聞いたこともなかったのだが本当に鼻がどないやらなったのか、あるいは以前からそのような状態であったために入院することになったのである。まあそれは止むを得ないとしても、息子をどこかの施設に預けるとはただ事ではない。当たり前のことだが心配だ。それで私は妻に、

「児童相談所みたいな恐ろしい所に一旦子供を預けてしもたら、どんな理由で返してもらわれへんようになるかわからんぞ。」

と言って説得に努めた。妻はまったく信用している気配はなかったが、(私自身、本気でそう思っていたわけでもないので無理もないが)万が一でもそのような事態になれば大変である。それで私は尚、

「いや国や行政は基本的に腐っている。何かの理由でこじれるとどんなことになるか想像もつかん。そんな簡単に全面的に信用したらあかん。自分の子供のことやないか、最悪を考えろ。妹に頼んで見る。」

と言って、あわてて奈良に住んでいる妹に電話をかけて了解を取り、妻に電話をかけ直して児童相談所の方はキャンセルさせることにした。本当はこじれているのは私と妻の関係なのであるが、そこに行政機関が“善意”で介入するとろくなことにならない可能性が高いことを私はよく知っているのである。日本は善意と言う名の悪魔が支配している国家だ。善意が権力と結びつくことほど恐ろしいことはない。結局、妻も私の妹に看てもらう方が安心だと言っていた。それなら最初から相談しろよ。本当に危ないところであった。

妹家族は旦那と子供は当時中学3年生、小学1年生姉妹の4人家族であるが、旦那が広島に単身赴任しているので女ばかりの3人で生活している。そこに息子を春休みの期間中預かってもらうことになったのである。妹といっても多少の気兼ねはあるのでその間の食費として5万円入れることにした。まあそんなことはどうでもよいのであるが、息子を引き取る直前に小さな問題が生じた。妻と息子はマンションで小鳥を飼っている。元々私がそのマンションで妻子と同居していた時分に、当時4歳ぐらいであった息子のために息子と一緒に高島屋で手乗り桜文鳥のヒナを買ってきたものである。妻は、「さすがに高島屋で買っただけあって綺麗やなあ。」とよくわからない理由で息子以上にその小鳥が気に入っていたようであった。「そんなもん、どこで買っても一緒やないか。」と私は言ったが、妻は「いや、ホームセンターで売っているのとは違う、やっぱり高島屋や。」と言い張っていた。桜文鳥の出自(売店)にまでこだわるのかと私は半ば呆れたが、ブランドに執着する心理同様、女は所詮そんなものだと思ったものだ。その桜文鳥の名前は買ってきた日に息子に考えさせた。息子は“プチ”と名付けた。当時4歳の小さな息子が自分よりもさらに小さな生き物に対して、フランス語の“小さな”を意味するPETIT(プチ)という言葉を選んだのが面白かった。

奇妙な一日 4/4

結局、私は二日間ほど妄想に苛まれたが、(正確には妄想と戯れていたが)三日目には脱け出した。あまりの馬鹿らしさに“妄想遊び”に飽きてしまったと言うべきかも知れない。しかし一時は本当に深くはまりかけていた。今、現時点においては6月18日に私の身に起こったことは、私の心が生み出した“偶然”だったと考えている。一般的に共時性と呼ばれる性質のものである。通常は現実が先にあって、それをどのように解釈するかという習慣が日常生活の私的な物語を形成している。しかしある意識の層においては、心はまぎれもなく現実を作るのである。それでは心によって生み出される“現実”とは一体何なのかという深遠な問題に向かい合うことになるが、それについては簡単に論じ切れるものではないし、また私の手に負えるものでもないので今のところ黙する以外にない。しかし心と現実認識の微妙な関係が、洗脳のメカニズムと深く関係しているであろうことは間違いないであろうし、また体感する者の許容範囲を超えて深く精神に働きかければ、その人の現実感覚のバランスを崩し狂気にまで至らしめる危険性もあるものである。それでは結局のところ、集団ストーキング現象の正体とは一体何なのであろうか。被害報告の中には事実としか考えられないような事例が実際にある。一方で病理的な集団ヒステリー現象ではないかとも見えてしまう。私自身前回あのような内容の記事を書いたその数日後に、今回紹介したようなちょっとした出来事から一時的にせよ被害妄想に陥ってしまった。自分で言うのも何だが、私の精神構造はたとえ捻くれているにせよ、基本的には健全で明晰なはずである。私が低次元の妄想に陥るのであれば、日本全国で多くの人が現実感覚を喪失した仮想敵に怯えながら暮らしているとしても不思議ではないように思える。やはりオウムの事件が日本人全体の心に深い傷跡を残したのであろうか。オウムの信者たちも特定集団に絶えず攻撃されていたかのような被害の“現実”を訴えていた。今や日本という“国家”そのものが緩やかにカルト化していっているように思えて正直なところ私は大変恐ろしい。ゆっくりと少しずつ全体的に狂っていけばそれは“正常”なのである。集団ストーキング現象の真相がどのようなものであれ、日本が健全化への道を取り戻すためには、やはりまず第一に宗教の権力への介入、国家権力と特定宗教団体の癒着を許してはならないと私は思う。たとえ合法的であったとしてもだ。そしてこの問題はメディアの体質にも深く関わっているように思われる。公明党の元書記長、矢野絢也氏が創価学会を提訴した際に、本人だけではなく子供さんやお孫さんまで付きまとわれて、本人は命の危険まで感じたと発言しておられた。これは一個人の問題ではあり得ないはずだ。強力な組織力を有する団体が、威圧や恫喝などで敵対する者の言論封殺を図っている臭いがあるなら、本来メディアは何をさしおいても大きな問題としてとりあげなければならないはずである。信教の自由とともに、表現の自由は憲法に保障された国民の基本的な権利だからである。言論弾圧を黙って見過ごすようなマスコミにジャーナリズムとしての価値など皆無である。言論を弾圧しようとする団体が宗教団体ではなく、日教組や女性団体、右翼であっても同様である。今こそはっきり言うが、日本の問題はメディアの問題でもある。メディアの問題は二点ある。第一は圧力に弱すぎるということである。第二はその結果、“良心”を失っているということである。この二つの重大な問題を棚に上げながら、無力な国民たちを自分たちにとって都合のよい道徳の型にはめようとするエリート的な思考回路からどうしても抜け出せない。集団の示威圧力には犯罪の可能性があるものでも目を瞑り、バックボーンのない善良な個人の集団(大衆)には監督者的な立場で言論の府として君臨しようとするのだから必然的に弱い者いじめのような構図になってしまうのである。それで最終的には全て、権力とは無縁に暮らす国民に巧妙にしわ寄せがいくようになっている。まあ、しかし日本人はそのようなシステムに文句も言わず、唯々諾々と受け入れているのだから、日本の全てが自民党支持者のようなものである。私だけが確かな野党だ。しかしこれからはそうはいかないであろう。私にはわかるのだ。声なき声が聞こえてくるかのようだ。私同様に社会に“本当の良心”を求め始めている人々が日々生まれ始めている。女も男も、老いも若きも。私はこれからも日本にとっての良心とは何かを追求しながら書き続けてゆきたい。それが私にとって生きることだからだ。

最後にもう一点、集団ストーキングにおいて“思考盗聴”などという技術がまことしやかに語られるのは噴飯ものだ。思考は力ではあるが、遠隔から内容を読み取れるような性質のものではない。しかし、そのような被害妄想に落ち込んでしまう人が多いこともメディアに責任があると思う。超能力捜査などのくだらない番組の影響が大きいのではないのか。結局、犯人や失踪者は見つからず、見つかるのは家出した猫ちゃんぐらいである。ホームレス体験で有名な漫才師が、そのような番組で失踪していたお父さんを見つけたということになっているが、実際にはお父さんの居場所は最初から大体見当がついていたのだという話しを以前に聞いたこともある。真偽のほどはともかく、あの手のやらせ番組はまったく視聴者を馬鹿にしていると憤慨するのは、はたして大人げないことであろうか。TVを見ると馬鹿になるのは事実だから、馬鹿にされてもしようがないとも言えるのだが。