草なぎ君、逮捕の巻
今更ではあるが、日本は本当に変な国になってしまった。
それとも“変”は私の方なのか。
そもそも公然猥褻罪とは私の認識では、白昼堂々とあるいは不特定多数の目に触れる場所で公然と猥褻行為を働き、社会の風紀を乱したり第三者に著しい不快感を与えたとの理由で罰せられる犯罪である。
草なぎ君の場合、泥酔状態で裸になって何やら叫んでいたようだが、街中の公園とは言え深夜で見ている者がほとんどいなかった訳であるし、当人も何を誰に見せようというつもりもなかったのは明らかだから、公然猥褻罪で逮捕とはおかしい。単に酔っ払いが前後不覚となって裸になってしまっただけのことである。草なぎ君の「何で裸になったのかわからない」とのコメントには笑ってしまった。あまりに正直だからである。これぞまさに“心神喪失”適用無罪の模範例ではないのか。
警察は、“酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止等に関する法律”に基づいて、草なぎ君を一時的に“保護”すべきだったのである。その後、酔いが覚めてから厳重に注意して釈放してやれば良かった。それが警察の取るべき正しい対応だ。逮捕までして検察に身柄を送致するのは行き過ぎというか、明らかに“職権乱用”である。逮捕の要件を明確にすることは非常に重要である。ケースバイケースで逮捕するなどという説明を受け入れることは、恣意的な権力の行使を認めるということだから、我々市民が決して認めてはならないことである。何故、多くの人はこのような簡単なことがわからないのだろうか。
警察はもっと解決を急ぐ凶悪な事件をいくつも抱えているはずではないのか。警察の動きを監視し注文を付けることは、市民生活にもっとも密着した税金の有効活用であるとも言える。正体をなくした酔っ払いを逮捕したところで、我々国民は(少なくとも私は)警察のお手柄などとは認めてやらないぞ。
警察も警察だが、鳩山総務相の発言は相変わらず不可解である。草なぎ君に対して、「最低の人間」とはさすがに即座に撤回したようだが、「はらわたが煮えくりかえる」などと言われると何とも面妖な心持にさせられる。
この程度のことに「はらわたが煮えくりかえって」いて大臣の職が務まるのか。
今の日本で、もっと他に「はらわたが煮えくりかえる」べきことはないのか。鳩山さんの性格だけはようわからん。一体、どういう“教義”から発言しているのだろうか。
草なぎ君の裸など見たくもないが、鳩山さんの“はらわた”とはどんなものなのか、一度見せていただきたいものだ。別にからかっているわけではない。私はあくまで日本のことを考えて、率直に意見を申し上げているだけである。くれぐれも、私の批判に「はらわたを煮えくりかえらせて」身近な者に八つ当たりなどされないようお願いするのみである。
別にSMAPファンや、草なぎ君を応援している多くの女性方におもねるつもりはないので言っておく。深夜に大声で騒ぐのは迷惑です。30歳にもなっているのであれば、“弾ける”のはTV番組の中だけにしてプライヴェートではきちんとした“大人”になっていただきたい。
もっとも日本という国家全体が、非常に子供っぽい道徳観念や正義感覚で支配されているので誰もが大人になれないのは止むを得ないような気もするのだが。こんな世の中であればこそ、私は“大人”であることにこだわりたい。
日本が他国に馬鹿にされないために、
そして私の息子や、息子の友達たちの健やかな成長のためにも。
死刑制度について思うこと
子供殺しの畠山鈴香被告が減刑を求めて最高裁に上告した。死刑を求めていた検察が上告断念を表明し、畠山被告の死刑が回避されることが確定した上での上告である。
もちろん被告の権利であるから、控訴審の判決が出る前に言っていたこと(上告しない)と違うと非難することは誰にもできない。しかし何の理由もなく愛する我が子を無残に殺害され、その後きちんとした反省の色すら見せられることもなく、ただ自己権利としての減刑を求める被告の態度に遺族が感じるであろう憤りややるせなさを想像すると、私の胸中は怒りで赤々と燃え上りそうである。畠山被告の弁護人は、被告は反省の気持ちがないのではなく、反省の仕方がわからないだけだ、などと愚にも付かぬ詭弁を弄していたことも本当に腹立たしい。
私の目に畠山鈴香という女は、女と男の違いはあっても大阪教育大付属小学校、児童殺害事件の宅間守と重なって見えてしまう。子供殺しであるということ、決して反省しないこと、きわめて自己中心的な性格であることなどの共通点を考えると、もし神が人間の魂を昆虫標本のように分類すれば、まさに畠山鈴香と宅間守の中身は同じモノである。
イギリスの作家コリン・ウィルソンは人間は神と動物の間で宙吊りになった不安定な生き物であると書いていたが、私の定義では人間とは人間の皮を被った何物かである。人間とは“仮の姿”である。よって人間の本性というものはない。獅子や象、鳩など動物の世界はそれぞれの種の本性に基づいてほぼ正確に生が営まれている。ところが人間には個々の本性しかない。だから人間世界は予測不能でいつも混乱しているように見える。人間は共通した本性を持ち得るまでには進化していないとも言える。悠久の動物進化の記憶から完全に抜け出せていないから、雑然とした生の多様性を人類は本質的に孕んでいるのかも知れない。おそらく高度な進化を遂げた地球外生命の宇宙人は共通の利他的知性と利他的本能を有しているであろう。そうでなければそれまでに、その星の文明や人類は滅んでしまっていたであろうからである。ともかく現在の地球上では理由もなく罪のない子供を殺し、反省する心の働きがまったくないような本性の持ち主も人間の一部として認めなければならない。そのような人間に対してどのように考え相対するか、これは社会制度の問題である。ということで“死刑”について考えてみることにした。
先ず初めに、日本において死刑制度存続の賛否についてアンケートを取れば、80%以上の人々が賛成し、国内において死刑はほぼ当たり前のことと受け止められているという事実がある。しかし世界的に見れば、ヨーロッパでは死刑廃止をEU加盟への条件としていることもあって全面的に廃止、あるいは執行されていないなど、少なくとも先進国においては死刑制度を存続している国(日本とアメリカ)は例外的なのである。私も基本的には、現段階の日本において死刑制度が存在していることの必要性や妥当性を全面的に否定することは出来ないので消極的に賛成であるが、方向性としては世界の潮流に従うように徐々に廃止へと向かってゆくべきであると考える。必ずしもアメリカが世界の潮流の源ではない。よって近年の日本における死刑執行の増加に私は反対である。以下、具体的に死刑廃止へと向かうべき理由について述べる。
第一に、基本的に“死”が刑罰足り得るのかという思いが私にはある。言うまでもなく、生命あるものは必ず死を迎える。天寿を全うする人だけではなく、毎年、事故や病気、災害等で亡くなるたくさんの人々が存在する。また死は全ての人間にとって不可避性の観点からだけではなく、善悪をも超えて公平であると考えるべきだ。悪人が死ねば地獄にいくと信じている人がいるが、もしそうであれば刑罰としての死刑など必要ないはずである。悪人が死んでも本当に地獄にいくかどうかわからないから死刑は必要だという理屈になる。よって厳密に言えば死そのものが罰なのではなく、不自然な形で強制的に生命を剥奪される死刑執行までの“生ける”恐怖に死刑の刑罰としての本質があると見ることができる。因みに鳩山邦夫元法務相は当時、死刑執行に関する新聞社のインタビューに「死刑囚は死後、地獄にいくことになる。私が死ねば天国にいく。」と答えていたように記憶している。死刑執行を命令する立場の重責と重圧から出た自己肯定の言葉であることはわかるが、本当にそのような考えで次々と執行命令を出していたのであれば正に“死神”ではないのか。東大主席卒業か、何か知らないが、あの人物の奇異な発言は一体どのような思想背景から生まれるものであろうか。
第二に、第一と関連したことではあるが“死”で罪が贖えるのか、という命題である。「死によって償う」思想は武士道における切腹から連綿と日本人の精神に深く刻まれ、受け継がれてきた。切腹や特攻隊の美学と、現代の死刑制度は日本人の死生観において深く関係しているように思える。西洋的な原罪の考えでは、死んで罪が贖えるものではない。死のうが、生きようが永遠に人間の罪は残るのである。ところが日本的な死生観では、死んで償うとは言いながら本質的には“けじめ”を付けているところに重要な意味がある。贖罪とは無関係にけじめの儀式として日本の死刑は執り行われる。もちろんそのような日本的な死刑が必ずしも間違っているということは出来ない。死のけじめは社会全体に、生き続ける者の日常に、再生と活力をもたらす力を持つ。また被害者遺族の悲しみも少しは和らげるであろう。
しかし死刑囚の死そのものが罰にならず、罪を贖うものでもないという前提で考えるならば、やはり死刑囚が死の恐怖に向かい続けることの苦悩から生まれる人間らしい反省や悔悟の心情を何よりも重視すべきであると私は考える。何故あえてこのようなことを言うかといえば、前述の宅間守は自ら死刑判決の控訴を取り下げて死刑を確定させ、6ヶ月以内に執行せよとの法律を根拠に最後まで反省する気持ちを持とうとしなかったからである。彼にとっては死そのものよりも、拘束された環境で長期間、死を通じて自分自身に相対させられることの方が恐ろしかったのではないであろうか。それでさっさと死刑を執行させて死んでしまったが、これでは実質的に自殺である。私が上記で述べた死刑における死の無意味さを、宅間は社会に対して挑発的に証明するようにして極刑に身を投げ出した。これでは殺害された子供たちも浮かばれない。畠山鈴香の態度にも宅間に近いものを私は感じるのであるが、彼らが我々に教える教訓とは一体何であろうか。
日本の死刑制度のあり方について結論を言えば、私は死刑判決は原則、死刑でよいと思う。たとえば死刑確定囚であっても、いずれかの時点で無期懲役に減刑する機会を設けてもよいのではないか。この方が死刑判決を出すほうも出しやすいであろうし、囚人の自己反省も自ずと深くなるであろう。もちろん死刑と無期懲役の差はあまりに大きいので囚人の気持ちがいつまでも安定せずに返って残酷だという指摘もあるであろう。しかし確定囚の執行も少なくしていき、死刑制度そのものを形骸化させてゆく方向を日本は将来的に辿ってゆくべきだ。もちろん私自身が殺人被害者の遺族となれば話しは別で、一時間でも早く死刑執行を願うようになるかも知れないが、それはそれである。遺族感情と社会的正義のあり方は分けて考えるべきである。
私は日本が死刑廃止へ向かうことが、健全な国家になってゆく先駆けとなるような気が強くするのである。何はともあれ今の日本はあまりに病んでいる。
春と魂
ただ何気なく
辺りの光景を眺めている時にふと
肉体とは別の魂の感覚に気づく。
子供たちの笑い声、
小風にそよぐ色とりどりの、のぼり旗、
目の前を通り過ぎる人々の一瞬の表情、
駅前で売られているカンパニュラの花の透き通る青紫が
今、確かに私が生きていることを証明するかのように
五感に沁み入る。
いつの間にやらすっかり春めいて
私は雑多な街角にただ一人
茫洋と佇んでいる。
生者の身体と
死者の心で。