龍のひげのブログ -522ページ目

政治家の資質

民主党代表選挙、出馬の岡田克也氏が出演していた昨日の報道ステーションを見て、少し考え込んでしまった。

岡田氏は魑魅魍魎とした政治の世界にあって唯一、信頼できそうな人物であるように思える。一口にクリーンなイメージと言っても単に汚職が無さそうだという消極的な意味合いではなく、理想が志として彼の人格の中にきちんと生きているように私には感じられる。

とこらがテレビに映る岡田氏の姿は、正直に言ってあまりぱっとしない。真面目な所はよくわかるが、いかにも頑固そうで取っ付き難さが前面に現れている。見た目で損をしているというか、大衆受けしないタイプというか、わかりやすくいうとタレント性がないのである。口下手そうであるし、話すタイミングも悪いし、表情も暗い。止めを刺せば、野暮ったいのである。

そりゃあ鳩山由紀夫氏のほうがすらっとしていて、スマートで洗練されている。

しかし翻って考えてみるに、それでは政治家の資質とは一体なんだということになる。はたして政治家にタレント性は必要なのであろうか。

絶対的に必要不可欠であるというような強固な意見や、無いよりは多少とも有る方が得だというように感じ方の度合いに幅はあれども、ほとんどの人は政治家のタレント性を才能の一つであると考えているのではないだろうか。

だが私にはそのようには思えないのである。小泉元首相にはタレント性があった。一口で大衆の心を掴むこつを心得ていた。しかし中身がなかった。小泉元首相や竹中平蔵氏は、未だに未曾有の大不況や国民大多数の困窮を究めた生活を、構造改革の成果が実現するための過渡期段階であると悪びれることなく言ってのける。そのような神経が、タレント性の一側面なのである。政治家にタレント性が必要であると考えるなら、タレントを政治家に促成的に作り上げるほうが手っ取り早いではないか。これも日本の政治の一側面である。

我々国民全体が、日本の政治の質に責任を持たなければいけない時期を迎えているのではないだろうか。世襲も、タレント議員も、宗教と政治の分離も全て同根の問題である。政治の質が、生活の質を決めるのである。

わかるか、わからないか。

これからの日本の政治家は、何より人間性(中身)で選ばなければならない。

取り合えず私は、岡田克也氏のいかめしくも暗い表情と野暮ったさに期待したい。麻生さんの爽やかな笑顔はもう見飽きたからだ。

私は薔薇のように知っている

私は知っている。

あなたは私が知っていることを

知っている。

私はあなたが

私が知っていることを

知っていることを

知っている。

あなたは私が

あなたが私が知っていることを

知っていることまでは

知らない。

私はそれを知っている。

ところが

私は何も知らない。

元々何も無いものを

どうして知り得ようか。

私はそれを知っている。

窓の外に

オレンジ色のつる薔薇が

白壁を伝っているのが見える。

澄みやかな天空からそっと

投げ落とされた

柔らかな炎のように咲いている。

もうすでに

初夏だな。

内側と外側の理由

君は少し頭が良過ぎるんだよ。

理想的なことばかり追求しないで

もっと現実に即して生きた方がいいよ。

困惑げに、半ば見下す視線で

これまで何度、言われたことだろうか。

聡明な魂を持つ若者が

曲がりくねった暗い小道を

歩かねばならない理由が

社会の内側にある。

そういう私もいつの間にか

大人になってしまった。

これからは私が悪魔のように

高貴へと向かう若者たちの

魂を卑しめる順序である。

歴史は繰り返すのだから文句はあるまい。

しかし私の魂には

そのような復讐を許さぬ何かがある。

息子と、息子の友達たちの未来のために

永遠の未熟であらねばならぬ理由が

社会の外側にある。

アインシュタインの相対性理論に基づけば

誰か身近な者を馬鹿にすることによってのみ

自らの価値を高めることが出来るのだ。

目前に貧困に喘ぐ人間がいるからこそ

富者の喜びは麻薬のように

陶然と身体を満たす。

さあ、日本の魂よ。

どこへと向かう、どこに飛ぶ。

冷え冷えとした時空を貫いて

光を超えるその速さで。