貧しき人々
ある日のこと、息子と話しをしていると“フミン”がどうのこうのと言うので“府民”かと思い、小学校2年生で大阪府民としての行政に目覚めたのかと感心して聞いていると、どうも本人は“富民”のつもりで話しをしているらしいことがわかった。それで、私は“富民”じゃなくて“富豪”ではないのかと言うと、「そうや富豪や。ほんならパパ、富豪の反対は何?」と聞くので
「富豪の反対は貧民や。貧しい人のことや。」と答えて、息子は“富豪”と“貧民”を混同して“フミン”と言っていたのだとわかった。
「貧民の上は何?」とまた聞いてくるので、経済階級のことを知りたがっているのかと思い、一瞬、中流やと答えそうになって止めた。子供に対して“中流”という言葉はどこか生々しい感じがするし、そもそも日本に中流階級は消滅しつつある。それでちょっと迷ったが、
「貧民の上は、平民や。」と答えた。
すると、また「平民の上は?」と聞くから
「まあ、平民の上が富豪やな。」と言っておいた。
「富豪の上は?」
「大富豪や。」
「大富豪の上は?」
もうちょっと考えるのが面倒くさくなってきた私は
「一番上は億万長者や。」と適当に答えておいた。
すると息子は
「ほんならパパ、“家来”はどこに入るの?」と突拍子もないことを言うので笑ってしまった。私が“平民”と言ったのが悪かったのかも知れない。
しかし、後になって考えてみると子供の素朴な疑問というものは絶えず、その時代の核心に触れているのである。日本人の精神構造は戦後の急激な経済発展の中で、他者との目に見えない差異意識によって安定が保たれてきた部分が大きいと思われる。日本にはインドのカースト制度のような身分制度はなく、法の下の平等が保障されている国家である。しかし法律と社会意識は別である。制度として意識化されているか、暗黙裡の共有コードとして無意識に内在されているかの違いだと思われる。大衆とは自分という存在を自己の内部からではなく、他者との社会的な差異意識によって自己認識し、成り立たせている集合意識であるとも言い得る。日本人の特徴は差異が差異として表立って主張するのではなく、呑み込まれ心理的に構造化されてしまっているのである。当然、国籍や住んでいる地域などによる差別もそれらの無意識的な差異意識に含まれている。たとえば新興宗教に走る人間は、心のどこかで霊的な差異を求めているのである。教祖とは求められているものをよく理解して、求める者に与えているだけのことである。
土台となる階級構造が壊れる時に精神が不安定になり、危機に晒される人々が多く発生する。日本はこれまで上流、中流、下流といった経済的な階層区分が多くの人々のアイデンティティーに深く結びついていた。よってそれらの階級構造が崩壊している今日、うつ病や人格障害などの精神的な病となって現れているように私には見える。
時代は大きく変わりつつある。世界的なパラダイム・シフトに従った考え方のチェンジが要求されているのだ。なら日本人は今後、生きてゆく上で自分を成り立たしめるために他者との間にどのような差異を求めてゆくことになるのであろうか。確かなことは出自や物質的な差異感覚を拠り所にしている人々が多く存在する限り、日本という国は決して救われないであろうということである。要するに日本人は今後、一体何の家来になるのか、一人一人がきちんと心に思い定めなければならないということではないのか。
私は市民の品性や知性の差異によって精神的に区画(階層)化された社会を志向しない限り、この国は滅びてしまうのではないかと危惧している。