携帯文化の弊害
最近の新聞記事で特に気になったものについて感想を書くことにする。
11月22日、読売新聞朝刊に『ネット殺人予告 別人逮捕 三重県警他人の携帯悪用見抜けず』の見出しで掲載された事件である。あらましは以下の通りである。
今年の7月17日にインターネットの掲示板「2ちゃんねる」に殺人予告の書き込みがあった。内容は三重県桑名市の遊園地「ナガシマスパーランド」で「水着女を刺し殺します」という内容であった。桑名署は8月27日、使用された携帯電話の所有者で飲食店店員K氏(39)を逮捕した。K氏は否認し、書き込みの当日、勤務先の店に携帯電話を置き忘れていたことが判明する。K氏は17日間拘置された後、処分保留で釈放された。その後の捜査で当時、同店の入るビルで警備員をしていた会社員の男(24)が実際に書き込みをしたとして威力業務妨害容疑で21日に逮捕された。その男は7月7日にも鈴鹿サーキットの遊園地で無差別殺人をすると同掲示板に書き込みをした疑いで11月6日に逮捕されていた。
この小さな新聞記事を他人事だと流し読みにしてはいけない。17日間も拘留されるということは大変なことである。バカンスで海外旅行して過ごす17日間はあっという間であるが、拘置所の17日間は地獄である。無実の罪による拘束であれば尚更のことである。K氏は単に運が悪かっただけなのであろうか。あるいは携帯電話の管理が悪かったということで自己責任になるのか。言うまでもなくこのような事件は誰にでも起こる可能性がある。そもそも携帯電話とは置き忘れたり、失くしたりするものである。携帯電話を使い始めたばかりの高齢者の方には、若者たちのように携帯電話が体の一部であるかのような密着感覚はないので特に危険性が高い。またいくら注意していても実際には身体の一部ではないのだから24時間肌身離さず持っている事は出来ない。風呂に入っている時や寝ている時はどうなるのだということになる。このような悪質ないたずらで無実の人間が17日間も拘束されるような社会は間違っていると思う。
しかし秋葉原殺傷事件のようなケースがあるので警察は強権的に動かざるを得ない。本当に殺害予言が実行されてしまったときに責任が問われてしまうからだ。また今回の新聞記事見出しは“他人の携帯悪用見抜けず”と警察の捜査ミスを批判するかのような文言であるが、現実にはいくら警察でも見抜けるものではない。殺害予告があって、証拠物件としての携帯電話があればその所有者が逮捕されるのは当然だとも言える。携帯電話の供給企業側にできる具体的な予防策は、書き込み時の本人認証を義務付けるということである。簡単に誰でも気安く書けるようなものから、携帯電話の所有者本人にしか書けないように(ネットに接続できないように)制限することは今や技術的にさほど難しくはないであろう。
しかし私が考えることは、そこまでして携帯電話から掲示板への書き込みは必要なのかということである。落書きやいたずらを誘発するとまでは言えないかも知れないが、それに近い要素はあるのではないのか。
証券会社と取引がある人ならわかると思うが、ここ一年くらいで証券会社営業マンによる投資信託などのリスク説明がやたらとしつこくなった。私はグローバルソブリンなどの高利回り配当商品を元本変動のリスクを抑えるため毎月、小口で分散して買い増している。何年も前から電話で口数を伝えるだけで買い続けてきた。それが最近は購入するごとにわかりきった説明を長々と聞かされなければならないので鬱陶しくてならない。その社会的な背景は携帯電話からネットに接続して、簡単に株や投信などの金融商品を購入し大きな損をする若者層が増えたので、法律改正がなされ証券会社による顧客へのリスク説明義務が厳しくなっているのである。それこそ自己責任の問題だと思うのだが、携帯電話の多機能化が世の中を振り回している現実は随所に見出される。
数年前に携帯電話の機種変更をした時のことであるが、当時私が使っていた携帯電話メーカーが他メーカーと統合するので、その統合先メーカーのものに機種変更して下さいと言われ、仕方なく近くの携帯販売店へ手続きをしに行った。
私は写真撮影などの余計な機能は一切いらないと言うのに、販売員はその電話会社の機種には写真撮影機能がついているものしかありませんと言う。それで仕方なくその中の一つに決めて機種変更したのだが、未だに一度も携帯電話で写真撮影したことがない。大体私は携帯電話で写真撮影する時の、あの“ガシャ”という仰々しく下品な音が気に入らないのである。盗撮防止か何か知らないが、元々必要がないものを押し付けられているだけなのに何であのような不快な音を聞かされなければならないのか。間違って誰かに盗撮犯扱いされて警察に突き出され、愚かにも真実を訴えて否認し続ければ3週間拘束されることになる。そのような“危険な機能”を搭載する“必要性”は一体どこにあるのか。そういう事にまったく無警戒な大多数の人々の感覚が私にはわからない。
機能を顧客が選択するのではなく、無理強いされることは資本主義社会の一側面である。そこには多機能や高性能が誰にとっても善であるという思い込みがある。そして、そのような常識が社会を牽引する推進力になっており、今の時代においては家電製品や自動車よりも携帯電話が経済を支える進化的な役割を担っている。よって携帯電話とは生活の手段でありながら、その物自体がひとつの思想性を帯びてくる。代表となるキーワードが、宣伝コピーにあるような“つながっている”という安心感や癒しなのであろう。そこにある基本的な考えは簡単に言うと、“孤独ではいけない。常に誰かと結びついている必要がある。”というものである。この考えの訴求力は若者たちに対して強大で支持されやすいものである。しかし一方でそのような連帯気分から脱落した人間たちの疎外感や焦燥感を増幅させてしまう側面がある。秋葉原殺傷事件の犯人や殺害予告を書き込むような人間は、大衆的な“つながり思想”の負の側面を象徴しているように思われる。
しかし時代は微妙に変わりつつある。2~3年前には、メールの着信内容を気にして駅や路上など公共の場所で半ば神経症的なまでの熱心さで携帯画面を見つめている人々の光景が多く見られた。自転車を乗りながら、あるいは車を運転している信号待ちの時に携帯を操作している人間も多かった。赤ん坊を連れた母親がメールに心を奪われている場面を見ると他人事ながら心配になったりもした。しかしこの頃はそのような携帯執着的な気配が少なくなってきたような気がする。マナーの問題というよりも、また国民が携帯に飽きてきたからでもなく何となく世の中の空気が変わってきて携帯電話が本来の生活手段としての地位にゆっくりと戻ってきているように私には感じられる。もちろん最近、新発売されている携帯電話はユビキタス化への一途であるが私にはどこか時代感覚に逆行しているように感じられるので爆発的なヒット商品は生まれ難いのではないかと考える。
因みに私の携帯電話は上品な性質で、新しい季節の訪れを知らせてくれるかのように1シーズンに1回ぐらいしか鳴ったり光ったりしない。よって沈黙が常態だから、たまにけたたましく電子音を鳴り響かせると私は家の中に飾ってある人形がいきなり口を利いたかのようにぎょっとして驚くことがある。その程度の使い方でしかないが日常生活に不自由は感じないし、負け惜しみでもないがあまり寂しいとも思わない。資本主義経済は幻想を生み、幻想の中で自己増殖する。その増殖システムから外れてしまった人間は本来ペナルティーとして孤独や疎外感を感じなければならない。しかし万人がそのようなゲームに参加しなければならない理由は特にないのである。ゲームのルールや勝者は時代によっても変化してゆく。常時、誰かとメールでつながっているという状態は幻想の中で育まれた一時の人生ゲームである。幻想を幻想と知って自らの内なる感覚で生きてゆくことが出来れば、他者を傷つけたり他者に傷つけられることなく自然と調和が保たれる社会が成り立つのだと私は信じる。
普通に真面目に生きている人間がいきなり逮捕され17日間も拘束されるようなことは絶対にあってはならないことだ。しかし我々の日常生活はそのような目に見えない地雷がいたる所に埋め込まれている社会にある。いつ悪意という名の地雷を踏んでしまうかわからない。だから我々は自分のことだけを考えるのではなく、社会の原理原則やしくみを深く理解する必要がある。そうでなければ、いざという時に誰も救ってくれないであろう。
我々は既に経済至上の幻想によって逮捕され、拘束されているのである。