選挙の不安と憂鬱
やがて必ず実施されるであろう選挙に向けて言っておきたいことがある。
いつ行われるのかにもよるが、現状を見れば民主党が勝つ可能性が高いように見える。しかし私は民主党に、と言うよりも民主党代表である小沢一郎氏に対して正直なところ信用し切れない部分が残る。
選挙直前になってまた何を言い出すかわからないという一抹の不安を感じるのだ。前回の件があるので、あからさまに自民党との大連立などということはないであろうが、その変形バージョンはいくらでもあり得る。
私の勝手な偏見かも知れないが、小沢氏には“豪腕”と言うよりも田舎者特有の臆病さのようなものを感じてしまう。あるいは自民党的な“密室”や“裏取引の政治”から本当に脱却できているのかなどとどうしても訝ってしまうのだ。
どちらかと言えば、前原誠司氏や岡田克也氏などの前代表の方がクリーンなイメージだけではなく実際に腹も据わっているし、筋が通っているように思える。
具体的に私が不安に思う選挙後の事態を想像すると以下のようになる。
自民党が敗北して野党に転落すれば当然、自民党と公明党との協調路線は消滅するであろうが、それだけではなく自民党内部が分裂し新党を立ち上げる者や離党者が多く現れる可能性が高い。その時に民主党、いや小沢党首がどのように対応するかということである。
自民党議員には個人で大企業とのパイプや利権を持っている者が多いであろうから、新党との連立や自民党離党者を民主党に移籍させようとする動きが出てくるであろう。その一時期の混沌とした状態で民主党自体が意見の不一致から仲間割れを起こし分裂してしまう危険性がある。このような事態を、“小沢一郎的混乱”と呼ぶことが出来る。小沢という政治家には常に混乱と破壊がついて回る。場合によっては小沢氏自身が民主党を飛び出してまた新党を作ることもあるかも知れない。こうなってくるとせっかくの何十年かに一度の政権交代、日本変革のチャンスが無茶苦茶である。
またマスコミにはこのようなドタバタ劇を政界再編などと言って面白がる日本的な悪しき土壌がある。国民が望んでいることは政策の対立軸がきちんと定まり、政策の結果をきちんと評価しながら日本を変えていくことが出来るような民主主義の構造である。これまで何度も選挙後に繰り返されてきた政界再編なる混乱は、結局のところ換骨奪胎しながら“自民党的”なるものを延命させてきただけに過ぎないではないか。だから国民は政治に白けているのである。
何度も同じ過ちを繰り返すことは愚か者の証明である。小沢氏にはこのような“自民党的”なるものと今こそきっぱりと決別していただきたい。政治家は先を見通す能力がなければ役立たずである。また自分を変えることが出来ない人間に国を変えることは到底無理である。民主党には選挙に勝つことだけではなく、選挙直後の混乱をも想定して党内で確固とした意思疎通を図って欲しい。
そして何よりも自民党が壊してしまった健全な日本の民主政治を新たに一から作り上げるぐらいの気迫で政治改革に臨んでいただきたいものだ。
これらは非常に重要なことだから、何度でも同じ内容の主張を書き続けるつもりである。忘れないでいただきたい。
自民党と日本
日本は小泉元首相の政治以降におかしくなってきたと、誰も考えないのであろうか。確か“痛みの伴う改革”とやらで何年間か辛抱すれば、暮らし向きが良くなるかのようにさかんに強調されていたように記憶している。
ところがまったくその兆候は見えてこない。結局、小泉元首相は日本の全体像や問題の本質がまったく理解できていない人物であった。ムードや雰囲気を盛り上げることだけが巧みな“お調子者”に過ぎなかったように思われる。
今日、その小泉改革を総括し批評する動きが出てこないのはどうしてか。ご当人は歴史そのものが自らの失政を証明していることに国民が気づく前に政治の世界から逃げようとしているが。
前回の記事にも書いたことであるが日本には自民党の政治しか存在しないので、政治結果を判断する手がかりすらないということではないのか。これでは本当の民主主義、民主政治とは言えないはずである。まるで、“窓のない独房”のような政治だ。昼なのか夜か、明るさが判然としない政治空間に我々国民は閉じ込められている。
国民にとっては無力感の中で諦める以外に道がない政治であるとも言える。しかしマスコミは総選挙の度にまるでリオのカーニバルのように狂騒する。この温度差も日本的な光景だと思われるが、当たり前の日常に疑問を投げかけていると世間では一般に“変人”扱いされる。ここにも日本の独房がある。
民主主義は当然“数”が全てだという見方も出来るであろうが、我々はもっと“質”に目を向けるべきではないのか。質を見ることはすなわち民主主義のシステムを再考するということである。日本は今や、その時期にあるように思える。
日本の民主主義の問題をより一層、深刻にさせている要因が自民党と公明党の関係である。言うまでもなく公明党は異質な政党である。異端視されることが多い共産党はあくまでイデオロギーが基盤になっているので本来、政治的には自民党以上に正統だとも言える。しかし公明党は支持母体である巨大な宗教組織の創価学会と表裏一体になって運営されている組織なので健全な民主主義にそぐわないばかりか、日本を壊してしまう危険性を孕んでいる。
親戚の一人に創価学会員がいて、半ば強引に聖教新聞を入れていくので何度もその記事を目にしているが、池田大作氏を連日これほどまで個人崇拝する記事を書き続けることがよく出来るものだと本当に感心してしまう。また他宗教、特に創価学会に敵対的な仏教団体に対する攻撃は凄まじいものである。そのような宗教組織と一枚岩の関係にある公明党が自民党と連立政権を組むことは、それでなくとも社会主義的な日本の民主主義を死に追いやることになるのではないのか。本当に心配である。
しかし私は宗教組織としての創価学会に対しては批判するつもりはない。確かに仏教初め、日本の伝統的な宗教団体が信仰の力で人々を救っていこうという宗教本来の使命感を失って堕落しているように感じられれる。よって日蓮のように攻撃的で激しい宗教があってもいいし、個人崇拝があるから宗教として間違っているということにもならないとは思う。しかしやはり宗教団体は、宗教としての立場から社会に発言し影響力を行使していくべきであって、政治との間には一定の線引きがあるべきである。カトリックのバチカンやイスラム主義の国家と日本は、根本的に歴史や国家の形態が異なるので単純に比較できるものではなく宗教の政治支配を正当化する理屈にはならないと私は考える。
自民党は創価学会の集票能力に依存するようになってから、明らかに腐ってきている。首相が公明党幹部に呼びつけられて、誰のおかげで総理大臣になれたと思っているんだと恫喝されても致し方ない。実際、その通りだからだ。
それで経済対策の家計支援として国民に2兆円規模の支給をするなどという馬鹿げた政策に疑問を持てないところまで正常な政治感覚が麻痺してしまっている。公明党や創価学会が考えそうなことではあるが、国民一人一人に金をばら撒くなどという方法は一番原始的な政治手法である。恥ずかしくないのであろうか。
自民党は今や創価学会の傀儡である。民主党が本気で政権を取り、新しい日本を作っていく気持ちがあるのであればこれら政教分離問題についても勇気を持ってもっと追求していただきたいものである。
そもそも自民党が公明党と連立を組むはるか以前には、創価学会員たちは選挙の度に自民党に票を入れる者は地獄に堕ちると言っていたのではなかったのか。私にはその時のマインド・コントロールが未だ残っていて、投票用紙に自民党員の名前を書こうとすると手が震えるのである。
自民党だけが地獄に堕ちればよいのである。
我々国民を巻き添えにしないでいただきたい。
日本の民主主義
日本の民主主義は、どこか相撲の土俵に似ている。
一応、俵(タワラ)の内側で真剣勝負をしているが、俵という結界の役割を果たしているのが実は大手新聞社やTV局などのメディアである。日本民主主義的相撲の俵は米ソの対立に象徴されたイデオロギーの伝統的な残滓である。
マスメディアにとっては真の国益よりも、国民の意識が俵の外側にはみ出さないことが肝心なのだ。なぜなら国民が新しい時代に即応した真の国益に目覚めたときにメディアの存在基盤(古き時代の対立構造)は崩れ去るからである。
相撲の土俵は目に見えるが、民主主義の土俵は不可視である。よって我々は八百長臭い臭いを嗅ぎながらも、“土俵の内側”で行われるパフォーマンスに踊らせ続けられることとなる。
私はだからメディアの解体と再編を主張するものである。これほどに移り変わりの激しい時代にあって限られたごく少数の資本がいつまでも言論の側面から日本という国を操作、誘導し続けることは危険である。なぜなら本当の国益に結びつく主張の芽が潰されることに他ならないからである。権力や権威に迎合した意見しか浮かび上がらないということである。
日本の民主主義についてメディアの問題以外にさらに憂慮すべきことがある。それは日本の政治は実質的に“自民党の政治”しかないという事実である。
アメリカの政治であれば、たとえばクリントンの8年間とブッシュの8年間を比べて果たして国が良くなったのか、悪くなったのか国民の一人、一人が皮膚感覚で実感として比べることが出来る。クリントン時代には財政問題が改善されたが、ブッシュの8年間でアメリカは泥沼に陥った。だから民主党のオバマに賭けよう。非常に単純明快でわかりやすい。それが民主政治の基本だと私は思う。ところが日本は中国のような共産党の一党独裁ではないから形式的には民主主義の体裁であるが、実態は自民党の政治しかない。よって比較対照の仕様がなく、何ともわかりにくいのである。小泉元首相のように“自民党をぶっ壊す”などと威勢のよいシュプレヒコールを唱える人間が自民党の総裁になる。ところが現実には自民党内で派閥争いをしていたに過ぎなかったりする。“美しい国”をスローガンにしていた首相が僅か1年で胃弱かうつ病で倒れたと思えば、その後を引き継いだ首相は同じ自民党でありながら何故か一言たりとも、“美しい国”とは言わない。前任者の方針を引き継ぐことは沽券に関わるとでも思ったのであろうか。そのくせ自分も根性の無さだけは見事に真似してきっかり1年経った時点でギブアップして政権を放り投げる始末である。これでは国民に政治に関心を持てという方が無理である。
日本の政治の致命的な欠陥は国民が比べる視点を持てないこと、もう一つは政治そのものに中、長期的な方向性(戦略)が欠落しているということである。それで野党の攻撃や支持率の数字に振り回されて場当たり的なごまかしに逃げ込むような政治になってしまう。これでは日本は本当に滅んでしまうぞと言いたい。
今こそ日本は民主主義のあり方を根本的に見直すべきではないのか。先ず大統領制のように首相の任期を4年に定めて国家の方向性をきちんと固定させるべきである。また首相が各省の事務次官を任命して全ての官僚を戦略的に掌握し、動かせるような権力構造が望ましいと思う。国の根幹が定まらなければ地方分権もあり得ない。このシステムでは首相の権限と責任が飛躍的に強化されるであろうが、首相個人の卓越した器量、人格が要求されることになろう。世襲のおかげで自民党議員になって順番待ちでポストが与えられるような虚弱体質では到底無理なような気もするが、これが日本と世界の政治力の差である。程度の低い政治家を徹底的に淘汰するような制度にする方が将来的には日本のためになるように私は思う。
現状の日本は、戦後における長期政権のメディアと自民党政治が結びついて一種独特な“社会主義的民主主義”が形成されている。前回の記事で前航空幕僚長・田母神氏の論文問題を取り上げたので具体的に例示して見ることにする。
田母神氏の参考人招致での質疑はNHKで放映されなかった。NHKは独自の判断で放映しないことを決定したと言っているが、政治的な圧力の結果であることは間違いない。田母神氏の論文が表現の自由と文民統制の問題であるとするならば、国民の前に公然と放映されない事実から見ても問題の本質が言論抑圧であることが示されている。なぜなら国民の我々は事の真相を知る権利があり、そのためのNHKであり受信料支払であるからだ。国民の基本的な権利を損ねてまで隠蔽的に進められるものの性質が、常識的に判断して民主主義的に健全なものであるわけがない。また本来、文民統制とは軍部が政権の意向を無視して軍事力を発動させたり、あるいは政治に介入しようとした時に使われる言葉である。現在の日本の自衛隊が政治的な権力や発言力を持っているとは到底思えない。ましてや文民統制なるものが一個人における内面の思想や信条にまで踏み込んで罰するものではないはずだ。そもそも田母神氏の論文は世間一般に公表されることを目的に書かれたものではないのだから、政治的な意図があったとは言えないはずである。精々、内規違反の厳重注意ぐらいで済むべき話しだ。それをメディアがわざわざ発掘してきて政治的に利用しているだけのことである。
1950年代にはアメリカで“赤狩り”の嵐が激しく吹き荒れた。政治の世界だけではなく、映画俳優や脚本家、演出家にまで共産主義の匂いがする者は徹底して弾圧された。今の日本で行われていることはまったくこれと同じである。公務員である教職員が国の指導を無視して卒業式で国家を斉唱しなかったり、起立しなければ賞賛されるが、どういうわけか自衛隊幹部の、良心に従って国益のために考えているに過ぎない内面の信条が政府の見解に従わなかったという理由で暴露され犯罪者のように弾劾される。これでは国家的な洗脳が権力とマスコミが一体となって進められているのと同じではないのか。純粋に国家的な良心を有している者が、組織の影響力を高めることや利益追求しか考えていない者に利用され汚されることは到底、我慢ならない。私は田母神氏の論文内容に全面的に賛同するものではない。というよりも正直なところ歴史についてはわからない。わからないが歴史を全て知悉しているがごとく他者の信条を批判する人間は信用できない。また個人の思想、信条をスケープゴートにして組織的に弾圧するやり口は姑息だと思う。そういう小利口な精神が日本を駄目にしている諸悪の根源だ。
シビリアン・コントロールが聞いて呆れる。国民不在の仰々しい屁理屈に過ぎないではないか。国民が真に求めているものは将来に国益として大きく実るような志と合理的な政策である。部数や視聴率はどうでもよいのである。見解に相違があれば議論すれば良いのであってメディア組織が公人と言えども一個人の信条に圧力を掛けるのは思い上がりも甚だしい。
そもそも報道と言うものは基本的に事実だけを淡々と述べれば良いのである。判断するのは国民のはずだ。一定の影響力の元に社会に意見する事なら許せるが、大衆工作的に情報を発掘、利用するのであればきわめて問題は大きいと言えると思う。
最後についでに言っておくが、日本人でありながら基本的な常套句の読み方すら知らないような人間が日本の首相に納まっていること以上に“不適切な”ことはあり得ない。日本の恥であるし、諸外国にも失礼だからとっとと自民党の慣例に基づいて辞めて頂きたいものだ。