自民党と日本
日本は小泉元首相の政治以降におかしくなってきたと、誰も考えないのであろうか。確か“痛みの伴う改革”とやらで何年間か辛抱すれば、暮らし向きが良くなるかのようにさかんに強調されていたように記憶している。
ところがまったくその兆候は見えてこない。結局、小泉元首相は日本の全体像や問題の本質がまったく理解できていない人物であった。ムードや雰囲気を盛り上げることだけが巧みな“お調子者”に過ぎなかったように思われる。
今日、その小泉改革を総括し批評する動きが出てこないのはどうしてか。ご当人は歴史そのものが自らの失政を証明していることに国民が気づく前に政治の世界から逃げようとしているが。
前回の記事にも書いたことであるが日本には自民党の政治しか存在しないので、政治結果を判断する手がかりすらないということではないのか。これでは本当の民主主義、民主政治とは言えないはずである。まるで、“窓のない独房”のような政治だ。昼なのか夜か、明るさが判然としない政治空間に我々国民は閉じ込められている。
国民にとっては無力感の中で諦める以外に道がない政治であるとも言える。しかしマスコミは総選挙の度にまるでリオのカーニバルのように狂騒する。この温度差も日本的な光景だと思われるが、当たり前の日常に疑問を投げかけていると世間では一般に“変人”扱いされる。ここにも日本の独房がある。
民主主義は当然“数”が全てだという見方も出来るであろうが、我々はもっと“質”に目を向けるべきではないのか。質を見ることはすなわち民主主義のシステムを再考するということである。日本は今や、その時期にあるように思える。
日本の民主主義の問題をより一層、深刻にさせている要因が自民党と公明党の関係である。言うまでもなく公明党は異質な政党である。異端視されることが多い共産党はあくまでイデオロギーが基盤になっているので本来、政治的には自民党以上に正統だとも言える。しかし公明党は支持母体である巨大な宗教組織の創価学会と表裏一体になって運営されている組織なので健全な民主主義にそぐわないばかりか、日本を壊してしまう危険性を孕んでいる。
親戚の一人に創価学会員がいて、半ば強引に聖教新聞を入れていくので何度もその記事を目にしているが、池田大作氏を連日これほどまで個人崇拝する記事を書き続けることがよく出来るものだと本当に感心してしまう。また他宗教、特に創価学会に敵対的な仏教団体に対する攻撃は凄まじいものである。そのような宗教組織と一枚岩の関係にある公明党が自民党と連立政権を組むことは、それでなくとも社会主義的な日本の民主主義を死に追いやることになるのではないのか。本当に心配である。
しかし私は宗教組織としての創価学会に対しては批判するつもりはない。確かに仏教初め、日本の伝統的な宗教団体が信仰の力で人々を救っていこうという宗教本来の使命感を失って堕落しているように感じられれる。よって日蓮のように攻撃的で激しい宗教があってもいいし、個人崇拝があるから宗教として間違っているということにもならないとは思う。しかしやはり宗教団体は、宗教としての立場から社会に発言し影響力を行使していくべきであって、政治との間には一定の線引きがあるべきである。カトリックのバチカンやイスラム主義の国家と日本は、根本的に歴史や国家の形態が異なるので単純に比較できるものではなく宗教の政治支配を正当化する理屈にはならないと私は考える。
自民党は創価学会の集票能力に依存するようになってから、明らかに腐ってきている。首相が公明党幹部に呼びつけられて、誰のおかげで総理大臣になれたと思っているんだと恫喝されても致し方ない。実際、その通りだからだ。
それで経済対策の家計支援として国民に2兆円規模の支給をするなどという馬鹿げた政策に疑問を持てないところまで正常な政治感覚が麻痺してしまっている。公明党や創価学会が考えそうなことではあるが、国民一人一人に金をばら撒くなどという方法は一番原始的な政治手法である。恥ずかしくないのであろうか。
自民党は今や創価学会の傀儡である。民主党が本気で政権を取り、新しい日本を作っていく気持ちがあるのであればこれら政教分離問題についても勇気を持ってもっと追求していただきたいものである。
そもそも自民党が公明党と連立を組むはるか以前には、創価学会員たちは選挙の度に自民党に票を入れる者は地獄に堕ちると言っていたのではなかったのか。私にはその時のマインド・コントロールが未だ残っていて、投票用紙に自民党員の名前を書こうとすると手が震えるのである。
自民党だけが地獄に堕ちればよいのである。
我々国民を巻き添えにしないでいただきたい。