在日的感性と日本の問題 | 龍のひげのブログ

在日的感性と日本の問題

酒飲みにとってバーとは酔いながら知見を磨く社交場である。

私がよく行く馴染みの店は、場所的に在日の人が多い地域である。よって客も在日が多いようだ。在日の人々は地域で独自のネットワークを持っていて皆、事情通である。彼らは独特の感性を有していて話していて飽きない。また私が知る限り真面目な人間が多い。だから私は基本的に在日の人々が好きである。というよりも相性がいい。それで自然とそのような店に足が向くのであろう。

偶然ではあるが、私が現在離婚問題で世話になっている弁護士も在日である。最初にその弁護士に相談してから1年以上経つが、それ以前にも何人かの弁護士に依頼や相談をしていた時期があった。何らかのトラブルで弁護士に相談した経験がある人ならわかるかと思うが、大体において弁護士の態度は高圧的で偉そうである。時間を切売りしている職業だから仕方ない部分はあるが、少し話しを聞いただけで頭ごなしに一方的な法律解釈を押し付けてきたり、それを理由に断ってくる。ビジネスライクというよりは日本の司法全般における権威主義的ないやな臭いがする。よって現実には誰かの紹介なしに弁護士を見つけることは非常に難しい。だから私は橋下知事のようにTVに出演してふざけているタレント弁護士が嫌いなのである。現在依頼している在日弁護士先生にはそのような権威主義の臭いがない。ごく自然に対等な目線で話せるのである。プライベートな付き合いはないが、それこそいつでも飲みに誘えそうな気安さがある。

私はその弁護士先生は帰化しているものだとばかり思っていた。帰化していながら日本人名ではなく韓国人名を使っているのだと考えていたのである。世間話をしていた時の雰囲気から何となくそのように感じていただけであるが。ところがある日、その馴染みのバーで店主相手に在日の帰化について話しをしていた時のことであるが、わたしが弁護士の名前を口にすると店主はその姓なら恐らく帰化していないと思います、と言うのである。どういうことかと言うと、日本に帰化して使える韓国人名、朝鮮人名というのはいくつかに限られていてその弁護士の名前はそれらに該当しないというのである。弁護士資格の国籍条項が撤廃されていることは知っていたが、帰化して使える帰化以前の本名に制限があることは初めて知った。バーでの会話は馬鹿にならないものである。いや、結構勉強になる。

その店主は20代後半くらいの若者であるが、父親が日本人で母親が帰化していない韓国籍であるということのようだ。従兄弟が朝鮮系の学校に通っているということだから、あるいは母親は朝鮮国籍であるかも知れない。このあたりの問題はかなり複雑で微妙なようである。両親の国籍が異なる子供は確か、21歳か22歳の時点でどちらかの国籍を選択することになっている。店主は日本国籍を取得したようだ。しかし店主が付き合っている彼女は近くの焼肉屋の娘で韓国籍のようである。こういう話しを聞いているのは中々面白いものである。

店内で客同士が「帰化しはったら、よろしいやんか。前科はないんですやろ。前科あったらあかんけど、なかったら簡単でっせ。」

などと言っている話しを聞くと、そうか前科があると帰化出来ないのかと初めて知ることとなる。なるほど国の立場でならそういう制度にならざるを得ない意図はよくわかる。単純に不良外国人がたくさん日本人になられたら困るということであろう。しかし既に長年にわたって日本人と同じように日本に住んでいるのであれば、前科の有る無しは帰化を認めるかどうかとは無関係ではないかという気がしないではない。

酒場で小耳に挟む程度の話しであるから深いところまではわからないが、私が受ける印象ではほとんどの在日の人々は日本国内で政治とは無関係に生きている。特に今時の在日や日本に帰化した若者たちは全然すれていない。もちろん私が出会った人々がたまたまそうであっただけのことかも知れないが、国籍や自己のアイデンティティなどの重い十字架を引きずって生きているようには見えないのである。また日本の政治や歴史に対しても恨みや鬱屈とした暗い感情を抱いているようにも感じられない。むしろどちらかと言えばナショナリストを自任する私の方がその傾向にある。井筒和幸監督作品の『パッチギ』という在日高校生たちの青春を描いた映画があったが、あの若者たちのようなギラギラしたハングリー精神も今やどことなく古臭いのである。私も知っている、ある在日の女子大学院生がラブホテルを研究した本を書いて出版したが、本を出版した動機が“日本人を見返すため”というものであった。美人女子大学生によるラブホテル研究本ということでちょっとした話題を呼んでスポーツ新聞などでも取り上げられていたが、在日同胞たちにはあまり評判がよろしくないのである。

ある人は「日本人を見返すて、アホちゃうか。」と言っていた。私にもよくわからないが、在日の人間がそういう動機で何かをしたり、そういう思いを放言することは今日日の在日感覚ではみっともないことのようである。しかしその女性は、数年前の新潟県における大地震の時に被災者への募金運動を路上で行う許可を得るため警察署へ何度も足を運んでいた。少し変わったところのある子ではあるが、どこか一本筋が通っているのである。そのあたりが日本人にはない美質なので私は基本的には彼女の在日的な感性が好きである。

しかし“在日的な感性”も日本とともに移り変わってゆく。良い変化は昔に比べ、就職差別や結婚差別などが少なくなったところが時代背景となっているように思われる。しかしまったくなくなったわけではない。在日の人々に対する偏見は、全体としては少なくなったものの一部には依然として根強く残っている。インターネットの掲示板などにおけるネット右翼と呼ばれる人々の韓国や在日の人々への批判、中傷が夥しくまた激しい。このような傾向をどのように分析するべきであろうか。 “社会の右傾化”という言葉で説明されることも多いが果たして本当にそうであろうか。私はそうではないと思う。行き過ぎた日本の戦争責任追及や言論の抑圧が土台になっているように思える。時と場合に応じて言葉(思想)は選ばなければならないが、言葉(思想)そのものを殺してしまってはいけない。

私は在日の人々が多く住んでいる大阪の人間であるから、近場で飲み食いするだけで何となく在日的な感性の在り様を理解することが出来る。在日には、やくざなどのアウトサイダーが多く存在することは事実だが、飲食店を経営するような一般的な人々はきわめて真っ当かつ真面目に生きている。そして彼らは社会のボーダーに位置する人々であるがゆえに物事の本質がよく見える人種でもある。右翼であれ左翼であれ、政治的なイデオロギーが彼らの生活に何の関係もないことをよくわかっている。よって敢えてそのような話しをしたがらない。国家的な論理と市民生活の違いを実感としてよくわかっているからである。あるいはその二つの領域を軽々と行き来しながら生きているとも言える。ところが多くの日本人、特に若者たちは国家的な論理と市民生活を一体化されたものとして捉えているから、日本の戦争責任を強調する歴史教育や反戦思想に染まるか、激しく反発するかの二極に分かれてしまうのである。そして抑圧された思想が暗渠を流れる下水のようにネット掲示板に溢れるのである。

権力に裏付けられた国家的な思想統制が一方で差別を生み出す。そもそも物事の見方を中央集権的かつ一元的に強制したり統制することに無理がある。最も重要なことは個々人で考えるということ、そして市民レベルで歴史について忌憚なく意見を述べ合えるような雰囲気作りである。戦争に負けたからといって歴史に対して一面的な見方を全ての国民が強制されなければならない理由にはならないはずだ。日本は民主主義国家なのであるから主権在民であり、歴史に対しても様々な見方があって当然である。私は“戦争”に対して戦勝国の論理や思考を一方的に押し付けられなければならないという、何よりもその一点において“反戦主義者”である。自由に物事を考えるということは生命と同様に、あるいはそれ以上に大切なことである。それが人間の条件だと私は思う。しかしどうして国家権力と市民生活はこうも分離し、あるいは虚構として重なるのであろうか。分離するところに市民階級の意識と地位の低さがあり、虚構として重なる部分は全体主義へ流れるナショナリズムの問題がある。

日本の権力は明らかに程度が低いが、我々市民はもっと馬鹿である。権力の性質や権力構造に対する問題意識が希薄である。だから簡単に誘導され、洗脳されてしまうのであろう。在日的な感性は社会の辺境に位置するがゆえに、比較的日本の一元的な洗脳から免れ活性化しているように見える。純日本的なものが停滞し沈殿している。

洗脳とは決してカルト宗教だけのものではない。日常生活のあらゆるところに洗脳は存在する。たとえばマルチ販売や自己改革セミナー、DV法、行き過ぎた反戦教育、ジェンダーフリー、占い、霊視、予言これらは皆、多分に洗脳的な要素を持っている。日本のように閉塞的な精神風土の土壌においてそれらの洗脳はウイルスのようにはびこる。しかし本当は何かに洗脳される方が幸福だとも言える。なぜなら自分の頭で考えることは人生において最もコストが高く採算に合わないことであるからだ。だから私も本心では何かに洗脳されたいと考えている。

どこかに私を洗脳してくれる美女はいないだろうか。

いないことはわかっている。だから私は書いているのだ。