龍のひげのブログ -535ページ目

裁判官の劣情

現職の裁判官が痴漢するなどということが本当に有り得るのであろうか。

嫌味で言っているのではない。私には正直なところ、ちょっと信じられないのだ。ストーカー行為ならまだわかる。所詮、男と女の間のことだからプライドや嫉妬心が絡んでくると、たとえ裁判官と言えども一人の人間として時に節度を外れた突飛な行動を起こしたとしても第三者的にはまだしも理解できるのである。

しかし裁判官が痴漢をするであろうか。別に私は裁判官の肩を持つつもりはない。また裁判官という肩書きだけで人間としての品性を信用するつもりもまったくない。むしろどちらかと言えば私の見方は世間一般とは反対である。だが冷静に考えてみれば誰もが納得できると思うが、裁判官は“法律”という知性と“理性”という自己抑制のプロである。そのようなプロが痴漢(準強制わいせつ容疑)で逮捕されたとなると、私の知性と理性が混乱するのである。将棋の羽生喜治名人が素人の私と平で真剣対戦して負けることは絶対に有り得ない。でももし私が羽生名人に勝ってしまったら、私は現実をどのように考えればよいのかわからなくなってしまうであろう。たとえは適切でないかもしれないが、現職裁判官の痴漢容疑での逮捕(さらに付け加えれば酒を飲んでいた訳でもないという状況)は、私が将棋で羽生に勝ってしまうのと同じ位に世界を動揺させる事件だと言えるのだ。

だから私は自らの精神を正常に保つためにも以下のように想像する。くどいようであるが、私は嫌味や皮肉でこのようなレトリックを弄しているわけではない。“裁かれる側の者”として純粋にショックであるだけなのだ。

裁判官には冤罪の可能性がある。事件そのものが仕組まれたものであるかも知れない。被害者は、あるいはその背後にいる人間は痴漢冤罪に深い恨みを持っていた。だから裁判官に復讐しようと考えて、あるいは痴漢冤罪をなくするために現職裁判官をターゲットにしてこのような事件を仕組んだのである。

私個人の妄想を離れれば、現実的には有り得ないことである。そのような手の込んだ馬鹿げたことを計画する組織や個人が現在の日本に存在するとは到底、思えないからである。しかし100%ないと言い切れるであろうか。もしかすれば、警察は容疑者が現職裁判官であるという理由で私と同じように考えるかもしれない。その場合は被害者の身元や背後関係が警察に隠密に調査されるであろう。あるいは一般人容疑者の場合と同様に裁判官は拘置所で締め上げられるだけかも知れない。そのあたりの状況は私にはわからないが、興味深いところでもある。なぜなら裁判官は一般に民間人と警察の証言が食い違えば、無条件に警察の証言を採用するからだ。逆もまた如何ほどに真であるかということだ。

男は男であるという理由だけで、すべからくわいせつ犯の容疑者である。男は男というだけで女に暴力を振るう生き物である。だから女の親告で一旦、男が容疑者となれば逃れる術はない。それはそれで一つの社会論理である。そのように考えておけば、社会は平和で最低限の秩序が保たれるからである。しかし、そのような論理は本当は底流で大衆の精神までも貪欲に搾取せんとする資本家の見当違いな啓蒙に結びついているだけなのである。

人を裁くということがどういうことなのか、人を肉体的にあるいは精神的に殺すことがどういうことなのか、人を罪人へと認定することがどういうことなのか、司法だけでなくメディアや国民の一人一人が問われているのである。

もし本当に現職裁判官が素面で痴漢行為を働いたのであれば日本の権力中枢は信じられないほどに腐っているということである。私のように市民生活の末端で日々、生活に追われているような階級の人間は痴漢をしたり、ストーカーになるようなことは絶対に有り得ない。社会上層部でエリートとして社会道徳や秩序を捏ねているような人種が余裕に飽かせて破廉恥行為を働くのである。それが現在の日本の大きな特徴である。

夢の世界

神秘学者シュタイナーの本を読むようになってから、妙に印象深い夢を見るようになった。今朝見た夢を忘れないうちに書いておくことにしよう。

私はどこか山上の寺院の空を飛んでいる。肉体はない。魂の状態で飛翔しているという浮遊感覚よりも、夢を見ている私の視線が空から地上を見下ろしている感じである。寺院の建物や仏像に興味を持った私は、この機会によく見ておこうと思って寺院の内部にまで飛び進んでゆく。その内に私は広い場所に出る。大きな競技場の観客席にたくさんの中国人と日本人が分かれて座っているのが見える。中国人はどうしたことか全員が米粒のような姿をしている。不思議に思った私はよく見てその理由がわかった。中国人は皆、白くて米粒のような形のシェラフをすっぽりと被っているのである。

その内に日本人の一団が起立して国歌、君が代を斉唱し始める。そうすると中国人たちは君が代に敬意を表して全員が米粒のシェラフを脱ぎ身体を現す。次に中国人の国歌斉唱の番である。ところが中国人の一団は皆、手に手を取って踊りながら『こんにちは、赤ちゃん』の大合唱を始めるので私は驚いた。

場面は変わって、空の彼方に飛行船が現れる。私はその飛行船を見てなぜか危険を感じた。案の定、飛行船は空中で大爆発を起こして炎上し始めた。

地面には、なぜか歌手の岩崎宏美さんが倒れている。彼女の夫か恋人が私の元に駆け寄ってきて、岩崎宏美さんは心臓の病気なので薬局にまで薬を買ってきて欲しいと頼む。私が薬局の場所を尋ねると、山々を越えて行かなければならないとても遠い場所にある。私は空を飛んで薬を買いに行こうかとも思うのだが、今一薬局の場所がわからない。薬局まできちんとたどり着けるかどうか心配だ。もう一度場所を聞き直そうかと考えているうちに目が覚めた。

夢の世界は支離滅裂である。

しかし夢の支離滅裂さが、現実世界の一貫的な論理整合性を支えているのではないかと思えることもある。

メイド・イン・ジャパン志向

この頃、私は意識的に“日本製”にこだわるようにしている。スーパーに買い物に行けばわかるように我々の身の回りは中国製商品に溢れている。

しかし、たとえば靴下や下着などの繊維製品などにしても丈夫さや耐久性という点で見れば日本製の方が明らかに優れている。靴下や靴ほど品質の違いが歴然と実感されるものはない。2~3回洗濯しただけでゴムが伸びてしまう靴下や、半年持たないような靴はほとんどが中国製だ。だから私は安物買いの銭失いにならないように、ブランドなどまったく無視して小さく印字された日本製という文字をひたすら探し求める。

しかし売り場は絶望的なほどに中国製の山である。苦労して探しても日本製は1点あるか、ないかである。ところがその数少ない日本製商品の値段は圧倒的多数の中国製に対抗するためなのかほとんど同じで特に高くはないのである。だから日本製にはますます希少価値があると言える。使い捨ての消耗品だから中国製で十分だという考え方もあるであろう。しかし下着や靴下だけでなくパソコンやTVなどの電気製品、高額なものでは自動車、家にいたるまで物はすべてそれぞれのスパンにおいて消耗品である。日本の自動車が国際的な競争力を有しているのは丈夫で故障しにくいからであるが、大体において今の時代の“物”は靴下から家にいたるまで長持ちするものがほとんどなくなってきているのではないだろうか。身の回りの物の質が明らかに劣化しているのである。

中国製だからモノが悪いとは一概には言えない。“ユニクロ”などは安くて品質の良い物を中国で作らせて成功した一例である。おそらく品質管理が徹底しているからであろうと思われる。しかし大体において中国製の物に厳密な品質管理は期待できない。人件費などのコスト低減化だけで、物作りにこだわりや思想性がないので雑な作りのものが非常に多い。それにタグには中国製としか明記されておらず、中国の工場名までは書かれていないから消費者にすれば中国製は中国製でしかあり得ないのである。

今日、食の安全がさかんに叫ばれているが、中国野菜にはどんな農薬がどれほど使われているのかまったくわからない。2回や3回食べただけでは健康被害はないであろうが、10年後の癌発現率などにおいてどのような悪影響を被ることになるのかわかったものではない。

世界の工場か何か知らないが、日本の国連常任理事国入りに反対し、たくさんの粗悪品を作り続けて年率10%の経済成長をしているような国と日本は経済的にも一定の距離を保つべきではないのだろうか。そのためには私のようにスーパーやデパートなどでひたすら“日本製”にこだわって買い物をする人間が増えればよいのである。今こそ日本は“品質向上”と“安全性重視”を経済再生への第一方針とすべきである。消費者が日本製を求めるだけで、国内産業の空洞化や雇用問題の何割かは自然と解消へと向かうのである。保護主義だと批判する人もいるかも知れないが保護主義で何が悪い。安物買いは銭を失うだけではなく、時に命までも危険に晒しているのである。あらゆる小売店舗で日本製商品の売り場を分かりやすく表示、陳列していただきたいものだ。

私は提言する。日本はメイド・イン・ジャパン志向へと回帰すべきである。