政治家の言葉
福田首相は竹島問題についての質問に答えて曰く、「双方の立場というものがありますからね」と言った。
ご当人は言葉を選んだ上で当たり障りの無い無難な回答をしていたつもりなのだろう。一般多数の大衆には通用するのかも知れないが、人よりも少しだけ言葉に敏感な私は納得しない。そもそも私は“あの人”の距離を置いたような言い回しに知性も強さもまったく感じない。双方に立場があるのは当たり前のことである。そういうのはいわば言わずもがなのことである。
言わずもがなのことを言うことが政治家の仕事なのか。それでは政治家の言葉とは一体何なのかということになる。
あえて言わずもがなに隠された本音を探るとこういうことになるのではないか。「我々にも国家としての面子や建前があるのですから、一応形だけでも領有権は主張せざるを得ないのです。そこの所をよくわかってくださいよ。実質的に竹島はあなたがたが支配しているのですから、日本は教科書等であくまで形式的に主張するということにさせてください。だから難しいことを言わないで、まあお互い仲良くしましょうよ。」
こういう言い方をするとご当人や自民党議員たちは烈火のごとく怒って否定するかもしれないが、日本の権力は元々そのような性質が強いのではないのか。本質的には国民不在のごまかしであると言える。また国内ではいつもそれで通用してきたのだ。問題を曖昧にし玉虫色の解決で現状を維持しようとする方法である。
しかし韓国は、「何を言っているんだ、そんなこと信用できるわけがないではないか。そういう二枚舌な態度は我々を見下しているのと同じではないのか。馬鹿にするのもいい加減にしろ。」ということになる。それで阿吽の呼吸ともいうべきような見事な協調で韓国の民間人は各地で日の丸国旗を燃やしたり、時には宗教家まで集結して(させられて)抗議声明を高々と唱えることとなる。
私はナショナリストであるから韓国のそのような官民一体となった激烈な行動に多くの日本人が嫌悪感を抱く気持ちはよくわかるのであるが、一歩踏み込んで考えて見ると韓国の民主主義は日本より遅れているのかも知れないけれど一面、健全であるとも言えないだろうか。日本のように言葉(形式、建前)と身体(実質、本音)が分離していないからである。民主主義の成熟に言葉と身体の不一致が必要不可欠なのかといえば必ずしもそうではなくてあくまで日本的なものだと思われる。
日本と韓国の問題は当然、歴史的な遺恨が根深く残っていて解消されていないことが主な原因であろうが、実質、実利を重んじる大陸的な感性と奇麗事の建前で問題を曖昧にして棚上げしようとする日本的な思考様式の対立という側面が大きいのではないかと私は考える。
日本が相手国と同じようにとことん実質、実利を重視した外交を展開すれば対立は益々深まって軍事的な緊張感が高まるではないかという意見もあるであろう。しかし本来領土問題とはそのような性質のものではないのか。
日本は外部に開かれた言葉(論理)を持っていないがゆえに全てを国内問題として対処しようとする。しかしそれでは対話のスタートラインにすら立てていないのである。日本人はもっと“言葉”の性質について鋭敏な感性を養わなければならない。