“洗脳”についての所感 | 龍のひげのブログ

“洗脳”についての所感

もう10年以上昔のことになるのかと思うと懐かしさすら感じるのであるが、私は1996年にオウム真理教の道場に話しを聞きに行った事がある。

その前年の強制捜査で教祖、麻原彰晃以下幹部たちが一斉に逮捕されオウム教団の凶悪な犯罪が世の中につまびらかに暴かれた。その後1年以上経っているにも関わらずオウムから離れることが出来ず“修行”に勤しんでいる信者は一体何を考えているのか。ある日、当時私が住んでいたアパートの郵便受けに投函されたオウム真理教のビラを見た私は、直接信者の話しを聞きたいと思うと知的好奇心も加わって居ても立ってもおれないような気持ちに苛まれた。それで、ついに電話連絡をした上で大阪にあったある道場に話しを聞きにいったのである。

オウムの道場に一歩、足を踏み入れた時に受けた強烈な印象は今も忘れられない。何もないのである。中央に祭壇が設えてあって大きな仏画が掛けられていただけである。信者たちが何人か部屋のなかにいたが、何ていうかその空間は真っ白なエネルギーに満たされていて異次元世界に彷徨い込んだような感覚に私は一瞬怯えた。修辞的な表現になるかも知れないが、その空間を満たしているエネルギーというものは、何かが“剥き出し”になっていて凶暴性があるようにすら感じられた。気の弱い人間なら、即逃げ出すのではないかと思えるような雰囲気だった。

しかし、私を出迎えてくれた男性信者はその異様な空間の雰囲気とは対照的にどこにでもいるような、ごく普通の印象で私が見た限り奇異なところはまったく感じられなかった。年齢はよく覚えていないが20代後半か30歳ぐらいであったかと思う。信者は、オウムに入信したきっかけを一生懸命に話してくれた。私が記憶している部分は、その信者はある日ある夢を見て、その夢の中にオレンジ色の僧衣を着た確かチベット僧が出てくるのであるが、そのオレンジ色の僧衣を着た僧が信者の前世なのだろうか、とにかく信者はその夢から目覚めた時に涙が止まらなかったのだという。その夢の体験がオウム入信にどう結びついていたのかも今となってはよく思い出せないがとにかくそのような話しであった。

私は正直なところ、その信者の話しの内容や思考回路に短絡的な部分も感じたのであるが、信仰とは総じてそのようなものかも知れないと思い黙って聞いていた。信者は私に対して、入信を勧めるようなそぶりはまったく見せなかった。私は話しを聞きながら、この信者は本当に“洗脳されている”と言えるのだろうかと首を傾げたくなるような思いにとらわれた。洗脳されているようにはとても見えなかったのである。あるいは洗脳されていたのかも知れないが、私が見た限りでは、たとえ短絡的な部分はあるにせよ己が信じる道を静かに歩んでいる青年としか感じられなかった。当時盛んに放映されていたTVでの信者のイメージとあまりにも異なっていたのである。

麻原教祖や幹部たちの一連の犯罪に対してどのように思うのか、私が聞きたいのはその部分についてであったのだが道場で信者の話しを聞いている内に聞けなくなった。いや聞きたいという気持ちが不思議となくなってしまったのである。

この人は自分の道を歩んでいる、その歩みを誰にも妨害することは出来ないのではないかと思うと、この人はこれでいいのだという気になってしまったのである。私とオウムとの接触はその時限りのことである。

“洗脳”とは一体どのような状態を指していう言葉なのだろうか。

私はその日、自分もまたその信者と同様に暗くて寂しい森の奥深くに一人で分け入っているような感慨を覚えた。