神の不在について
神は存在しない。
神という概念が存在する。
それでは、この私とは何なのか。
私は、概念ではない。
私は思い、考え、憤り、悲しむゆえに
生きている主体である。
概念は思考の客体であって、主体とはなり得ない。
神は祈られ、思考される客体であって、主体ではない。
ということは論理的に考えれば、
人間は己の主体性の内部に
神の概念を作り上げ、それを抱え込み
精神的に消化することによって
神という概念の客体に主体性を付与して生きているのであるといえる。
つまり人間が存在しなければ
神は存在しないのである。
動物は神に祈らず、思考しないゆえに
動物界に神は不要で、不在である。
人間と動物の決定的な違いは
神を思うか、思わざるかであるといえよう。
逆説的にいえば、神は不在であっても
人は神を思い、神を作り、神の主体性を信じるがゆえに
人間的であり得るのであるといえる。
或いは人間の神性とは、
不在の神を思い、追究し続けることによって
己の内部に目覚める何かなのではないであろうか。
概念としての神の客体性と自己の主体性が
人間の内側で融合し、
区別の境界が消滅し
超自然的に、神秘的に己を罰したり、裁くものが
何もないということが深く了解できた時に
人間は自由になり、進化するのであろう。
神を思い続けることは、実は神の不在への理解に至る道である。
この点において、世界中の宗教は間違っているのである。
宗教もまた政治と同様に
人間を奴隷化する一つのシステムなのである。
(吉川 玲)